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戦前レトロもの

懐古的希望少女

 銀座をぶらぶらと歩くから銀ぶらなんだという。


「一人かい?」


 気が付くと、多希子は数人の少女に取り囲まれていた。銀座の交差点から少し歩き出した時だった。

 も、もしかしてこれってとてもまずい状態?

 多希子は思わず肩をすくめた。

 年の頃は同じか、少し小さい位だ。洗いざらしの着物を少し崩して、暑いのだろうか。たもとをひらひらとさせて、腕まくりなんかもしてる。

 ……まさかこれが前まえから街中には出るって言う、噂の不良少女団って奴?

 多希子は思わず持っていたカバンをぎゅっと抱きしめた。

 一応学校帰りなのだ。父親の会社と、新しくできたばかりの服部時計店の時計台と、ついでに資生堂の竹川町店のショウウインドウをのぞいたりはしたが。


「へええ。府立の制服って、あたしゃ初めてみたよ」


 制服を見れば、府立のあの学校だ、ってことが判る。この東京でも、何校もある訳じゃない府立の高等女学校。しかも彼女の学校は比較的新しい。


「いいのかなあ、お嬢さん」

「こんな時間にこんなとこに一人でふらふらしてていいのかねえ」


 口々に少女達は言う。確かに、こんな昼ひなかから、学生がふらふらしていていい訳ではない。だが彼女には、それなりに理由があったのだ。

 だがそんな理由を言ったとこで仕方がない。そもそも、ぶらぶらしていたのがいけない、と言われればそれまでなのだ。

 震災から十年近く経った、昭和七年。

 大東京にはどんどん新しいビルが建てられている。先月、首相が暗殺される、なんていう物騒な事件もあったが、喉元過ぎれば何とやら、街中は活気があった。次々と立て替えられるビルは、新しい街並みを作りつつあった。そして多希子はそんな新しい景色が好きだった。

 資生堂のウインドウの前から、そんなことをつらつら考えながら歩いていたら、不意にどん、と右肩に衝撃を感じたのだ。


「あ、失礼……」


 反射的に彼女はそう口にしていた。それで済むはずだった。ところが。


「あん?」


 ぐっ、と喉の所にいきなり圧力を感じた。う、と思わず喉から声が出る。襟をぐい、と掴まれているのに気づくのには、さすがに少し時間がかかった。止めて、と眉を寄せたが遅かった。そんなことをされたことは無い身としては、どうしていいのか判る訳もない。


「失礼、だってよ」

「へええ」


 あははは、と大きな笑い声が彼女の耳に飛び込んでくる。


「ねえ、ちょっとお願いがあるんだけどさあ」

「な、何ですか」


 それでも多希子は気力を振り絞って、少女達をにらみつける。考えてみれば、人数は多いが、皆少女だ。怖がる必要なんてない、と自分に言い聞かせる。もっと柄の悪いおじさんや兄さん達も見たことがある。


「こーんな時間に銀ぶらしてたなんてさあ、学校には言わないであげるからさあ、ちょっとあたし達にお金貸してくれないかねえ」


 思わず眉が大きく動いた。冗談じゃない!


「あなた方に差し上げるお金なんて無いわ!」


 自分でもびっくりする程の大きな声が出る。少女達は皆一瞬、身をそっくりかえした。


「何だってえ!!」


 多希子に負けず劣らずの大きな声が道に響いた。だが通りを歩く人々には気付かれない。

 多希子は歯を食いしばる。


「いい度胸じゃないかあ、お嬢さん」


 一人が懐から何か出す。剃刀だった。はっ、と多希子は目を大きく開ける。ぴたぴた、と頬に当てられる。さすがに背筋にぞわり、と悪寒が走った。だが不思議なもので、一度通り過ぎてしまうと、肝が据わるらしい。


「そりゃあ持ってるわよ!」

「だったらいいじゃないか。出しな」

「けど私が持ってるったって、私のじゃあないわ! お父様のお金よ! 人脅して簡単に巻き上げるようなあなた方にはいそうですかと右から左にあげる訳にいくものですか! あなた方自分で稼いでいるんでしょう!」

「は、稼がなくていいお嬢さんが言うねえ!」

「親父さんでもあんたでも、あたし達には同じことだよ!」


 ぐい、と掴まれた腕が後ろに回されるのを彼女は感じた。

 ほらほら、と別の子がその腕を押さえつける。長く伸ばして後ろで編んでいる髪が、掴まれる。

 痛い、と彼女はもがく。その一方で、「身体検査」でもするつもりだろうか、と奇妙に冷静に彼女は考えていた。そして、反撃の機会を狙う。

 ここでさっさと金を出して逃げ帰る方が安全なのは判ってる。だけどそんなことしたら、お使いのついでの、たまの銀ぶらを父親から禁止されてしまうかもしれない。危険だから、と。それは嫌だった。

 多希子は必死でばたばたともがく。後で思えば、かなりこれは危険だった。顔には相変わらず剃刀が突きつけられていたのだから。

 そして本当に蹴り飛ばしてやろう、と彼女が思った時だった。


「そこまでにしておきよ」


 低めの声が響いた。

 多希子はその声に、顔を上げた。目の前の着物の子の後ろに、断髪に洋装の少女が、腕組みをしてふらりと立っていた。

 あ、大きい。

 目を凝らして、思わず観察する。歳の頃はやはり自分とそう変わらなさそうだ。だが半袖の下からのぞいた組んだ腕は長い。少し短めのスカートからのぞく足はすらりと長かった。それ以前にずいぶんと背が高い。その辺を歩く男性とそう変わらないくらいだ。

 格好いい、と何故か思っていた。

 クラスメイトで親友の皐月も背が高く、学校では憧れの的、にされているのだが、それともまた何処か違う。皐月はどちらかというと少年的だが、目の前の少女は、女以外の何ものにも見えない。胸も大きい。だが多希子の知ってる「洋装」とは何かどこか違うような気がする。

 断髪も断髪だったが、流行の「ボップ」よりは少し長めだ。でもそれは濃い太い眉や、厚手の唇、少し大きすぎるくらいの目によく似合っている。ああ化粧してる、と多希子は気付いた。


