赤い雨
空は灰色で、雲はどす黒い。太陽は目が痛いほど真っ白で。雨は体内に流れる血のように真っ赤だ。
それが普通。これが日常であり常識だった。
でも、私はこの雨が嫌いだ。
頭上から線をかいて落ちてくる赤い雨。
ポツポツと不規則に流れ落ちるそれをみていると、手首がぞわわとむず痒くなる。
まるで自分の中から血液が抜けていっているようで、死んでいくみたいだから。
何時もの帰路。バスから降りた途端、ポツポツと地面を打っていた小雨がザァザァ振りになってしまった。撮りためていた録画見ようとしてたんだけどな、だけどまぁどうでもいいか。ただ憂鬱気にぼんやりと先の見えない真っ黒な雲を眺める。
「この中を突っ切って行くんだとしたら、やめときな」
かけられる声。振り向くとそこには知らない青年が時刻表にもたれかかるようにして立っていた。
青いシャツに赤いネクタイ。紺のセーター。幼さの残る面立ちからして高校生だろうか。
キョトンと間抜けな顔をした私に微笑み手に持っていた傘を差し出してくる。
え。と驚いて身を引く私の右手を掴み、強引に青色の傘を渡す青年。
「僕は家が近いから大丈夫。君はこんな大雨の中、走って帰るのはやめた方がいい。家に着いたころには全身真っ赤になっているよ」
まるで虐殺現場に居合わせたみたいにね。と青年は皮肉気に付け足した。
その爽やかな容姿に似合わない、この世の人生はどうにもならないと達観してるような、年寄りくさい笑いが少し引っかかる。
「ありがとうございます。でも遠慮しておきます。私も別に家は遠くないので大丈夫ですよ」
ぎこちなく頬を吊り上げて、そう答えた。
青年はこちらを見ずに、うーんとしばらく考え込むと。
ゆっくりと、まるで首が錆び付いて動かないみたいに、ギリギリとこちらをみた
「そうかもしれない。でもやっぱり君が持っているべきだ。それが僕にできるささやかな罪滅ぼしだから」
罪滅ぼし、彼は私になにかをしでかしてしまったのだろうか。
まったく覚えがないのだけれど。妙に言葉がストンと胸に落ちたのが、落ち着かなくて気持ちが悪い。
「僕がね、昔聞いた話では。空は青いらしいんだ」
「そうなんですか。でも私にはどうしたって灰色にしか見えないですけど」
青年が突然素っ頓狂なことを言い出した。その意味は理解できないけど、無視するのも人が悪いと思って、適当に返事を返したら、青年は「僕も」と言って笑った。じゃあこの人はどうしてそんなことを私に言ったのだろう。
「君はどうして空が灰色なのか知ってる?」
「え、それは…」
答えようとして顔を上げる。青年と目があった。
よくよく見てみるとくっきりとした二重に大きな黒目。まつ毛は長く柔らかそうに下に向かって生えている。
青年は目を逸らさなかった。その瞳の中に私を迷い込ませて、離してくれない。
ごくりと生唾を飲み込んだ。背中がぶわっと毛羽立つ。嫌な汗が伝っていくのを感じる。
私は彼をみたことがあるような気がした。今のような距離で、こんな至近距離で、この瞳をみたような。
「それはわからない。だって生まれたときから空は灰色だったもの」
逃がしてくれないならせめてと、青年を睨みつけた。
しかし彼は私の思いを知ってか知らずか、空を仰ぎ見て深いため息を吐いた。まるで肺の奥底から根こそぎ絞り出すみたいに。
「僕は知ってるいよ。これはとある『少女』の悲しみが作り出した空なんだ。悲しんで、悲しんで、行かせたくないっていう彼女の必死な願いからこのどす黒い空は生まれた。この真っ赤な雨は彼女の心の傷口から止まることなく流れ続けてるんだよ。今も変わらずにね」
青年を見習って空を見た。
なんだ、それ……。
この雲が彼女の深い悲しみから生まれたとして、目の前の何処でもある灰色のアスファルトに、ばしゃん、ばしゃんと叩きつけられているただの液体が、彼女の悲壮な願いから生まれたとして。それがなんだというのだろう。それが、決定的に重大な出来事を、この世界に起こしたとでもいうのだろうか。
「……へーそれは知らなかったなぁ。可愛そうだね、その女の子」
たとえ彼の言うことが真実だとしても、私はどうだっていい。私にはどうすることもできない。私は「可哀そうだ」と言って、心をちくりと少し痛めてあげるだけだ。
「そうだね、きっと辛いよね」
その瞬間叫び声みたいに甲高い音がして、空に白の稲妻が走り、無慈悲にも彼女の願いはアスファルトにあたって跳ね散った。
サラサラと、キラキラと景色が反射する。世界が反転して見える。
あれ。私、この世界見たことある。
私の体が浮いている。遠くに二つの光が瞬いてる。回りに浮いているのは赤い、雨?
