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赤い雨  作者: 近江湊音
3/8

雨の日の青年(2)


「前田さんって『銀河鉄道の夜』のどの場面が一番好きなんですか?」


「……えっ」


 夏でもないのに、二十度越えの気温が続いたある雨の日。雨宮さんはふと思い出したようにそう尋ねてきた。

 ちなみに雨宮さんの今日の格好も、ラフなYシャツとジーパンです。跳ねた毛も忘れずに。

 え、いや。そんな着の身着のままぶらっとコンビニ行ってくる、みたいなテンションで聞かれても困るのですが。まぁ、困っているのは自分の嘘のせいなので、自業自得なんですけど……。


「もしかして、前田さん。しっかり『銀河鉄道の夜』を読んでいなかったり……?」

 す、鋭い……。

 だけども、もちろん「さっすが雨宮さん!大正解です!」なんて言えやしないので、ぐっと押し黙っていると大きなため息を吐かれた。


「……そんな気はしていました。前田さんあれから一回も『銀河鉄道の夜』の話題も出しませんし。まったく、変な嘘を吐きますね。嫌いなら、嫌いと言ってくれて構いませんのに」


「別に嫌いじゃありませんよ!しっかり本は読んでますし!……途中までですけど」


「どこまでですか?」


「二人が雁を食べてるところです……」


「なんだ、俺が好きな場面まであともう少しじゃないですか!」


「雨宮さんはどこの場面が好きなんですか?」


 これは良い話題変更のチャンス。また「どうしてその先を読まないのですか?」なんて聞かれないように、押せ押せの勢いで、雨宮さんに問い詰めた。

 雨宮さんは少し困ったように眉を寄せる。


「……好き。ですか。好きなのかどうかは曖昧なのですが……」


 答えながら、大事そうに夜空色の表紙をそっと撫でる。もうボロボロで、ところどころにシミとシワができてしまっている年季の入った表紙を。


「この話の最後の方に、外国から日本に帰国する際に事故にあってしまった三人の兄妹が出てくるんです。彼らの乗っていた船が沈没してしまって。救助ボートは半分ダメになってしまったし、せめて妹たちだけでも助けようと、その三兄妹の長男はボートの近くまで行くのですが」


「ですが……?」


「そのボートにたどり着く道には、もうすでに多くの子ども達や家族たちがいて。彼は結局妹たちをボートに乗せることが出来なかったんです。彼には我が子を必死に逃がそうとする両親たちを押しのけることは出来ずに、結局その三兄妹たちは溺れ死んでしまった……。そんな彼らの話を聞いてカムパネルラ達は考えるんです。人の幸いとは何かを、そして決意するんです、二人で、人にとっての幸いを探しに行こうと。どこまでも」


「……雨宮さんはその場面が好きなんですか?」


「好き。好きというよりも……これは僕にとっての戒めなんです」

 雨宮さんの、綺麗に爪の切り揃えられた指先が、表紙の上でくるりくるりとワルツを踊るように滑る。


「考えてしまうんです。彼らの言葉を見て、俺はどうだって。俺は、大切な人の『幸せ』のために、何かをしていただろうかって。……いや、俺は何もしなかったんだ。俺は今までずっと『幸せ』を貰うばかりで、誰にも『幸せ』を返せていない。無償で与えられる無限の『幸せ』に甘えて、それを当たり前だと勘違いして。俺は結局何も返せなかった。迷惑しか、かけていなかった。大切なたった一人の人にさえ!」

 

 夜空がぐしゃぐしゃに丸められて、雨宮さんの手の中に握られている。

 雨宮さんは声を荒げたことを恥じて、小さな声で「ごめんなさい。こんなこと言ったって、分からないですよね」と謝った。

 いつも猫背の背中がさらに丸まって、まるで野良猫に威嚇をされているみたい。ぷるぷる震える背中、頼りがなくて小さな背中。


「それは、雨宮さんのようにならないと、分からない事ですか」

 