「何だい何だい、一人に何人掛かってるんだよ」

「だってボス」


 ボスぅ? 多希子はその言葉の意味を一瞬考える。


「ちょーっと、さっきから見てたけどさあ。駄目駄目。あんた等の負けさあ。ほら良く見てみ。そこのお嬢さんの足、今にもお千穂、あんたを蹴り倒しそうだよ」


 そう言って長身の少女は足元を指さす。げ、と指された方は、顔をしかめた。


「ほら、離してやんな」


 取り囲んでいた連中は、おとなしく「ボス」の命令に従い、しぶしぶ多希子の身体からその手を離した。


「悪かったね、見境がない連中で」


 多希子は黙って「ボス」の少女を見上げた。なるほどね、というつぶやきが聞こえる。

 「ボス」の少女は手をひらひらと振った。それが合図の様に、少女達は着物の袖を振り振り、下駄の音をからころとさせながら、右へ左へと散っていった。それを見ながら、多希子は仏頂面を続けていた。そして周囲が静かになったのを見計らい、ようやく口を開く。


「いつもこんなこと、してるのかしら?」


 ふふん、と「ボス」の少女は首を傾ける。柄の悪い少女達がぞろぞろと脇道から出てきたので、通りの人々はようやくこちらを向く。今更! と多希子は唇を噛んだ。

 そんな周囲の視線をはね除けるように、「ボス」の少女は一度ぐい、と辺りを見渡す。そして短く刈った髪を何度かひっかき回した。


「いつも、じゃないけどねえ」

「嘘」


 多希子はすぐに返した。


「嘘ってなあ、お嬢さん…そりゃ遊ぶための金を持ってひらひら銀座を歩く奴には、時々」

「いいと思ってんの!?」

「ふん。取られても別に今日明日困るんじゃないような暇な連中だよ。真面目そうな毎日せっせとお勤めに励んでるような奴からは取らないさ。そのくらいの見極めはつくさあ」

「それで私を狙ったって言う訳? 冗談じゃあないわ!」


 多希子はぶるん、と首を横に振る。


「だから見当違いだよ。あたしが最初から居たら、そんなこた、させなかったさ。だいたいあんたがいくらお嬢さんでも、そんな、一人でぶらぶらしてる時にすごい金持ってる訳ないじゃないか。持ってるようだったらよっぽどの馬鹿だけどさ。あんたはそうでもないようだし。だったら時間の無駄さ」


 はは、と「ボス」の少女は笑った。


「そういう問題?」

「まあね。やっても無駄なことはしない」

「何か違うと思うわ」


 おや、とばかりに太い両眉が上がった。


「さっきも思ったけれど、お嬢さん、あんたずいぶんと度胸があるねえ」


 目の前で指を一本立てる。どき、と多希子はその仕草に心臓が飛び跳ねるのを感じた。


「たいていの『お嬢さん』はこんなことあれば、泣き帰るもんだけどなあ」

「いけません?」

「いけなくはないさ。ただ珍しい、って言ってるんだよ」


 腰に手を当て、彼女はのぞき込むように多希子の顔をぐっ、と見据えると、付け足した。


「言っておくけど、誉めてるんだからね」

「誉め言葉には聞こえないわよ?」


 多希子は思わず苦笑いをする。


「ま、いいわ。私もう、帰らなくちゃ」

「そ。じゃあまあ、これからまた銀座でこんな風に襲われたら、こう言いな。自分はヒナギク団のハナの知り合いだ、って」

「ハナ? ヒナギク団?」

「あたしの名。磯山ハナ、って言うんだよ」


 なるほどそれで団に花の名をつけているのか。だがあの白くて可憐な花を想像したら、何となくおかしくなってしまった。


「お嬢さんじゃないわ。私は一ノ瀬多希子」

「多希さんか。覚えておくよ」


 そしてじゃあね、と手を振ると、ハナは銀座の雑踏の中に消えて行った。

 時計台から、五時を告げる美しい音が聞こえて来た。


「あら多希さん、遅かったんですね」

「ただいま帰りました、お母様」


 あまりすぐには出会いたくなかったな、と多希子は思うが、とりあえずは笑顔を向ける。


「すみません、ちょっと資生堂の竹川町店で買いたいものがあったのを思い出しましたので、銀座へ寄り道しましたの」


 さすがに時間が遅くなりすぎた。帰ってみたら、玄関横の応接間に、待っているピアノの教師の姿が見えた。そうなると下手に隠し立てするよりは、銀座に行っていたことは話した方がいい、ととっさに彼女は判断する。


「まあ、だったらお買い物を頼めば良かったわね。新製品が出ているはずなのよ」


 一ノ瀬夫人はにっこりと笑う。


「何か切らしてましたの? お母様」

「ええ、ほら、新発売の『ドルックス』のクリーム。何でも、澄んだ感じの良い香りがするそうですよ」


 うきうきと夫人は言う。確か、と多希子は思い出す。先日居間に置いてあった家庭雑誌に広告が載っていた。舶来品に負けないものだ、ということらしい。多希子自身はそう興味は無い。今日のぞいていたウインドウにしても、どちらかと言えば、化粧品よりは洋菓子だった。


「じゃあ今度見てきますわ」


 そうね、とにこにこと夫人は手を合わせた。いつの間にか、銀座に「寄り道」していたことは何処かへ行ってしまっている。


「ピアノの先生もお待ちですからね。早く着替えていらして」

「はい」


 にっこりと笑い、多希子は自室へと向かう。そしてその話は終わり。ふう、と彼女は胸をなで下ろした。

 彼女は自分のそういう、小賢しい所はあまり好きではない。だがそれは、それも家庭で上手くやっていくこつだ、と思っていた。

 父親の一ノ瀬氏は多希子には優しいが、同時に厳しい。銀座に一人で行くことにしても、何らかの目的がそこにあれば見逃してくれるが、何の意味もなく「ぶら」つくことに関しては、決していい顔をしない。

 そのあたりは、まあよくある父親だ。いや、普通よりはずいぶん甘い。ただその父親が「よくある」人と違うのは、建築会社の社長だ、ということだった。

 この日の多希子の「用事」は、その会社の方へ書類を持っていくことだったのだ。自宅付で届けられた海外からの資料を、学校帰りに届けること。

 出向いたら、社長室はちょうど来客中だった。何でも、大陸の方から戻ってきたばかりの建築事務所の人々だという。そのうちの一人は結構若かったが、どんな人物だったのか、までは彼女もよくは覚えていない。