何かが見えそうで。届きそうで。あともう一歩というところで、足をぐいと引っ張られた。
ここにいて、感じるはずのない感触に下を見て、サァーッと血の気が引いていく。
真っ赤な液体が、まるで意思をもった軟体動物にでもなったみたいに足に絡みついていた。ぐにぐにして タコみたいだ。気色悪い、私は軟体動物がこの世界でなによりも一番嫌いなのに。
「ねぇ君。傘を開いて」
青年の声に慌てて傘を開く。大きすぎて、視界が鮮やかな青で埋まって目がチカチカする。少年が言っていた、空の色。
「ねぇ、何が起こってるの!?」
「大丈夫だよ。君は安心していて」
大丈夫?どこが。青年の指先にも首元にも額にも、グニャリとひん曲がった赤い液体が巻きついていて、すごく苦しそう。息が出来なくて、ぜーはーぜーはー呼吸が乱れる。
しかし、彼は笑っていた。全てを知っていたように。全てを受け入れたのかのように。
不思議なことに、傘を差した私の周りだけには、赤いそいつはこなかった。
ただ、呆然とする。青年はみるみるうちに飲みこまれていく。清々しい笑顔がだんだんと赤に埋もれていく。
気がつくと、瞳の上からしか彼が出ていなかった。
「貴方も早く!この中に!!」
叫びながら、傘を差し出そうとしたその時、ぬるりと、手に生き物の糞のような、嫌な生暖かさを感じた。
私はそこでようやく己の手が雨ではなく。誰かの血で汚れていることに気がついた。
「ごめんね、あの時たまたま隣にいた君の右腕を、僕が掴んでしまったから、君も巻き込まれてしまった。怖かったんだ、一人であちら側に行くことが。だからとっさに、君も一緒に連れて行ってしまおうかって考えたんだ。でもそんなのって自分勝手だよね。君だってまだやり残したこと、後悔していること、たくさんあるだろ?僕もそうだったけど。やっぱり僕には、君の未来は奪えないって思った。だから僕は一人で行くよ」
にっこりと目元を細めてあどけない笑顔。
「君はそっちでまだ、生きていて」
それが最後になった。
ポツンと仲間はずれに出ていたてっぺんも、赤い液体に埋まった。
世界が赤で染まった。けど私はまだ染まれない。仲間はずれのままだ……。
遠くから『少女』の泣き叫ぶ声が聞こえる。
まるで頭の中で大きな鐘を鳴らされているみたいだ。
『少女』の悲痛な泣き声は、頭が割れそうなほど騒がしいのに、意識はどんどんと遠ざかっていって。
滲んでいく赤の世界を瞼の裏に焼き付けて、私はゆっくりと、黒の世界に落ちていった。
重くて、開けたくもない瞼をむりやりこじ開けるようにして、私は目が覚めた。
初めに目に入って来たのは、普段滅多なことでは泣かない母親の涙と鼻水で汚れた顔だった。正直汚いなと思った。
私が目を開いたのを確認した瞬間。頬を上気させて、涙ぐみはじめる。
それが嬉し泣きであることくらい。朦朧とした意識の中でも判別できた。
「よかった…本当によかった…事故にあったって聞いたときは、生きた心地がしなかった…」
「事故……?」
「一緒に男の子も轢かれたって話だけど彼の方はまだ…。でも貴女だけでも戻って来てくれて…」
やけに白い天井。手首に差し込まれた幾つものチューブ。全ての出来事が遠いどこか他人のことのように思えて、まだ夢心地でうつらうつらと瞼を閉じかけたとき、頭の中を思い切り揺さぶられるような泣き声が聞こえて来た。
隣のベット。仕切られたカーテンから除くやけに白く、だらんとだらしのない手。
ベットに横たわるその力なき影に、覆いかぶさる小さな『少女』の影。
小さな『少女』のむせび叫ぶような、鐘の音のようながぁんがぁんと脳が揺れる泣き声。
まだそれらを、遠いことのように感じながら。私たちを閉じ込めたのは彼女なのだと知った。