 ハッと雨宮さんの瞳が大きく見開かれた。信じられないと言いたげなその瞳。


「……よく、大切なものは失ってからじゃないと気が付かないと言いますけど。あの言葉は残酷にも正しい。例え、どれだけ日常の些細なことにも、注意を払って用心深く生きていても、本当に大切なものは失ってみないと、その価値を見出すことは出来ない。我々の瞳は幸せな光景に見慣れすぎていて、何が、どれだけ大切なのかを見抜けなくなっているんです。まぁ、俺は失った側じゃなくて、失われた側なんですけどね」


 雨宮さんは、皮肉気にそう吐き捨てた。


「私は……何かを失ったことなんてないです」

 

 家はある。お金もある。食べ物も着る服にも困らない。学校にも通えているし、幼馴染の大切な親友もいる。


「だから本当に大切なものに気が付かなかったとか、そんな後悔したことないけど」


 この中で一番何が大事かなんて聞かれたら、自分の恋路しか考えていない私は、『雨宮さん!』なんて見当違いな答えしか出せないだろうし。

 人にとっての幸せだとか考えたことがない。だって、毎日ただ生きてるだけで幸せだから。


「雨宮さんは、誰かを幸せに出来ない人なんかじゃないって事だけは、分かります」


 貴方の顔を見るだけで、幸せだから。

 えっと、雨宮さんの意外そうな顔が私をとらえる。


「誰かを幸せにしてこなかったなんて。そんなことないですよ。だって雨宮さん、いつもここでお菓子を

買う度に、言ってくれるじゃないですか。『前田さん、今日もお疲れ様』って。それだけで、私すごく幸せなんですよ」


「前田さん……」


 ただ見ているだけの恋だった。それがいつの間にか、彼の名前を知って、名前を覚えてもらって。私のことを気にかけてもらえるようになった。それが、それだけの事が、どれだけ嬉しかったか。


「大丈夫です。雨宮さんはちゃんと人を幸せに出来る人ですよ」


「前田さん。いいえ、違うんです。俺は、そんな貴女が思うほど優しい人じゃないんです!」


「貴方から見た『雨宮さん』なんてどうでも良いんです!私から見た『雨宮さん』が重要なんです!雨宮さんは、すごく優しくて、気配りもできて、大人で、ステキで……」


 雨宮さんの顔が、苦虫を噛み潰したような表情から。驚いた顔になって、だんだんと赤に染まっていく。

 雨宮さん困ってないかな。聞き飽きてないかな。心配になるけど。それでも、大好きなところが浮かんで浮かんで、仕方がないのだ。

嬉しいな、それだけ私が雨宮さんを見てきたって証拠だから。それだけ、私が雨宮さんの事が好きってことだから。

 雨宮さんの良いところを優に二十は言い終えた時からだろうか、目の前の小刻みに震え出す肩。


「……雨宮さん。もしかして泣いてます?」


「……泣いてないです」


 嘘つき。返ってきた声は明らかに鼻声で、ちょっとだけ震えていた。







「ねぇ。ハルちゃん。やっぱり私この話嫌い」 


 夏休みも間近に迫ったある日のお昼休み。ハルちゃんはきょとんとした顔で私を見た。


「この話って、『銀河鉄道の夜』のこと?」


「そう」


「何で」


 ハルちゃんは、こんな素晴らしい作品が嫌いなんて信じられないって、責めるみたいに尋ねてくる。嫌だな、価値観を押し付けてこないで欲しい。悪質な宗教団体みたいに。


「だって。悲しくなるんだもん。まさかカムパネルラが死んでるなんて思いもしなかったしさ。それに……何で、カムパネルラは約束を破って、一人で行っちゃったのかな」


「『どこまでもどこまでも一緒に行こう』……か。仕方ないよ、生きてる人をあの世に連れては行けないし」


「何で。生きてるか死んでるか、ただそれだけの問題でしょ?親友なら、大好きな相手なら何処までも一緒に行きたいって思わないの?」


「……まぁ考えることは人それぞれだしさ。それより、ほら。これ、なーんだ?」


逃げるように話題を変えたハルちゃんは、得意げに顔の前で白い紙を二枚ひらひらと揺らした。


「何って……ごみ?」


「んな訳あるかい!せっかくこのアタシが協力してあげようと思ってるのに、何言ってんのよこのバカ!」


 ぱんっ!と顔面に勢いよく紙が投げつけられる。待って、紙ってこんなに痛かったの。衝撃的な痛さに私涙目になっちゃう。

 ひりひりとする鼻を抑えながら、乱暴に渡された紙くずを裏返してみる。


「……えーっとなになに……。花火大会特別招待席券!?」


「そうよ。たまたまお母さんの知り合いの人から貰ったの。折角だし理央と一緒に行こうと思ってたんだけど……。夏休みといえばカップルがイチャつける絶好の季節!アンタもあの人とイチャついてみたいでしょ?」