 多希子が自室に入った頃、家の扉が勢い良く開いた。


「ただいまお母様っ。あら、ピアノの先生のお靴。お姉さまもうお帰り?」


 妹の由希子だった。


「何ですまた靴をばらばら…まああなた、髪がずいぶん乱れてますよ」

「ええっ? ああでも仕方ないわ。今日はテニス部のほうで、練習試合があったの」

「あなたはもう…… 多希さんを少しは見習いなさいな」


 夫人は思わず頬に手を当て、ため息をつく。いつものことだった。


「いいのよ~だって私はお姉さま程頭良くないし、不器用だし~だったら明るく健康がいちばんだもの」

「明るく健康、はいいですけどね…ふう」


 妹の由希子は、三つ違いの女学校二年だった。父親の方針で、この二人は同じ府立の高女に通っている。姉は私立の女学校だったのだが、そこの空気は必要以上に娘に贅沢を覚えさせた。資産家の所に嫁いだから良いものの、下の娘達は、あまりその風潮に染めたくはない、と実直な社長は考えたのである。

 しかし同じ学校というのは、姉妹を何かと比べさせるものだ。


「あなたも多希さんを少しは見習って大人しくしないと、いいお嫁の口がありませんよ」


 すると由希子は笑ってこう言う。


「いいもの、私は私だし。お母様だから、こんな私でいいといういい方を見つけてね」


 この調子だから、誰も彼女を憎めないのだ。だが夫人にしては、問題である。そしてこの娘を何とかするには、その前に多希子をどうにかしなくてはならない。

 一ノ瀬家の子供は四人だった。一番上の真希子は既に嫁いでいる。その下が四つ上の兄の希一朗。兄は現在、帝大の一年生で、将来会社を継ぐために、建築を専攻している。そしてその下が多希子で、末が由希子だった。

 多希子をきちんとした所に縁付けないことには、夫人は、親としての自分の役目は果たせない、と信じているようだった。

 そうしなくては、死んだ彼女達の母親に申し訳が立たない、と。


 現在の一ノ瀬夫人は、上の三人とは血がつながっていない。彼女達の本当の母親が亡くなったすぐ後に、彼女はこの家にやってきた。だがその時既に、由希子を連れていた。そして由希子は一ノ瀬氏の実の子だった。

 多希子はまだ本当に幼かったので、生みの母親のことはほとんど記憶にない。そして今までにそこのことで問題が起きたこともない。ただ、お互いに少しばかりの遠慮をしあっているような所はある。

 姉の真希子となると、多希子とちょうど十歳違うので、難しい時期に別の女性を母親と呼ぶことにずいぶんと抵抗があったらしい。


 一方、多希子は自室で制服から着替えていた。洋服箪笥から、もう少し簡単な洋服を一枚取り出す。その洋服を見ていたら、ふと昼間のことを思い出した。

 別にそう嘘をついている訳じゃないわ。資生堂のショウウインドウを見ていたことだって本当だし…

 言い訳のように、内心つぶやく。

 ただ言わないことがあっただけよ。

 彼女―――ハナのことは何となく口には出さない方がいい、と多希子は思った。それは銀ぶらをとがめられることとはまた別の、自分だけの秘密にしておきたいことだった。

 多希さん、と声がする。いい加減行かなくては、と多希子は返事をした。


「おはようございます」

「おはよう、多希子さん」


 いつもの朝が始まる。夏服に替わった女学生の群れが校門の中へと吸い込まれて行く。

 多希子の通う府立の高等女学校は、官立ながら、リベラルな校風で知られていた。それは校長の考えが大きく反映していると言われている。ポーン、とその反映した結果が耳に届く。彼女は教室に向かう前に、テニスコートと向かっていた。


「皐月!」


 壁打ちをしていた一人が、手を止めた。ボールを拾い、ラケットを肩にかつぐと、小走りで彼女の方へと近付いてくる。


「おはよう、多希子」


 耳の下くらいまで短くした髪を揺らし、皐月は汗をかいた額をぬぐいながら、多希子に笑いかけた。


「今日もあなた、朝早いのね」

「まあな。最後の試合も近いことだし」


 ふふ、と多希子もつられて笑う。彼女達五年生は、次の試合で引退だった。


「高等師範でもあなた、続けるつもり?」

「まあ受かってからの心配さ。体育科だから、何かとできることはあるだろうし」


 そうよね、と多希子はうなづいた。


「いいわね、皐月は」

「何だよいきなり」


 タオルを首に掛け、皐月はコートのベンチに放り出してあったカバンを取ると、行こうか、と多希子をうながした。

 二人が並んで歩くと、多希子は長身の皐月の肩くらいしか無い。その長身を活かして、友人はこの学校時代、運動にいそしんだのだ。

 女子の体育活動が世間一般に認められるようになったのは、この頃からそう遠い昔のことではない。激しい運動は体を損なう、とか、大事な部分を傷つけてしまう、等言われていて、「嫁入り前」の少女達の二の足を踏ませている。

 だが近づくオリンピックは、多少その風向きを変えているようだったが。

 そんな校風の中で学ぶ中には、進学して体育の教師になろう、と思う者も何人かは居た。皐月もその一人だった。


「だって、進学して、やろうと思ってることが決まってるじゃない」

「まあそうだけどさ」


 んー、と皐月は首を傾げた。


「何、多希子、あんたは決まってるんじゃなかったの?」

「決められそう、で嫌なのよ」

「はあん?」


 面白そうだ、と皐月はあごに指を掛ける。

 歩きながら喋り続けていく二人の横を、級友や後輩達があいさつしたり、笑い掛けたりして行く。二人の仲の良さは、校内でも有名だった。


「何あんた、見合いの話でも出てるのかい?」

「まだよ」

「まだ」

「でも何となく、お母様の動きがここしばらく妙で」


 うーん、と皐月はうなった。


「まあ、ねえ。仕方ないと言えば仕方ないよなあ。あんたは建築会社の一ノ瀬組のご令嬢。できれば早く良い所に縁付けて、会社とあんたの両方にとっていい結果に持って行きたいんだろうねえ」

