シドニーの夜・海・街 (一)- オーストラリア
今回は、二〇一〇年に訪れたオーストラリアはシドニーでの話になります。
みなさんは、オーストラリアについてどんなイメージをお持ちでしょうか?
しがないサラリーマンは、オーストラリアでもいろんな経験をしています。
ご参考までに。
二〇一〇年四月。私はまだマレーシアにいた。当初の運用チームを立ち上げるべく、マレーシアに滞在してシステム運用のノウハウを現地のメンバーに教え込んでいた。そのある日の事、マレーシアにとある案件の話が舞い込んできた。
その案件の内容は、オーストラリアにある日系企業様のシステム保守運用をマレーシアで巻き取るというもの。そのため、お客様の現行の運用状況を把握するために現地に渡航し、ヒアリングを行ってほしいというものだった。
私はしがない協力会社の一社員だったため、顧客の所(現地)へは、同僚の方が行くものだと勝手に思い込んでいた。しかし、その考えは甘かった。
タイに一緒に行った同僚の方から電話がかかってきて、
「今マレーシアで何してます?暇ですよね?オーストラリア行ってきてもらっていいですか?」
と言われた。私は愕然とした。私はすかさず、
「暇ではないですよ。マレーシアで運用メンバーにトレーニングを行ってますので…。」
と答える。しかし、その同僚の方から返ってきた答えは、
「そんなに毎日毎日トレーニングするわけでもないですよね?また、マレーシアの案件にもなるので、ちょっと行ってきてもらっていいですか?とりあえず期間は二週間で、航空券や宿はこちらで手配しますので。」
だった。言われてみれば確かに運用メンバーへのトレーニングも毎日行うわけではない。その間私は暇を持て余している。しかし、本来この手の出張は正社員が行くものではないのだろうか…。などと考えながら、私は腑に落ちないながらも、オーストラリアに行くことを承諾した。
迎えた四月末、私はマレーシア駐在の二名の方と一緒にシドニーへ向かった。海外にあまり行ったことがなかった私でも、さすがにシドニーの有名な情報は持ち合わせていた。当初オーストラリア出張の話を耳にした時は、『何故私が…。』という思いもあったが、実際出張直前になってみると、意外と楽しみにしていた自分がいた。
クアラルンプールからシドニーまでは、飛行機で約八時間半と意外に長かった。空港に着いて外に出ると、そこはこれまで出張で行った国とはまるで違っていた。街並みは綺麗に整備され、外観も欧州的な建物が多く、私の気持ちを穏やかにさせた。
タクシーに乗り、宿泊先へと向かう。私たちが泊まったホテルは、ダーリング・ハーバーのすぐ傍のホテル。今思えば、ホテルは然程大したものではなかったが、オーストラリア、シドニーというだけでよく見えたような気がする。
到着したその日は移動のみだったため、チェックインを済ませホテル周辺を散策した。
ダーリング・ハーバーの橋を渡ると、そこは船着き場になっており沢山のヨットが停泊していた。私は育ちが海の近くではあったが、田舎のそれと見た光景とは全く違っていた。それから私達は近くの動物園に行き、人生で初めて生のコアラを見た。日本のどこかの動物園にもコアラはいるのだろうが、私自身、日本にいる時は動物園に行くことなど皆無に等しい。それを本場であるオーストラリアで見れたのだから、私も珍しく気分が高揚した。動物園を後にした私たちは、もう少しだけ周辺を散策しホテルに戻った。
話は変わるが、私は中学高校時代、歴史と言えば日本史が好きだった。特に戦国時代から江戸時代にかけての頃が好きで、武将の生き様であったり、有名な出来事が起こるに至るまでの話などに興味を持っていた。
一方、世界史はというと、私自身英語やカタカナが苦手で、歴史上の人物や地名などが全く頭に入ってこなかった。海外の歴史で興味があったものといえば、中国の『三国志』くらいである。それほど世界の歴史というものには全く興味がなかったのだが、建造物においては違っていた。
テレビで流れる欧州の歴史的な風景は、何故か惹かれるものがあった。理由は全く分からない。しかし、画面を通して目に飛び込んでくる、欧州ならではの建築物や街並みは、いつも私の心を落ち着かせる何とも言えない不思議なものがあった。
欧州とは何の縁も所縁もないが、ここまで心落ち着かせる何かがあるのは、きっと前世からの繋がりがあるのかあるのかとさえ感じさせる。この日の散策はこの程度で終わらせ、ホテルに戻り、明日からの客先訪問に備えた。
翌日の客先訪問を終えると、マレーシアのメンバーは早々に帰路につき、私と案件のマネージャー二名は、お客様業務のヒアリングのためにシドニーに残った。私とマネージャーは、毎朝ホテルからタクシーで客先へ向かい、終日お客様との打合せを行い、終わればホテルに戻る…というような生活を送っていた。