 腕を組んでつっけんどんにそう言い放つハルちゃん。でも私は見逃さなかった、ツーンとそっぽを向いたハルちゃんの目元が赤く染まっていたことを。

 ハルちゃん、まったく、相変わらず素直じゃないんだから。そのチケットを取るのにすごく苦労したんでしょ、きっと。


「な、何よ」


「……良い親友を持ったな~っと思って」


 思わず口角が上がってにやついてしまう。口調はぶっきらぼうで冷たいけど、ハルちゃんはいつも私の事を思って行動してるの、私は気が付いているからね。ハルちゃんが私の事大好きなの、知っているからね。


「ありがとう!ハルちゃん~!」


 アイラブユーの気持ちを込めて、手に握られていたチケットを受け取ろうとすると、さっと後ろに隠されてしまう楽しい未来へのチケット。


「その前に一つ確認!相手の年齢って幾つ?確か小四の時ぐらいで二十歳でしょ?三十代近くてJKと夜の町を一緒に歩くって、割と危ないからね……」


「周りの視線が」とハルちゃんは小声でそう付け足した。心優しいツンデレの幼馴染は、私が援助交際の疑惑をかけられることを心配してくれているのだ。どこまで世話好き、どこまで心配性なんだろう、この同級生は。


「そのことなら大丈夫だよ!問題ない!だって雨宮さんはまだ二十歳ぐらいだもん」


「……え?」


 ぴたりと、ハルちゃんの動きが止まった。

 え。あれ。何でそんな驚いているの。片方の頬だけ吊り上げちゃって、今最高にブサイクな顔してるよ、ハルちゃん。


「そんなにびっくりする事?だって、私ちゃんと言ったじゃん。幽霊に会ったことあるって」


 呆然とするハルちゃんの手から、そっと二枚のチケットを抜き取った。







 雨の日。今日も雨宮さんはやって来た。いつものYシャツとジーパンを履いて。それとやっぱり後ろ髪は跳ねたまんまだ。でも、今日はいつもよりもネコみたいな背中がさらに丸まっていて。なんだか元気がなさそうに見えた。


「こんにちは雨宮さん!」

 

 元気よく挨拶をすると、いつものように微笑まれた。元気じゃないこともないのかも?


「こんにちは、前田さん。あれ、なんだかご機嫌ですね。学校で何か良い事でもあったんですか?」


 良い事と言われれば、そりゃとってもすごく良いことですよ。でも貴方がいなければそれは成立しない。だからやっぱり貴方が来てくれたことが、私にとっての一番の嬉しさで、喜びです!なんて、言えないけど。心の中は大はしゃぎ、騒いで暴れて騒がしくってありゃしない。

 心のざわめきを落ち着かせて。良い、私ここはあくまで、騒がず大人でクールな私でいくのよ。そう、私はクールなオフィスガール。冷たい視線で男たちを虜にしてきたのです。


「実は友人から花火大会の招待券を貰ってしまって……」


「花火ですか……。そっか、もうそんな季節ですか。招待券貰えて良かったじゃないですか!仲のいいお友達と行ってきたらどうです?」


 あっ、これダメな奴だ。雨宮さんには雨宮さん自身が私と花火大会に行くっていう選択肢はないみたい。もうちょっと積極的にアピールしてみようか。


「でもちょうどその日、皆他の予定が入ってしまっているみたいで……」


「それは残念ですね。それじゃあ家族と行ってみたらどうでしょう?友人との思いでも大切ですが、やはり家族と過ごす時間が一番ですし」


 作戦失敗。そう言えばそうだった。雨宮さんはこういった事情疎かったんだった。この人は乙女のささやかなアピールに気が付いてやれる、スマートな人ではなかった。

 何とも言えない微妙な顔をする私に、雨宮さんは首を傾げて「どうしたんですか」と笑う。

そんな動作一つ一つに、私は可愛い子犬を思い出してしまって、勝手に一人悶えて胸を高鳴らせてしまうのです。……はぁ、もういいや。雨宮さんのこういう鈍感な部分も、好きなんだから。