「そういうあなたのずけずけ言う所、嫌ぁよ」

「でも間違っていないだろ、わたしは」


 多希子は黙って肩をすくめた。間違ってはいない。間違っていないから、嫌なのだ。


「ところで、あんた昨日はどうしたんだ? ずいぶんと早く帰ったじゃないか」

「ああ…… お母様の用事があって、会社の方へ行ってたの」

「それだけかい?」

「それだけ、って何よ」


 眉を寄せると、ふふん、と皐月は鼻で笑う。


「いや、あんたがそれだけで済ますとは思わないから」

「あなた私をどういう目で見てるのよ。間違いじゃないけど…… 銀座へ寄ってたの」

「へえ。何? 化粧品でも切らしたのかい? それとも舶来のレターペイパーでも入った?」


 友人が行きそうな所を、皐月は次々に挙げてみせる。そしてそのたびに多希子は首を横に振った。


「全部はずれ」

「じゃ何だい」

「新しい、服部時計店を見に行ったの」

「へ? あの角の? ああ、そう言えば、新しいビルヂングができたらしいね。何でまた。時計をかい? 新調するなんて話は聞いてなかったけど」

「違うってば。時計台を、よ」


 とけいだい? と皐月は足を止めた。


「それだけかい?」

「それだけよ。うん、思った通り。やっぱり綺麗だったわ」


 はあ、と皐月はうなづいた。それは、果たしてどう答えたものか、という表情だった。


「でもね、聞いてよ皐月、その後にこんなことがあったのよ!」


 多希子は昨日の不良少女団に囲まれた時のことを堰を切ったような勢いで喋り始めた。身振り手振り混じりで一生懸命な友人に、皐月はあはははは、と高笑いを返した。


「何よ、笑うことはないじゃないの」

「いや、ごめんごめん。いや、よっぽど喋りたかったんだろうなあ、と思ってさ。しかしあんた、そんなに服部時計店の時計台、見たかったのかい?」


 うん、と多希子は大きくうなづく。よくわからん、と皐月は頭をかく。


「わたしは結構あんたと長いつきあいだけど、そういう趣味があったとはねえ」


 知らなかった知らなかった、と皐月は手を広げ、大きな声で言う。


「あら私、ずっと好きだったわよ。大きな綺麗な建物ってのは。特に最近のものは。ただ、だって、あなただってそうやって、驚いてるじゃない」

「そりゃあ、まあね。でもまあ、あんたは建築屋の娘だし」

「そう言ってくれると、ね」


 まだいいのだが、と彼女は思う。 


「それにしても、その女ボス、なかなかだな」

「奴よばわりはないでしょう?」

「ふうん?」


 腕組みをして皐月は興味深そうに友人を眺めた。


「何よ」

「ずいぶんと気に入ったもんだねえ。ちょっと妬けるよ」


 もう、と多希子は友人の腕をはたく。

 校内ではその仲の良さに、SだSだと半ば本気で彼女達は言われている。実際はそういう仲ではなく、あくまでさっぱりとした友達同士だったのだが。


「だまされてる、ってことはないのかい?」

「まああなたは」


 ふふん、と皐月は笑う。


「や、あんたは石橋を叩いて壊すくらいのくせに、気に入ったものにはひどく甘いから」

「かもしれないけれど」


 違わない。自分のことは良く知っているつもりだ。


「ま、あんたのことだから、止めはしないけれどさ。止めても聞かないし。ただ、深みに入りそうなら、とっとと逃げ出してきなよ」

「ご忠告ありがとう」


 あ、時間、と彼女達は足早に教室へと入って行った。



「あーあ…もう完全にはぐれてしまったわ…」


 多希子はふう、と浴衣の袖で額の汗をぬぐった。

 七月。七夕祭りの人混みの中で、多希子は妹や、ついてきたばあやの滝とはぐれてしまった。

 仕方ないと言えば仕方がない。ついつい通りの、綺麗な電飾を見ていたら、二人がどんどん動いていくのを見失ってしまったのだ。

 どうしよう、と思いつつ、その一方でまあいいか、と思って多希子はふらふら歩き出した。道が判らない訳ではない。

 と、不意に誰かがどん、とぶつかった。手に持っていた袋が引っ張られる感覚がある。


「やめてよ!」


 多希子は慌ててそれを自分の方へ引き寄せた。するとおっと、という声がする。にらみつける。やはりひったくりだった。


「何だよ、ちょっと引っかかっただけじゃないか」

「冗談じゃないわ! あなた思いっきり引っ張ったじゃない! 取る気だったのね!」

「言いがかりはよしてくれ!」


 往来で思い切り口論になる。

 いや、口論ではない。「論」で闘うには、お互い同じくらいの語彙を持ってないといけないのだが、この相手にはその語彙が無い。そういうのが、一番困るんだ、と多希子は困る。こういう時は、下手に語彙があるほうが負ける。


「だいたいあんたがこの袋の持ち主だ、って誰が決めたよ」


 へ? と思わず彼女は思わず目を丸くした。さすがにとっとと背を向けて逃げて行きたい気分だった。ところが、その時には向こうが頭に血が上ってたようで、絶対に逃がさない、という目をしていた。

 と、その時、聞き覚えがある低い声が耳に飛び込んできた。


「何やってるんだよ! ああお前、上町のかすみのとこの奴じゃないか!」

「げ、ヒナギク団の、ハナか」

「悪いけどそこのお嬢はあたしの知り合いだ」

「わ、判ったよ」

 

 ぱっ、と袋からようやく手を離す。それまでずっと持っていたのだ。何って根性だ、と多希子は呆れる。


「ありがとう、助かったわ」


 ほっとして言うと、ハナはどういう訳かげらげら、と笑った。


「何がおかしいのよ」

「だってさ、あんた、あたしがやっぱり同じことするとは考えないのかい?」

「だってあなたこの間言ったじゃないの。危険になったら自分の名を出せって」

「出せば良かったじゃないか」


 にやり、とハナは笑う。


「ふん。どうせ頭がそこまで回らなかったわよ」


 どうも本当にありがとうじゃあね、と多希子は半ば投げやりに言い捨てる。だが進もうと思ったがそうできない。浴衣の袖が後ろから掴まれていたのだ。


「な、何よ」

「そんな逃げる様に行かなくてもいいじゃん」

「逃げてなんか」

「だったら、もう少し話さないかい? あんたとは二度目だけど、やっぱり面白そうなお嬢さんだ」

「そういう言い方、嫌ぁよ」 


 そうは言いつつも、多希子は手を引っ張る彼女に連れられて、そのまま近くの橋の上まで来てしまった。視界には、ハナの後ろ姿と、橋の灯りだけが飛び込んでくる。

 ハナは今日も「洋装」だった。それも、袖を見事なまで肩までちょん切った上に、思い切り広がるスカートを履いている。のびのびとした手足なので、よく似合っている。

 ここいらならあまり人も来ない、とハナはつぶやく。多希子は欄干にもたれる彼女の横に立った。


「浴衣、良く似合うじゃん」

「うん。好きだから。でもあなたもその服、格好いいわ」

「格好いい、かい?」

「違うの?」

「や、あたしはそう思うんだが、変だと言う奴もいてね」


 でも顔が笑ってる、と多希子は思う。


「まあ変でもおかしくはないけどね。自分で布買って縫ってるんだから。真っ当な洋装、なんて高くて、切符売りなんかには買える値段じゃない」


 切符売り。ああ、このひと働いてるんだな、と多希子は思う。映画館とか劇場の切符を売るのは、彼女達くらいの歳の女の子であることが多い。賃金も多い訳ではない、その中で洋装をちゃんと揃えるなんてことは難しい。


