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赤い雨  作者: 近江湊音
7/8

言い訳

 そうだ、君。一つ昔話をしてあげよう。何、別に真剣に聞かなくたっていい。ただの戯言だと思ってもらって結構だ。

 あれは何年前の出来事だったかな。

 僕は、妹を殺した。

 頬に当たる雨粒が痛い、大雨の朝だった。







 僕は、芸術家だ。もちろん自称として名乗っているだけじゃない。ちゃんと世界的に有名なコンクールにも数回受賞している名のある画家だ。

 しかし、どうにも僕の芸術は人には受け入れ難いものらしく、周りからの非難の声は騒々しいものだった。

 だが僕にとってそんな事は日常茶飯事。君たちは朝目が覚めて朝ごはんをとる前に、必ず顔を洗うだろう?そんな当たり前なこと、気にもとめない出来事なんだ。

 そもそも芸術とは、自分の思う『美』を追及するためだけの行為であり。そこに他人の考え、感想、好みなどは関係がないというのが僕の意見だからだ。

 僕はただ自分の美しいと思うものを表現しようとしているだけだ。

 あぁ、だからと言って僕のことを誰もが嫌っているのかと言えば、そうではない。

 この世界には僕の『美』を気に入ってくれている人は、少人数だが確かにいる。

 芸術家という肩書きが出来てから当然の如く現れた彼らの存在を、不思議に思うことはあるが、同じ 『美』を求め同じ『美』を好む同士がいることは心強い事だ。 

 何、言っている事が 矛盾しているか?いや、なに。芸術家とは孤独な生き物なのだよ。だからこそやはり他人に認められているというのは、高いモチベーションになるし、励みにもなるのさ。

 励み。励みか。そうだ、僕にとっての最大の励みは妹だった。



 妹は美しい。陶器のように傷なく、雪のように白く透き通る肌に、墨を垂らした黒く長い艶やかな髪。唇は鮮血がごとく赤く、官能的だ。瞳は邪心を知らぬ無垢な子どものままで、まつ毛はいつも濡れた鴉のように輝いていた。

 僕は彼女に心奪われ、肉親でありながらも、僕は彼女の持つ潜在的な色気に欲情し、彼女に陶酔していた。

 僕は狂ったように妹の姿を描き続けた。幾年も、幾年も。幾年も。

 しかし、筆に色を乗せ、キャンバスにいくら緻密なデッサンを描いても、妹の美しさは表すことが出来ない。

 あの白く雪のような肌の下に僅かに見える赤い血潮を、唇の熟れた果実のように潤ったあの朱色を。黒く長く伸びる髪の豊潤さを艶やかさを、僕は描くことが出来ないのだ。

 集中して、アトリエに数週間篭って作り上げた力作も、結局は全て妹の出来損ないなのだ。

 違う、違う。妹はもっと美しい!もっと可憐で、もっと艶美なのだと声を荒らげて僕は僕を慕ってくれている人に言いたい。

 貴方達が芸術だ、『美』だと叫び賛美しているそれは、僕の表現したい『美』ではないのだと。

 あぁ何故誰も分かってくれないのだ。僕が求める『美』はこれじゃない。こんなものではない筈なんだ!

 僕の、僕の力がまだ彼女に追いついてはいないのか。いいや、と皆は言う。そんなことはない、貴方は天才だと。レオナルド・ダ・ヴィンチを超える実力を持っていると。

 ならば、何故僕は僕の追い求めている『美』が描けないのだ!

 画家は描いていなければ生きている価値などない。僕は、もう死んでしまったのだろうか。

 僕は筆を置いた。アトリエも閉じた。

 僕は死んだのだ。描く気力を失ってしまったから。

 結局、僕のこの小さな手のひらでは、僕の追い求める『美』を描くことが出来なかった。でも、それでいい。僕は、僕の追い求めている『美』を描くことは出来なくても、見つけ出すことは出来たから。

 妹が、妹さへいればそれでいい。彼女が寄り添ってくれる時だけは、心が休まる。

 僕はその瞬間だけ、ボッティチェリの描いた『プリマヴェーラ』美しい神々のいる世界に行けるのだから。

 この世界がどれだけ汚く腐敗しているのかを、忘れられる。

 しかし、なんて事だ。時というものは酷く残酷だ。美しい妹の姿を、時は醜く汚い女性の姿に変貌させていってしまったのだ!