そんな滞在一週間目の金曜日の事。客先からホテルに戻った我々は、いつもの様に夕食を取るために街へ繰り出した。この日は、レストランでオージービーフのステーキを食し、現地のビールやワインを飲んで、週末という事もあり、すっかり良い気分になっていた。
食事を終えた私達は、週末のシドニーを散策した。週末という事もあってか、大通りには沢山の人で溢れていた。同行していたマネージャーは、週末の金曜日で、上司もいないという事もあって羽目を外したいと、私をとある所へ連れて行った。連れていかれた場所は、とあるビルの二階で、そこにはクラブがあった。クラブに着くとマネージャーは、我先にと私を置いてクラブの中へ入っていった。そこは外にも漏れるような爆音で音楽が流れていて、中では沢山の人々が踊っていた。マネージャーは既に中で楽しそうに現地の人達と踊っているが、私は人混みと爆音がどうにも嫌いで中々馴染めない。私はバーカウンターの片隅でマネージャーの気が済むまで、一人酒を飲んでいた。暫くすると、マネージャーが私の所へ戻ってきた。どうやら満足したらしい。私達は直ぐにその店を後にした。
店をでて歩き出すと、マネージャーは、
「もう一軒行きましょう。どうしてもお連れしたい所があるんです!」
と、覚束無い足取りで次の店へと向かっていった。私は行くとの返事をするどころか、一軒目のクラブで疲れ果ててしまい、一刻も早くホテルに戻りたい気分だったのだが、マネージャーは上司がいなくて自由にできるためか、シドニーの夜を満喫していた。数少ない同行者で、流石に千鳥足のマネージャーを放っておくのも気が引けるため、嫌々ながらもこの日はマネージャーに付き合うことにした。
マネージャーについていくと、何やら怪しげな商店街の様な通りに着いた。先程の大通りとは打って変わって人通りも少なく、殆どの店が閉まっていた。マネージャーは相変わらずフラフラしながら進んでいく。すると間もなくマネージャーが立ち止まった。ふと目の前を見ると、シャッターが閉まっており、その前に立ち尽くしている。私は、マネージャーはかなり酔ってしまったのかと、不安げな眼差しで見ていると、次の瞬間彼はシャッター横のインターホンに手を伸ばした。
ピンポーン。
すると、インターホンの向こう側から男性の声が聞こえてきた。
マネージャーが名前を答えると扉がゆっくりと開き、中から一人の若い日本人男性が現れた。年は二十代後半といったところだろうか。その男性は我々に対し笑顔で、
「いらっしゃいませ!」
と告げ、我々を中へと案内した。中は広々としており、綺麗なソファーとテーブルが幾つも並べられていた。しかし時間帯が遅かったという事もあるのか、中にいる人はかなり疎らだった。我々はそのソファーの一席に通された。マネージャーは既にいい感じに酔っぱらっており、席に座ると小さな駄々っ子の様に「女の子を連れてこい」と叫び出した。同席していた私は流石に恥ずかしくなり、一気に酔いが醒めた。
もうお察しかとは思うが、そう、私はキャバクラに連れて来られたのだ。私を連れて行きたかった場所がキャバクラで、着くなり早々叫び出すのだからなんとも腹立たしい。本人が行きたかっただけではないのか…と思うところではあるが、これも悲しきサラリーマンのお付き合い。私は彼の気が済むまで付き合うことにした。
程なくして、二名の日本人女性が我々の席に着いた。二人とも二十代中ほどだろうか。席に着くと彼女達は私達にお酒の注文を取り、淡々とお酒を作り出した。お酒の用意が整うと、みんなで「カンパーイ!」と杯を交わし飲みだした。
マネージャーは知り合いの女の子を呼んだのか、終始ご機嫌な様子。私はそれを横目に自分の隣に座った女の子と話を始めた。私の隣に座った女性の年齢は、二十代半ばといったところだろうか。目鼻立ちがくっきりとしていて綺麗な女性である。お互いに軽く社交辞令的な挨拶をした。彼女の名前は菜月というらしい。お互いに挨拶を済ませたところで、彼女からよくありがちな質問を受けた。
「お兄さんは、オーストラリアは初めてですか?」
「そうだね、初めてだよ。」
「へー、初めてなんですね。今回は観光でいらしたんですか?」
「いや、出張でオーストラリアに来たんだ。」
「出張かぁ~、カッコいいですね!仕事は何なさってるんですか?どれくらいシドニーにはいらっしゃるんですか?」
と立て続けに質問攻めに合う。
「仕事はシステム屋さんをやってて、今回は二週間くらいシドニーにいるんだ。」
と私は返す。ちなみにどうでもいい話だが、私は職業を問われると、必ず「システム屋さん」と答えるようにしている。世間では「IT関連」というのが一般的なのだろうが、その「IT関連」というのが個人的にはどう聞いても格好をつけているようにしか思えず、自分の口から出すのが嫌なのだ。まあ、そんな話はさておき。彼女との話に戻ることとする。これまで彼女からの質問ばかりだったので、私の方から質問を投げかけてみた。