「自分で?」

「何、お嬢さん学校では、そういうことはしないのかい?」

「やるけれど…でも、何かそういう形は見たことがないわよ。そんなまっすぐに大胆に、なんて教えてくれないし」

「そりゃあそうさ。あたしは別に習ったことがある訳じゃあないし。それに買った布は無駄にしたくないからねえ」


 そうか、と多希子は思う。着物の裁断みたいなものだ。まっすぐに取るから、布の無駄は出ない。


「ま、だからそう難しいものは作らないよ。ほら、今時分、おばちゃん達が暑いからって着てる、アッパッパみたいなもんさ。安い布を値切って、ちょっとぜいたくにひらひらさせてみたってわけ」


 アッパッパは、布を四角く切って、首と腕の所だけ開けて縫って作る、簡単な「洋服」だった。

 蒸し暑い日本の夏に、その簡単な服は、ずいぶん歓迎されたものだ。とは言え、多希子の家とは無縁だった。そういうものがあるということは、ばあやの滝が教えてくれたものだった。


「はあああ。それでこうなるの? 不思議」


 思わず多希子はその服の端をつまむ。


「私は型紙が無くちゃ絶対作ろうなんて思えないわよ」

「それができるんならいいさ。何って言うかね、こんな時、く……」

「苦肉の作?」

「そうそう。ああやっぱりあんた、頭いいお嬢さんだな」

「そうお嬢さんお嬢さんと言わないでよ。そのくらいは、ちゃんと授業受けてれば判るわ。でも何で? 苦肉の策って」

「そりゃあね、もちろんちゃんと型紙とか使えば、それなりにあんたの着てるような洋服も作れないことはないだろうけどさ、ただあたしも、ちゃんと習った訳じゃないから、それが正しいか、というとちょっと辛いんだよ」


 ふうん、と多希子はうなづいた。


「じゃあ、洋装店に入ればいいのに。お金稼げるし、勉強もできるじゃない」

「簡単に言うからなあ。このお嬢さんは。あたしの様に身元がはっきりしない奴をそうそうそういうとこが入れてくれる訳無いだろう? 今の所だって、紹介してくれるひとが居なかったら、今でもあたしはカフェーで働いていたさ」

「カフェーで? ってあなた今幾つよ」


 いいのかしら、と多希子は思う。「カフェー」はただ珈琲を出す「喫茶店」とは違うのだ。女給が居て、酒も出すところが、この時代の「カフェー」だった。そういうお仕事なんて、と多希子はつい思ってしまう。


「あんたと一緒ぐらいだろ。あんた幾つだよ」

「今度卒業よ」


 だけど十六、七には見えない。


「だけどあれが一番てっとり早い稼ぎ口だからね。ああ、あんたはああいうとこに出入りするんじゃないよ」


 そう言ってハナはぽん、と彼女の肩を叩く。


「別にいじめるつもりは無いんだからさ。ただ、ちょっとね。ちゃんと習うとこで習って、洋裁師になりたい、ってのは、あたしにとっちゃあくまで夢なんだよ」

「ううん、私も何も知らなくて」


 そう自分で口にはしたが、口にした言葉は、そのまま多希子の胸にちくりと刺さった。


「私は――― 私にだって、したいことがあるのよ」


 そして思わず口を開いていた。どうしてそこでそう言ってしまったのか、自分でも判らなかった。


「建築家になりたいの」


 建築家? とハナは問い返す。


「って、あの、ビルヂングとかの」

「設計して、建てるひと」

「だよな。またずいぶんと、とんでもない夢じゃないのかい?」


 まあね、と多希子はうなづいた。

 ふうん、とハナは橋の欄干に背をもたれさせ、空を仰ぐ。


「何でまた」

「聞きたい?」

「聞きたい」


 空を向いていた瞳が、自分の方を向くのが判った。


「震災の時のことは覚えてる?」

「ああ。あたしはまだガキで、横浜の方に居たけど」

「あっちもひどかったって聞くけど」

「まーね。そん時、母さんも父さんも亡くしたし」


 あ。多希子は思わず口を押さえた。


「別にいいよ。それはそれ。それより続けて。聞きたいんだから」


 ぶっきらぼうだったが、その口調には逆らえない何かがあった。


「あれで東京は思いっきり焼け野原になってしまったでしょう? それで、うちのお父様の会社も、ずいぶんと仕事が舞い込んできて――― だから、うちは、あの地震のおかげで今のようになったってことだけど」


 話がそれそうになる。そういうことを、言いたいのじゃない、と慌てて多希子は軌道修正をはかる。


「ええと、そうでなくて、私よく、お父様に連れられて、そういう現場に行ってたのね」

「現場? 建設現場にかい?」

「そう」


 物好きな親父だね、とハナは呆れた。実際女の子を連れていく所ではない。だがまだその頃は、現在の夫人に慣れるか慣れないか、という所で、一ノ瀬氏も、小さな多希子に気を使っていたのかもしれない。


「私、それまでの東京なんか、正直何も知らないようなものなのよね。物心ついた時にあれ、だから。で、自分の目の前で、どんどん新しい建物が建って行くのよ。何か、もう、すごい、って思ったの」

「すごい、ねえ」


 まあ判らないだろう、と言っている多希子自身も思う。

 おそらく言っても誰もこの気持ちは分からないだろう、と思っていたから、級友にも、皐月にもそう言ったことは無かったのだ。


「現場で働く人達も、まあ私が社長の娘だから、でしょうけど、可愛がってくれたし、やってくる設計した建築士のひと達は、アメリカ帰りらしくって、時々英語交えて話してたりするのよね。うん、確かアメリカから来た建築家のひとも見たことがあるわ。柄の悪いひとも居たわよ」

「ああ、それであんたあの時、度胸座ってたのか」


 ははは、とハナは笑う。


「お姉様はさすがに全く来なかったし、お洋服が汚れる、って感じだったし、確かその時にもうお輿入れ先が決まってたようだったし…… お兄様はもう妹と外で遊ぶのなんかつきあってられない、って感じだったから、余計に、そこが楽しかったのかなあ」