 髪は明るく土のような茶色に、肌には薄橙色のファンデーション。口には切り落とされた首から滴るような腐った血の色の口紅。

 おぞましい、穢らわしい。お前まで、私の愛していたお前まで、街の光に集まる蝿のような姿に変わってしまうのか。

 やめてくれ、やめてくれ!お前がいなくなってしまっては、お前がいなくなれば、この低劣極まりないこの世界を僕はどうやって生きていけばいいのだ。

 もういっそ、時を止めてしまおうか。ミロの『ヴィーナス』のように、いや『サモトラケのニケ』のように力強く、はたまたベルニーニの『アポロとダフネ像』ように生々しく。

 彼らの作り出した彫刻はどうだ、数百年とたった今現在でも変わらず美しく官能的な肉体をさらけだしている。

 そうだ、僕がこの手で妹を永遠のものにするんだ。

 そうすれば、未来永劫彼女の美しさは、僕の求めた『美』は失われない。そう思うと背筋が興奮でぞくりと震えあがった。





 そして遂に、妹は永遠のものとなった。

 雨が降っていて助かった、妹の体を作り上げていた血潮は雨に混じり薄まって冷たくなった妹を伝い、土に染み込んでいく。

 妹が自然と一体化していくようで、眺めていてとても心穏やかだった。

 やはり髪の色は元の色に染め直しておいて良かった。髪の長さがかなり短くなってしまったのは心残りだが、急いでいたんだから仕方がない。

 消えていく。命の色が失われていく。

 妹の肌はみるみるうちに色白青く変わっていく。その顔には苦痛さへ感じさせず、ただ眠るように横たわっている。

 溺死か出血死か悩んだけれど、後者を選んで正解だった。こんなにも美しく命が終わる瞬間を見られるなんて。

 さぁ、血が治まったら、純白のドレスを着せてあげよう。唇と頬には、血の気が無くなってしまうから紅をさしてあげよう。

 あぁ、美しい妹よ。哀れな妹よ。お前は死ぬ時が一番美しいとはなんと皮肉なことか。いや、違うこれは世の理、美しい者は、その死に顔こそが一番魅力的に目に映るのだ。

 今のお前の姿は川に落ち、溺れ死ぬことにも気付かずに、歌を口ずさむ『オフィーリア』。それとも己の姿に惚れ込み、溺れ死んだ愚かな童子『ナルキッソス』か。

 お前を殺さなくては、僕の求めたものは手に入らないとは、なんという悲劇か。でも悲しまないでくれ、僕が責任を持って『お前』という作品を世界に知らしめ、お前の美しさは未来永劫、世界から賛美されることに違いないのだから。




 そう信じていたのに。何故皆は分からない!何故そんなに嫌悪する目で僕を見るのだ!

 モラルがない?犯罪だ?違う、僕は断じて罪は犯していない。

 そうだ、何故?名のある芸術家なら一度は求めたであろう、美しき者の死を僕は現実に、この手で行った。ただそれだけの事だ。

 彫刻を彫るのと変わらない、僕の場合ただそれが生の物だったという、それだけの違いじゃないか。

 僕が罪を犯したというのなら、全裸の女性を描くことはなぜ罪ではない。何故丸裸の少年の姿を彫るのは罪ではないのだ。今のこの世の中は、裸体には必ず規制が入る、情報には厳しい世界じゃなかったのか。

 街で拾って集めたゴミをキャンバスに貼り付けただけで芸術作品と呼べるこの時代なら、『妹』だって芸術作品と呼べるだろう!

 僕は決して殺人に飢えた狂人ではない。ただ純粋に『美』を求めてきただけなのだ。

 簡単な事だ。しかし、そんな簡単なことを何故、理解しようとはしないのだ!

 それでもまだ分からないと言うのならば、問おう。何が芸術かを。どこからは芸術家で、どこまでが狂人なのかを。

 ははっ、分からないか。まぁそうだろう。ただ作者が著名であるかどうかの有無で、作品の善し悪しを決める君たちには一生理解出来るまい、この苦しみが。





 しかし、なんだか、やけに疲れてしまったな。

 あぁ、良いんだ。謝らなくて。僕も周りが見えなくて、昔のことを随分と熱く語ってしまったからね。

 ……今宵も強い雨が降っているようだ。先ほどから窓ガラスを叩くような音がして、煩くてたまらない。

 この雨が終わるところに向かえば、妹にまた出会えると思うかい。

 はは……いや、気にしないでくれ。言っただろう?ただの戯言さ。

 もう寝るのかい。そうだね。今夜はよく冷える。僕も早く寝てしまおうかな。心配してくれて有難う。君も、風邪を引かないようにね。

 あっ、待ってくれ。君に言いたい言葉があったんだ。まぁ。なんて言うか……僕は作家ではないから、上手い言葉が出てこないんだけど。

 今まで匿ってくれて有難う。……さようなら。







翌朝、都会から離れたとある田舎街の海岸で、一人の画家の遺体があがった。


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