「家族も良いんですけど……。あの、良かったら、雨宮さん一緒に行きませんか?」


 雨宮さんの反応が見たくなかったから、がばっと勢いよく頭を下げて二枚のチケットを差し出した。驚くかな、それともまだあまり喋ったことのない女子高校生に突然花火大会に誘われて、ドン引いてたりして。だとしたら、もう立ち直れないかも。今日が前田理央の命日になったりして。

 雨宮さんが小さなため息を吐いた。

 どんな答えが返ってくるのか、私は身を引き締めて、じっと彼の言葉に耳を澄ますけど。


「酷いな、貴女も」


 その答えは、私が予想したどの答えとも違っていた。


「……雨宮さん?」


「分かっているのでしょう。俺がその花火大会に行けない事くらい」


「……どうして」


 どうして。突然のお誘いで予定が合わなかったから。女子高生と二人で夜の街に行くことに恐縮している。ううん、違う。雨宮さんが言っていることはそんなことじゃない。私が知っている事、気が付いている事。雨宮さんが知られたくなかった事。


「雨宮さんが死んでいる事って、そんなに問題なんですか」


 雨宮さんは、もうとっくの昔に死んでいる人間で。実は幽霊だったって事。

 雨の日にしか現れない人。毎回同じの、Yシャツとジーパン姿で現れて、髪型は同じところが常に跳ねている。年も取らずに、姿も変わらない貴方に違和感を覚えたのは最近の事じゃない。

ずっと前から、貴方が普通の人間じゃないことに気が付いていた。でも。


「死んでいるか生きているかなんて、体が有るのと無いだけの違いじゃないですか!魂があれば、感情があれば大差なんてない、問題なんてないじゃないですか!」


「前田さんは、どうしてそこまでして俺に執着してくるんですか」


「……好きだからですよ……」


 好きだから。大好きだと思ったら、もうどうでも良かった。貴方が化け物でも幽霊でもなんでも。私は貴方が好き。だから傍に行きたいし、ずっと一緒に居たい。それじゃあダメなの?

私はジョバンニとカムパネルラのようになりたくないの。死んでいるからとか生きているからとか、そんな簡単な問題で、離ればなれになりたくないから。


「前田さん。見て」


 すっと雨宮さんが私の腕を取る。異常に冷たくて硬い指先が私の皮膚にくいこむ。


「ほら、よく見ると透けているでしょう?」


 雨宮さんはそう言って、私と自分の腕を電球の光に透かして見せた。

 私の皮膚には、血潮の赤が透ける。でも雨宮さんは、雨宮さんの皮膚には、何の色も浮かばない。向こう側にあるはずの電球が透けて見えた。どんどんどんどん、皮膚の色は透けていって、向こう側の景色が鮮明に見えてくる。


「これが、体を持つ人と持たない人との大きな違いですよ。俺の体はこんなにも脆い。今にも消えてしまいそうでしょう?」


「雨宮さん……まさか」


「実は、今日。お別れを言おうと思っていたんです」


 その言葉は、ストンと静かに胸に下りた。

 雨宮さんの優しい笑みが、苦しい。苦しい、胸が苦しい。

 目を開けば、そこは水の世界で。ぶくぶく、ぶくぶく、いっそ溺れ死んでしまえばいいのに。そうすれば、雨宮さんとずっと一緒にいられるのに。どこまでも、ずっと銀河鉄道に乗って旅を続けられるのに。