 ハナは何も言わずに、片方だけ眉を上げた。


「でもそれだけじゃない、と思うのよ」

「ふうん。でも何か作りたい、って気持ちは、何となく分かるよ」

「判る?」


 思わず多希子はぐい、と彼女の方へ身を乗り出していた。


「そりゃああたしだって、こういう服じゃなくてさ、もっと色んな形のものが作れるようになりたいと思うしさ。でもただ腕が無いから、腕を磨けるものだったら磨きたいし。あたしの作った服を誰かが銀座の街とか着て歩いてたら爽快じゃん」

「そうよね! そう思うわよね!」


 うんうんうん、と多希子は大きくうなづく。


「だから、そういう感じなのよ。通りに私が思い描いた建物がどん、と建っていたらいいわ、と思うのよ。もちろん今ある建物だって、素敵よ。だけど、それだけじゃない、って感じがするよのね。まだまだ、街には建てるだけの場所があるし、街が駄目ならもっと外がある…… 見てみたいのよ。私の頭の中にある、そういうものを」


 そうだね、とハナはうなづいた。



 それからというもの、彼女達は、時々場所と時間を指定して会うようになっていった。

 しかしそんなことをいちいち見ているひとというものが居るものらしい。


「まあよくいらっしゃいましたね、真希子さん」

「わたくしのお家ですもの。訪ねて何悪いことありましょう?」


 八月。立て板に水、と言った口調で、真希子は玄関まで迎えた夫人に言った。日傘を閉じた彼女は、「耳だし」の髪に結い、上等そうな着物を、夏の蒸し暑さの中でもびっしり着込んでいた。

 夫人は少し苦笑しながらも、まあお上がりなさいな、と言う。言われなくとも、と真希子は草履を脱ぐ。

 居間に紅茶と菓子を持って来させると、真希子はしばし、その紅茶と菓子に関して批評を加えた。


「ああ、国産の青缶ですのね。だったらおっしゃってくれればよろしかったのに。先日、トワイニングの茶葉がたくさん、宅には入りましたから」

「まあそれは」


 夫人はどう言ったものか詰まる。


「今度たくさん持って来させましょうね。ああ、その時には、ケーキでもご一緒に」

「ありがとうございます。所で、今日は何の?」

「用事が無くては帰ってはならないのですか?」

「いえ、やはりそちらのお宅もお忙しいことでしょうに」

「何ーにも!!」


 真希子は両手を広げた。


「そりゃあ真希さんのお宅は、うちよりずっとおつかいになる人たちも多い訳ですし、きっと優雅にお暮らしなんでしょうね。でも、ゆかれる前は、ピアノだの、ダンスだの、その関係のお友達もいらして毎日忙しそうでしたのに」

「そんな! 皆それぞれのお宅で忙しくて、それどころじゃあありませんわ! 下手に家事全般に手が足りているというのも困りものですわね」


 本当に。どう言っていいのか、いつも夫人はこの娘には困るのだ。


「それで、真希さん、今日は何のご用事で?」

「ああそう!」


 ぶつぶつと文句を言いつつもつまんでいたクッキーを、真希子は慌てて飲み込んだ。


「こんなことを申し上げるのも何ですが、お母様」


 非難するような、その一方で何処かわくわくしているかのような目が、ぐっと大きく開けられる。


「先日わたくし、向こうのお義母様のお使いで、上野のほうへ参りましたの」

「上野ですか」

「そこで多希さんを見つけたんですのよ」


 口調が如何にも嬉しそうである。夫人はやや嫌な感じがした。


「別にどうということは無いのですかないですか? まあ、寄り道は誉められたことではないですけど」

「甘いですわお母様。そう言っているとだんだんあの子がつけ上がって行くんですのよ」

「でもまあ、上野と言えば、美術学校とか音楽学校もあることですし、きっとそういったお友達のところとか、そうそう、美術館で今何かいい催しをしていませんでしたか?」

「それだったらわざわざわたくし、お母様にお話いたしませんわ」


 少し苛立った様に首を振り、真希子は綺麗に整えた眉を吊り上げる。それは毎日毎日、熱心に鏡を眺めている顔である。たくさんの使用人にかしづかれ、日々美しく在るために、長い時間をかけている顔である。


「ではどういう」


 夫人はやや不安になる。


「確かに仲がいいらしい子と歩いていたのですがね。腕など組んでいましたし。でもどうも学校のお友達ではないようですのよ」

「と言われますと?」

「わたくしの見たところでは、あれは学校に通ってるひとではありませんわ」


 え、と夫人は息を呑んだ。


「洋装の子でしたの。だけど何処か…… おわかりでしょう? 何か、判るじゃあないですか。ちゃんとしたお家のお子さんか、そうでないかくらい!」

「……」

「わたくし少し後をつけてみたのですけど、どうにもその態度がはしたないことですし…… 買い食いとかもしているようですし」

「まあ」


 夫人は眉をひそめる。後をつけることははしたないことではないか、とも少し心をかすめたが、多希子への心配の方が勝った。


「ぜひ一度、お母さまから注意してやってくださいましな。あの子のためですのよ」

「そうですね……」


 自分や多希子に多少なりとも反感を持っている真希子の言葉だから、多少は誇張も交じっているだろう、と夫人は思う。

 しかしこのように、自分達に反感を持たせてしまったのは自分なのである。よかれと思って勧めた嫁ぎ先は、どうやら本人には満足のいくものではなかったらしい。

 それを考えると、余計に多希子には姉の二の舞はさせたくないと思うのだ。


 その夜、夫人は父親の一ノ瀬氏に話を持ちかけた。

 無論多希子が不良(?)らしい子とつきあっているのではないか、ということは口にはしない。彼女は娘をできるだけのびのびとさせてやりたかった。

 それでいて、良縁に、と考えるのは矛盾が無いか、と言われれば、それはそれで、この時代、特に矛盾とは考えられていないのである。

 真希子が昼間訪れたことを話し、彼女が婚家でどうもあまり満足していないのだ、ということを話してみた。


「私が悪いのですわ。もう少し真希さんの気持ちを思いやってやれば」

「ああ、あれも根性なしなのだ。放っておきなさい」


 今日だけではない。上の娘が婚家の文句を言いにしばしば実家へと戻ってきていることは、彼もよく聞いていた。


「だいたい真希子は嫁いだらそこが自分の家なのだ、ということを忘れているのだ。お前も今度来たら、いちいち話を聞いてやるのではなく、突き返すくらいで行け。お前が母親なのだから」