「そういえば、菜月ちゃんはどうしてシドニーに来たの?」
「私ですか?私はワーキングホリデーでシドニーに来たんです。シドニーに来る前は東京でアパレル関係の仕事をしてたんですけど、人生で一回はオーストラリアに行きたいっていう思いがあって。周りに相談しているうちに、人生一回しかないからやりたい事をやっておこうと思って来ちゃいました。ワーキングホリデーだと年齢制限もあるから、行けるうちにと思って。」
これは凄い。私が英会話学校に行っていた時も、数人の生徒がワーキングホリデーで海外に行くというのは耳にした事はあったが、実際に外国にワーキングホリデーで来ているという人には初めて会った。私も叔父に『海外に留学したい』と言った事はあったものの、そんな気は全く無く、海外に行く事にも全くと言っていい程興味が無かったため、実際に一人で海外で生活をしている人に会って感心した。
「なるほど、凄いねー。俺も昔は英語を勉強してたけど、海外に行くのは全く興味がなかったから、自分で海外に来て勉強するって、本当に感心するよ。」
そういうと彼女は、笑顔でこう答えた。
「ワーキングホリデーで来てるんですけど、実は全然英語勉強してないんですよ。昼間も一応仕事はしてますけど、あまり英語を使うことが無くて。困ったら周りの人に助けてもらって何とかなるので、全然上達しないんですよね。私の場合は英語を勉強するというよりは、ただオーストラリアに来てみたかっただけなので。」
私はこの答えにまた驚いた。何故なら私が全く持ち合わせていない感覚だからだ。
「とりあえず行ってみたいから」と海外に行き、その国で生活してみる。その行動に私は感心した。
その後彼女は、突然何を思い出したかのように私に問いかけてきた。
「明日は仕事お休みなんですか?」
「明日?明日は土曜日でお客さんも休みだから、僕らも休みだよ。なんで?」
「シドニー初めてなんですよねぇ?どこか行く予定とかあるんですか?」
「いや、特に予定はないよ。出張も急に決まったから、シドニーの事を調べる時間も全然なくてね。」
「そうなんですね。もし良かったら、私がシドニー案内しましょうか?」
「えっ?いいんですか?それは助かります。お願いしてもいいですか?」
「全然大丈夫ですよ。どこか行きたい所はありますか?」
彼女は笑顔で答えた。私は彼女の好意に甘えることにした。行きたい所…行きたい所と言われても、正直見当がつかない。情けない話だが、この当時の私が知り得ているシドニーの知識と言えば、オペラハウスくらいしかなかった。私は無い頭を振り絞って一生懸命考えた。行きたい所、行きたい所、うーん…。そう考えていたら、ふとある事を思い出した。
それは、以前、私の同僚がシドニーに行った時の事を語ってくれた事だった。私の同僚は、かなりのアウトドア好きな方で、夏は海、冬はスキーにスノボにと毎週末出かける様な方だ。その同僚が私と同じように出張でシドニーを訪れた際海に行ったらしいのだが、その海が物凄く綺麗だった事を、目を輝かせながら私に語っていたのを思い出した。
この事を思い出した私は、折角ならばと海に行きたい旨を彼女に伝えた。
「海ですか、いいですね!シドニーの海は、青々としていて本当にキレイなんです。海も幾つかあるので、ちょっと考えておきますね。」
そう話すと、私と彼女は翌日の待合せの詳細などを話した。暫くしてマネージャーに目をやると、ベロベロに酔っぱらっている姿がそこにあった。大丈夫かと私が問いかけると、急にマネージャーは私に絡みだした。
やれ『そっちは楽しそうだ』だの、『こっちはつまらない』だのと愚痴を連発。挙句の果てには、私に酒を強要してきた。私もここまで深くマネージャーと酒を酌み交わしたことが無かったので、初めての姿に驚いた。
普段の私なら、多少の苛立ちも湧いてくるところではあるが、ここ数日のマネージャーとしての仕事ぶりを見ていると、彼が多少荒れるのも理解できなくは無かった。そのため私は、彼との酒に付き合うことにした。しかし、この判断も後に間違いだったと後悔する。
マネージャーと飲んだのは良かったのだが、酒に勢い付いたマネージャーは、途中から彼は私を煽り始めた。私もいい具合に酒を飲んでしまっていたせいか、箍が外れてしまっていた私は、『売り言葉に買い言葉』ではないが、彼の煽りに乗ってしまったのだ。
その後の私達は予想通り泥酔してしまった。私とマネージャーは千鳥足で何とかホテルに戻り、それぞれの部屋へと別れた。私は部屋に辿り着くなりそのままベッドに倒れこんだ。
明けて土曜日。前の夜に飲みすぎたせいで、私はなかなか起きることが出来なかった。午前九時過ぎ。私の業務用の携帯が鳴った。私は、まだ覚めきれていない頭を抱えつつ、電話に出た。電話の向こう側の声は、昨晩一緒に飲んだお店の女性だった。名前、名前…そうだ、菜月だ!