 そっと雨宮さんが私の頬を伝う涙を拭おうとして、涙が指をすり抜けて顎元まで流れてきた。

 雨宮さんは悲しそうに笑った。

 もう、私の涙に触れられないくらい。貴方は遠くに行ってしまったんですか。


「前田さん、泣かないで、喜んでくださいよ。……ねぇ、どうして俺がようやく向こう側に行ける事になったんだと思います?」


「……分かんないですよ」


「貴女が、俺の欲しかった言葉をくれたからですよ」


「……そっか、言わなきゃ良かったな。あんな事」


「あんな事なんて……。俺、嬉しかったんですよ。『誰かを幸せに出来ない人なんかじゃない』って言われた時、ようやく許された気がしたんです。自分の罪からようやく解放された気がしたんです」


「でも、それで雨宮さんがどこか遠くに行ってしまうのなら、やっぱり言わなきゃ良かった」

 

 そっと雨宮さんの手を引いて頬をすり寄せる。感覚がない、温度がない。本当に消えてしまうんだ、こ

の人は。

 水のように、確かにそこに在るのに感触を感じられない。それがこんなにも虚しいなんて、思いもしなかった。

 あの死人の様な手が恋しいです。私を甘く痺れさせたあの指先が愛しいです。


「雨宮さん。私を一緒に連れて行ってください。私、嫌なんです。『銀河鉄道の夜』のあの結末が気に入らないんです。だってそうでしょう?大好きな雨宮さんと一緒にいられるのなら、私死んだって構わない」


「前田さん……」


「雨宮さん。一緒に行きましょう?一緒に人にとっての幸いを探しに行きましょう?」


 彼は一人で行ってしまったけど。私たちは二人で、手を繋いでどこまでも行きましょう?怖い事があれば、私が手を握って支えてあげるから。だから、ねぇ。


「ダメですよ。俺は貴女を連れて行けない。だって前田さん、死んでないじゃないですか」


「また。また生きているとか、死んでいるとかの話ですか!そんなの、関係ないって私言ったじゃないですか!好きならそんなこと大した問題じゃないって!」


「貴女が関係ないといっても。世の中がそれを許さないんです」


「……世の中?」


「昔から、言われ続けているじゃないですか。死人は肉体を失い魂だけの存在となって天上に行く。そこでまた輪廻の輪を巡り巡って、新しい命へと生まれ変わるのです。そこに生きてる人は連れて行けない。連れて行ってはいけないんです」


「じゃあ、私を殺して?」


「……ごめんなさい。俺は、人を幸せにする事が出来ないダメ人間だから」


 今。そんな冗談を言う場合じゃないのに。

 どうして、そんな幸せそうな顔で笑っているんですか。どうして、こんな最後の場面で私の大好きな顔をしているんですか。

悲しくなってしまう、寂しくなってしまう。もう二度とこの笑顔が見れないだなんて、そんな。心残りを残して逝かないで。


「恨んでやる。私を連れて行かなかった事。ずっと、ずっと恨んでやりますから」


「じゃあ俺も、貴女がもし俺を追って自殺なんかしたら許しませんから。絶対に祟ってやって、何回でも未遂に終わらせてやりますよ」

 

 温かさも、鼓動も何もかもが消えていく。消える。本当に。消えてしまう。幻の様なものが幻になってしまう。それなのに体は動かないで、言いたいことも胸につかえて出てこない。

 雨宮さんはとても穏やかな顔していて。覗き込んだ瞳にはもう悲しみの銀河はなかった。あるのは希望の銀河。彼はようやく、自分の逝く先を、向かうべき場所を見つけたのだ。


「……雨宮さんは、人を幸せに出来ないダメ人間なんかじゃないです」


「……そうでしたね。貴女だけは俺にそう言ってくれましたよね。じゃあ、最後くらい前田さんの幸せになることをしなくちゃ」


 もう一度、雨宮さんがそっと私の頬に触れようとする。

 その時、一瞬だけだけど。雨宮さんの指先に温かみが宿った気がした。まるで、生きている人間のように。

 ろうそくの炎のように。微かな淡い温かさだけど。それは生きているっていう大事な証。ここにいるっていう大事な証。


「理央。有難う」


 そっと一粒の滴が拭われる。


「……雨宮さん?」

 