「でもだからこそ、多希さんにはちゃんとあの子の気性に合ったお宅へと嫁がせてやりたいのですわ」

「まああれも、なかなか頭でっかちの所があるからな。困ったものだ」

「でも優等生ですから、私も鼻が高いですわ。級長をしたこともありますし」

「ふむ」


 父親は節くれ立った指をあごに当てた。


「できれば、早いうちに相手の方とおつきあいさせて、しっくり行かせてからのほうが…… それでどうしても合わない方だったら、またその時考え直すこともありますし」

「お前も相当甘いな」


 しかし自分も甘いことを、この父親は良く知っていた。

 ただ甘いことは甘いのだが、理解はしていない。それを多希子が知って、あきらめかけていることなど、なおのこと、知らないのだ。それが幸か不幸かは、心持ち次第と言えばおしまいなのだが。


「いいご縁を得て、多希さんの幸せな花嫁姿を見とうございます」

「それはもちろんわしも同じだが」


 一ノ瀬氏は少し考えて見る。自分の守備範囲で、なおかつ多希子に好かれそうな「いい男」はいなかっただろうか。あの娘は、自分と話ができないような馬鹿な男は嫌いだろう。歳は。あまり若すぎても困るし、かと言って。

 頭の中に若手の幾人かを浮かべてみる。これはどうだあれは駄目、と考えていたが、やがていきなり手をぽん、と叩く。


「おお、そうだ」

「どうなさいましたか」

「彼なら良かろう。うん」


 自分一人で納得した顔だったので、夫人は少しすねた顔になる。


「おひとりで楽しんでいないで、お教え下さいな」

「ああ、そう急かすな。宇田川君だ」

「宇田川さん……ああ、先日大連からお帰りになったという方ですのね」

「そうだ。向こうでの大共和生命の新社屋のコンペで入賞して、その関係でしばらく向こうに渡っていたのだが、仕事も終わって、こっちに戻ってきたのだ。わしもうちの社の設計部に誘ったのだがな、昔から世話になっている設計事務所に、ということで見事にふられてしまった」

「ああでも、多希さんを振るなんてことはできませんわ」


 ほほほ、と夫人は笑う。そういえば、多希子を使いに出した時、その青年にも挨拶をしていたのではないか、と思い出す。

 しかし多希子は覚えていまい。何となくそれが判ってしまうあたりが、彼女は母親であった。



「へえ、また新しい帽子じゃないの」


 くわえ煙草で、脱いだ上着を肩に掛けた男は、彼女の前の席に座る時にひょい、とその帽子を取った。


「何すんのよ!」


 ハナは思わず言い返す。帽子をあっちに返しこっちに返し、男はまじまじと見つめる。


「いつもながらよく作るなあ、と思ってさ。今度のは何風?」

「ディートリッヒ風。こないだ、ちらしを一枚もらったんだ。ふん、どうせ似合わないと思ってるんでしょ」

「別にそんなこと言ってないけどね?」


 にや、と笑って彼はハナに帽子を返す。

「変な帽子、って言わないんだ、日比野さん」

「面白いとは思うけどね。確かにその辺には売ってない」


 そんな会話も、決して大声では無い。さすがのハナも、このクラシック音楽が絶えず流れる喫茶店の中では、そんなことはできなかった。

 最初に彼に連れられてここに入った時には、どういう態度を自分が取ったものか、本気で迷った。場違いだと思った。

 だが慣れとは恐ろしいもので、今では勘定を払う彼が来る前に、堂々と珈琲に加え、ちょっとした軽食まで頼んで彼が来るのを待っている始末である。


「物好きと言えば物好きだね、全く君は」

「悪い? あんたの方がよっぽど物好きだと思うけど」


 物好き。そう、この目の前の男は確かに物好きだった。

 以前働いてたカフェーをくびになったのは、あまりにも頻繁に彼女のお尻を触ろうとする男が居たからだった。ある日遂に切れた彼女は、その客に平手打ちを食らわせた。

 そんな場所と判っていて働いていたのだから、ある程度までは仕方が無かった。仕方が無い、と思っていた。思おうとしていた。しかし彼女には我慢ができなかったのである。

 ああ明日からのごはんをどうしよう、でも何とかなるさ、と矛盾したことを思いつつ、彼女はまとめた僅かな荷物とともに、とぼとぼと歩いていた。

 そこに現れたのが彼だった。後ろから急ぎ足でついて来る気配に、思わず好戦的な姿勢を取ったら、見事に受け止められてしまった。

 何でもその平手打ちの現場を見ていたのだという。そして馬鹿じゃないの、という感想を持ったのだという。

 たいていは、それでも生活がかかっているんだから妥協するところである。食うためなら意地は張っていられないのだ。

 ところが、彼女ときたら住み込みのくせに、我慢の糸を切ってしまったのである。

 馬鹿だな、と思いつつ、何となく気になったので、つい後を追いかけてしまったのだ、と。 

 そして彼はハナをこの喫茶店に連れてきた。

 この物好きな男は、何でも日比野男爵の次男坊なのだという。そして現在、帝大の学生なのだ、と。


「ただし少し長居してるがね」


 そう言ってけだるそうに笑う彼を、どら息子、と彼女は思った。

 が、そのどら息子は何故か彼女に知り合いの映画館に、彼女を紹介した。それから二年程、彼女はそこで案内嬢をやっている。だからまあ、恩人と言えば恩人だ。

 カフェーの女給程の収入は無いが、映画館には住み込みであるし、仕事は出ずっぱりという訳ではないから、彼女にはものを考える余裕ができた。

 洋服を自分で作り始めたのもその頃だった。最初は制服だった。それまで洋服は着たことが無かった。おそるおそる着てみたそれは、着物よりずいぶんと動きが楽だった。

 だが洋服の良さが判ったからと言って、簡単にはいそうですかと買えるものではない。そもそも通りを歩く人々の大半が着物である時代なのだ。

 どうしよう、と彼女は思った。お金はあまりない。だったら自分で作るしかない。彼女の考えはいきなりそこに走った。

 ところが彼女は洋裁のよの字も知らなかった。知っていたのは、故郷で世話になっていた叔母が教えてくれた着物の裁ち方・縫い方だけだった。

 それ以来、ずっとこの裁ち方で彼女は洋服を作っている。ボタンや襟は見よう見まねだった。制服を横において、形を紙にとって、という方法を繰り返し、何となく、こうではないか、とわかり掛けてきた。

