〈カーニバル〉概念から考える「インターネット」と「孤独」の関係
ミハイル・バフチンに「カーニバル文学」という哲学概念がある。これを単純に定義する事は難しいのだが、とりあえず、様々な相異なる要素、人間、意識、声のようなものが一つの広場的な場所で出会い、関わりあい、葛藤する…そのようなものとして考えたい。
バフチンは「カーニバル」の例として様々なものを考えている。その極限はドストエフスキーの長編小説であり、また歴史を最初に戻せば、ソクラテスの対話もカーニバルだ。それらはそれぞれに違う意識や声が混然一体となって一つのものに融合されている。
この時、重要な事柄は、例えば、それぞれの持場をそれぞれが離れているという事だ。貴族は貴族であり、貧民は貧民であり、互いに離れた場所でいがみあっているようでは「カーニバル」とはならない。貴族であろうと貧民であろうと、彼らは広場に強引に引きずり出され、自らの全てをさらけ出し、他者と葛藤する事を宿命付けられる。そこには、貧しいものが富んだものよりも優勢だったり、権力のないものが権力あるものより上位にくる事はあるだろう。しかし、それはヒエラルキーとしての、権力意識、政治的な発展という道を取らず、むしろ滑稽さやユーモアとして現れてしまう。ここでは全てが平明であるが故に、それぞれは自らの、社会的立場やその他様々な衣装の背後に隠れている事はできない。ここでは全てがさらけ出され、全ての個人が己とは何であるかという事を、他者との葛藤を通じて思考していかなければならない。
バフチンの「カーニバル」という概念は概ねそうしたものだが、これは現在のインターネット空間にそのまま当てはまるのではないかとふと思った。例えばインターネットの「掲示板」においては、それぞれの人間の社会的立場は消去され、一つの言説、声に還元される。それぞれの人間が現実において何であるかという事が消え、インターネットは純粋に、それぞれが一つの声であり、視覚的表現とか、そうしたものに還元されてしまう。ここでは人間は現実的存在である事をやめて、インターネットというカーニバル空間を構成する一要素となる。
とはいえ、ここにはある問題があると僕は思う。このようなインターネット的、カーニバル空間においては、ソクラテスの対話のような意義ある対話は全くといっていいほど行われない。確かに、インターネットは全ての要素を一つの声、意識に還元して、現実存在を忘れさせる。しかし、本来的にカーニバルが成立するには、それぞれがなんらかの形で価値ある言説や存在を負っていなくてはならない。この事はもしかしするとバフチンは指摘していなかったかもしれない。
何がいいたいかと言うと、ネットも…そしてネットを通じた現実も、多数の声が一つの概念に還元化され、大衆の一方向への過度の普遍化が働いているという事だ。これは、ニコニコ動画のコメントなどを見ても明白で、そこでは意義ある、価値ある会話は行われないし、求められてもいない。2chでも同様であり、異質性、多様性が一つの場所に包含されているようでありながら、実は一つの平板な概念に全てが流入しており、ここではカーニバル化は行われていない。こうした場所はカーニバルの名にはふさわしくなく、人々は多様性、開かれた空間を褒めているように見えるが、実は、「人々」という多数性が強力な権力を握っていく様が見えてくる。
そう考えると、インターネットが本当に「カーニバル」なのか、自分でも疑わしくなってくる。ただ、「場」として考えるなら、それはやはりカーニバル的なものの土台となりうる。現実において僕が誰かと話すと、僕の社会的立場や性別や年令などが考慮に入れられつつ、言葉を交わす事になるが、インターネットにおいては純粋に「言説」を問題とする事ができる。これはテキストとしての文学、哲学においては理想的な環境と言えるかもしれない(文学者、哲学者としての力量不足を自分の社会的立場で代用しようとする人間には嫌な環境だろうが)。
ただ、それはあくまでも、テクノロジーとしての「場」の話ではある。現在においてはネット上に「カーニバル」が現れる事は稀か、まずない。そこでは人々が、「皆違って皆いい」の名の元に、実は似たような概念や認識に流れ込んでいく様が見て取れる。多様性というのは確かに素晴らしいが、全ての人間が同じ教義や信念を持った世界というのは、多様性があるとは言わない。ここまで考えると、インターネットという開かれた空間において現在本当に大事なのは、人々に一挙に認められるようなものではなく、自分の孤立と孤独を守る事ではないかと僕には思える。現在のネットは過度の普遍化に傾いており、ネット上のコメントの殺到、同一方向への言説の横溢という事は、その運動を加速させている。こうした方向への運動はやがて人間全体を一つの同一性へと導き、そこではカーニバル的空間はもう現れる事はなくなってしまうだろう。したがって、これから先の重要な未来の諸要素は、過度に普遍化されてきた現実やネットではなく、それと自分を切り離す孤独の作用にあるのではないかーーーそんな風に自分には思える。