「おはようございます。昨日はお疲れさまでした。もう起きられましたか?」
「…おはようございます。」
私は寝起きの声を振り絞って、電話に応える。彼女は、私の声からあまり大丈夫ではなさそうなのを汲み取ったようだ。
「まだ、昨日のお酒が残ってますか?ところで、昨日海を見に行こうとおっしゃってましたが覚えてらっしゃいますか?無理なようでしたら行かなくても構いませんが…。」
私は、寝ぼけた頭で数秒間考えた。そして私は、すぐさま前日の飲み屋で交わした約束を思い出した。私は慌てて、
「すみません、確かに約束しました。ぜひ海に連れて行って下さい、直ぐに準備をしますので!」
そう答えた。
「分かりました。それでは何時頃にしましょうか?」
「これから準備をしますので、十一時くらいにホテルに来て頂けると助かります。」
「十一時ですね。それならお昼前って事もあるので、フィッシュマーケットでお昼でも食べて、それから海に向かうのはどうでしょう?」
「いいですね、それでは今日はそのコースでお願いします。」
そう言って、私達は電話を切った。
そして午前十一時。ホテルのロビーに向かうと、そこに菜月が立っていた。私は足早に彼女のもとへ駆け寄った。
「おはようございます。お待たせしてすみません。」
そう言うと彼女は、
「全然大丈夫ですよ。私も丁度着いたばかりだったので。」
と笑顔で返した。挨拶を済ませると、私達は直ぐにホテルを後にした。私達はフィッシュマーケットまで歩いて向かうことにした。この日は雲一つない青空が広がっていた。五月という時期もよく、暑くもなく寒くもなく丁度良い気温で、散歩がてら歩いて行くには素晴らしい天気だった。私と菜月は、歩きながら昨晩の話をしつつ、フィッシュマーケットへと向かった。
二十分程歩き、フィッシュマーケットに到着。そこには水色の大きな建物が建っていた。なかなか日本ではお目にかからない色使いの建物だ。鮮やかな水色が美しく、空の青さも合間見合ってなかなかの景色だ。
中に入ると、週末ということもあって多くの人が訪れていた。一つの観光地となっているような感じを受ける。沢山のブースがあり、オイスターにサーモン、牡蠣など様々な鮮魚が沢山並んでいる。なんとも美味しそうで、目移りしてしまう。そんな中ふと辺りを見渡すと、テーブル席がズラリとあってほぼ満席状態。家族連れや友人同士、カップルなどが中で買った食材を並べ、食べながら談笑している。なんとも楽しそうだ。日本でも市場には何度か訪れた事があるが、日本の市場とはまたちょっと違った雰囲気だった。私はフィッシュマーケットのそういった雰囲気を楽しみながらも、徐に菜月に話しかけた。
「フィッシュマーケットって、日本の市場とは雰囲気が全然違いますね。これだけの人が集まって、みんなでワイワイしながら食べて飲んでっていうのは、あまり見ないような気がします。」
「そうですね、日本でも無いことはないんでしょうけど、市場の中にこれだけテーブルがあって賑やかな市場って、あまりないかもしれませんね。私はこういった雰囲気の方がどちらかというと好きです。」
「そうですね。家族や仲間と来たら、これはこれで楽しいかもしれませんね。」
そう話しながら、私達は市場の散策を続けた。ひとしきり市場の中を歩き終えると、菜月が話しかけてきた。
「そろそろ私達もランチにしませんか?」
時計を見ると、正午近くになっていた。私も市場でいろんな海産物を見たせいか、いつになく空腹が襲ってきていた。
「そうですね。時間も丁度いいので、我々もランチにしましょうか。」
「そうしましょう。私のお勧めのレストランがあるんですけど、そこでもいいですか?」
「おっ?お勧めのお店があるんですね?では是非そのお店でお願いします。」