 内緒話をするみたいに、小声で呼びかけてみた。

 外では雨がしゃあしゃあと優しく降り注いでいる。

 返事が返ってくることは、もう二度となかった。





 酷い人だった。

 死人っていつも勝手。元気で暮らしていてねとか、僕がいなくなっても笑顔を忘れないでねとか、そんなの無理に決まってるじゃん。好きな人がいない世界って、もう生きてる価値が無いんだよ。生きる意味を、失っちゃうんだよ。

 告白の返事も口でしてくれないし。死なせてもくれないし。


「連れてってもくれないしねえ」

 

 満天の夜空の下。継ぎ接ぎだらけのボロボロの服を着たジョバンニがそう言った。目元が赤い、泣いたのだろうか。


「生きてるとか死んでるとか、どうだっていいから。傍に居たかっただけなのに」

 

 でもあの人はもう行ってしまった。鉄道はもう行ってしまった。

 やっぱりこうやって終わってしまうんだ。私の大嫌いな結末に。


「あの人が行ってしまった時、お姉さんは泣かなかったね。どうして?」


「……どうしてだろう」

 

 そっと頬に触れてみる。まだ確かに残っている、あの人の体温が。声が、表情が、感情が。

 声に出さなくても分かるよ。あの時、貴方が何を伝えたかったのか。

 目を閉じれば浮かぶあの人のあの笑顔、なんてありきたりな歌詞じゃないけど。


「……幸せだったからかな」

 

 彼の瞳の中には私がいて。私の瞳の中に彼しかいなくて。

 涙で霞んでぼやけて。あぁ。あの瞬間だけは、私が見ていた水の世界が現実になったんだ。

 幸せだった。言葉は少なくて、触れ合っていたのだって一瞬だったけれど。あの人の感情が、「大切に思っていた」って言葉が、溢れるみたいに流れ込んできて私を満たして。幸せだった。

 幸せだったんだ。


「……そっか。あの人、お姉さんの幸せになれたんだ。だからあっち側に行けたんだね」

 

 この広大な夜空の中で、一つだけ、とても眩く輝く点。ぱっ、ぱっと規則的に瞬く


「……うん」

 

 私はそっとジョバンニの手を握った。今にでも泣き出してしまいそうなのを、必死にこらえていたジョバンニは私の手を強く、強い力で握り返した。

 私たちは空を見上げる。夜空の彼方に消えていく、大きな背中と小さな背中を見つめ続ける。瞼の奥にその姿を焼き付けるように。

ぱっぱっと規則的に瞬いていた光は、だんだんと小さくなって、やがて夜空の闇に紛れて消えていった。

 彼らは人の幸いを探しに、長い、長い旅に出たのだ。







 今になっても雨の日には思い出す。

 あの不思議な青年と過ごした。夢の様な世界を。いや、もしかしたら実際夢だったのかもしれないだけど。

 雨宮達という名前と、銀河の中を歩いていくあの後姿を鮮明に覚えている。


「後悔してる?」


 ふと誰かにそう問われているような感覚に陥ることがある。

 それは、雨宮さんに思いを伝えたことを?それとも話しかけてしまったことを?『銀河鉄道の夜』を手に取ってしまったことを?一緒に逝けなかった事を?

 確かに結果は歓迎していない最悪のバッドエンドだったけど。

 それでも、うん。後悔なんかしていないよ。

 だって、化け物だろうが、幽霊だろうが、雨宮さんに恋をしたこの気持ちは、決して無駄じゃなかったと、胸を張って言えるから。こんなに幸せな気持ちにさせてくれて、文字通り私は幸せ者だったから。

 胸の痛みはまだ癒えないけれど。それでも前に進もう。

 少しずつでも、一歩ずつ前に進んでいく。

 きっと、あの人もはるか遠い。銀河の空の向こう側を、カムパネルラと手をつないで人の幸せを探しているから。

 私も残されたこの生きるもの達が済む世界で、人にとっての幸せを見つけるんだ。

それで、もし、いつか。お互いに銀河と地球を捜し歩いて、もしも偶然出会ってしまったら。それはそれで、夢みたいで素敵じゃない?なんて思いながら。

 今日も私は夜空色の本を読んでいる。


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