私は菜月に連れられ、レストランへと向かうことにした。レストランに着くと、お昼時という事もあって、店内は既に行列をなしていた。私はその光景を見て一瞬げんなりとしたが、そうも言ってられなかった。私達が店に着いた後でも続々と人は並んできており、店に来るまでも、市場内のテーブルを横目で見てきたが、空いている席は見当たらなかった。多分これから他の店に行ったとしても、きっと同じ状態であるのは間違いない。私はそう悟った。普段店に並ぶのはあまり好まない私だが、この時ばかりは大人しく並ぶことにした。
菜月と話をしながら待つこと約三十分。やっと私達の番が来た。テーブルに通され席に着くと、店員さんにメニューを渡された。私はそのメニューを開いて驚いた。メニューにはやたらと見たことがある料理ばかり。
中華っぽい…。いや、紛れもなく中華料理なのだ。
『えっ?フィッシュマーケットに来て…中華?』
内心私はそう思った。恐る恐る先のメニューを開いていく。すると、他の種類の料理が現れた。私は安堵した。私は写真をみて、パイ生地のようなものに包まれた豚肉料理を頼むことにした。注文を終えた我々は、料理が届く間暫し雑談を交わした。
「フィッシュマーケットってただの魚市場かと思ってたけど、今日ここにきて印象ががらっと変わりましたよ。人も大勢いるし、一種の観光地みたいですね。」
「そうですね。週末には今日みたいに沢山の人も来ますし、美味しい海鮮料理も食べられますし、週末をゆっくり過ごすにはこういった所もいいですよね。」
「日本にいると、あまりこういった所には来ないので、自分には結構新鮮です。」
そうこう話をしていると、我々のテーブルに料理が運ばれてきた。目の前には沢山の飲茶が並び、続いて私が頼んだパイ皮包みの豚肉が置かれた。なんとも美味しそうだ。早速私達は目の前の料理を、それぞれの口に運んだ。菜月はなんとも美味しそうに、料理を次々と口に運んでいく。
私の方はというと…。
なかなか箸が…元い、フォークが進まない。写真ではパイの皮の様に見えたものは、実は何なのかよくわからず、カッチカチに揚げられていた。フォークとナイフで肉を切ろうとするが、表面の皮が固すぎてなかなか切れない。やっと切れた豚肉を、フォークに刺して口に入れるが、これがなんとも塩っぱい。豚肉は一旦諦めて、備え付けの野菜に手を出すが…味がない。お皿にかけてある茶色のソースを付けて、再度野菜を口に運ぶが、今までに味わった事のないソースの味が口の中一杯に広がる。最後に、頼みの綱である、皿と一緒に載せられたパンを口にする。しかし、これも硬くて中々飲み込めない。
楽しみにしていた私の昼食は終わった。
目の前ではまだ菜月が美味しそうに食事を取っている。手が進まない私が気になったのか、菜月が、
「食事が進んでないみたいですけど、どうされました?」
と訊いてきたきた。それはそうなるだろう。ワンプレートしかない料理の半分も手が進んでいないのだから。私は正直に、
「いやぁ、この料理、ちょっと私の口に合わないみたいで。」
そう答えた。すると菜月が、
「えっ、そうなんですか?じゃぁ、ちょっと一口貰ってもいいですか?」
と興味深そうに聞いてきた。私は軽く頷き、皿を菜月に差し出した。菜月も豚肉から食べようと試みるが、私と同様に固く揚がった皮に苦戦している。そして、切れた豚肉を口に運んで噛みだすと、忽ちにして菜月の眉毛がハの字になった。そして、野菜、パンと次々に口の中に運ぶが、菜月の表情は渋い。一通り私が頼んだ料理を口に運ぶと、料理の皿をスッと私の前に戻してきた。とうやら私の食事が進まない理由を理解してくれたようだ。そして菜月は、
「よかったら私の飲茶食べますか?」
と差し出してくれた。私は差し出してくれた飲茶を一つ頂き、口の中へと放り込んだ。中華料理は美味しい。私は改めてそう思った。
食事を済ませ、私達はフィッシュマーケットを後にした。