 しかし所詮は「見よう見まね」であり、まがい物であることには間違いない。 

 そして彼がこう追い打ちを掛けるのだ。


「それでもよく出来てるよ? ちゃんと何処かで修行すればいいのにね」

「どうせあたしの育ちじゃ置いてくれる店なんてないよ。親は居ないし、最初の職場は飛び出してるし」

「そりゃ君の居た工場が悪いんだろ。だったらさ、学校行けば? そのくらい親父に頼めば資金は出してやれるよ。ちゃんとした学校出れば、それなりに向こうも見てくれる」

「やだよ」


 彼女はあっさりと答える。そして彼もまた、そんな時、それ以上には特には勧めない。

 彼女が生まれたのは、横浜だった。六つの時に震災で両親を失い、親戚中をたらい回しにされていた。

 それでも彼女は高等小学校までは行けたのだ。小学校の教師が熱心にその時の叔父夫婦を口説いた。彼女自身も勉強できるものだったらしたかった。

 だけどさすがにそこまでだった。卒業したら、叔父夫婦はその時の学費と生活費、とばかりに彼女を東京近辺の工場に売った。正確に言えば、支度金と給料の前貸しを受け取って、彼女と縁を切った。そしてやがて彼女はそこを抜け出して、東京で職を転々としてきたのだ。


「物好きと言えば、まあ、うちの親父が一番だとは思うけどね」


 日比野は言う。

 彼の父親の男爵は明治になってから「特に国家に功労にあった」事で爵位をもらった類だった。

 だからとにかく金銭的余裕だけはある。しかし自分に学が無いことを振り返り、才能のある若者には支援してやりたい、と思っているのらしい。そのあたりは物好き、とハナも思うが、同時に凄い、と思わずにはいられない。

 そしてその息子は、何故か帝大に入っていながら、既に二年も留年している。

 こんなろくでなしなのにさあ。

 彼女は割り切れない思いを抱えている。

 だってそうじゃないの。彼女は思う。そんな裕福だったら、ちゃんとその持ってる金を使って、できることをじゃんじゃんやればいいのに、何を毎日うだうだうだうだしているんだろう。

 じれったい。だけど、その反面、また彼自身が何処かで何かを待っているような顔なのを、彼女は感じ取っている。

 したいことが分からないなんて、贅沢な悩みだ、とハナは思う。彼女にしてみれば、したいことがあるのに、それが物理的社会的に阻害されている状況なのだから。

 だけど彼女にしたところで、気付いていないが、自分のプライドだけで、彼や彼の父親に無心ができないでいるのだ。



「縁談?」


 あらまあ、とハナはぽとりと匙から白玉団子を落とした。


「いきなりじゃん」

「まあね」


 予想はしてたけど、と多希子は仏頂面で返す。


「そりゃあまあ、仕方ないか」

「仕方ないわよ。だけどねえ」

「いい人?」

「背は高いし、将来有望な建築士だし、年はぎりぎり十は離れていないし、顔も整ってるほうだと思うし、声を荒げたりもしないわよ」

「じゃかなりの好条件じゃん」


 落とした白玉をあずきの海の中からハナはすくい上げる。喫茶店よりも「しるこ屋」が彼女達のような少女には入りやすい所だった。


「いいひとだったら別にいいじゃない」

「だけど」

「他に好きな人が居るわけ?」

「居る訳ないでしょ」


 そういうものかなあ、とハナは目を丸くする。


「そんな暇ございません」

「あたしと会ってる暇はあるくせに。お嬢さん」

「またお嬢さんお嬢さん言う。あたしは多希子よ。お嬢さんって名じゃあないわ」


 ふふん、とハナは笑う。


「それに、そういうこと考えたことも無いし」

「だったらいいじゃん多希さん。つきあってみれば」

「だからつき合うことは、決まってるのよ。お父様もお母様も期待してるし」


 だけど、と多希子は眉を寄せた。つまりはただ何となく誰かの言うがままになってしまうことが嫌なのだ。


「あのひとはいいひとだと思うわよ。もしかしたら好きになるかもしれない。けど今この時点で卒業してすぐに結婚してしまう、というのは何かが違うと思うんだもの」

「ぜーたく」

「言って下さい幾らでも」


 そうだった。彼女の会った若手の建築士の宇田川は、正直、かなり「いい男」の部類だった。自分が断らないだろう、と思われるくらいの男をわざわざ父親が選んだのだから、それは当然だと思う。父親は人を見る目がある。だから決して多希子にとって悪い人物を選んだりするはずはないのだ。


「男前だった?」

「興味あるの?」

「そりゃあねえ」


 ぷう、と多希子は頬を膨らませ、自分の前のしるこを一匙すくう。


「そりゃ、俳優のような男前、ではないけれど、そのへんにたむろしてる学生よりは格好いい、と思ったわ。それに、ちゃんと距離とってくれるし」

「距離?」

「慣れてないから。男の人がある程度以上近づくと、逃げたくなるのよ」

「ああ」


 なるほど、とハナはうなづく。さしづめ自分だったら張り倒したくなるような距離、というところだろう、と彼女は納得する。

 多希子は先日の会話を思い出していた。


「だけど何故、あなたはそんなにコンクリートの建造物とかに興味があるんですか?」


 父親の勧めで、劇場に行った帰りだった。パーラーでアイスクリームでも、という宇田川に従って歩いていたら、建設中の宝塚劇場が彼女の視界に飛び込んできた。

 宝塚がお好きですか、と彼が聞いたので、いいえ、建物に、とつい言ってしまった。


「あってはいけませんか?」

「いえ、そういうことではないんですが」


 くす、と笑う。


「珍しいな、と思うのです」

「それはよく分かってますわ」


 少しすねた様に彼女は言う。


「いや、建物や住宅に興味を持つ女性は結構あるのですよ」

「え、そうなのですか?」


 それは初耳だった。


「ええ、決して多くは無いのですが、建築事務所で働く女性だって居る。全くのゼロではない」


 多希子は思わずアイスクリームの匙を置いて、話に身を乗り出していた。


「一畳だけの台所、とか、とにかく生活に密着した住居に関しては、実のところ、女性のほうがいい目を持っていたりします」

「ああでもやっぱり、家、なんですね。台所とか、小学校とか、大きなビルとか、そういうものを作ろう、というひとは無いんでしょうか?」

「残念ながら、今のところは」


 彼は苦笑する。


「やっぱり無駄な夢なのでしょうか」

「夢、ですか?」

「はい」


 多希子はうなづく。そしてハナに言ったような自分の気持ちを手短に話した。


「それと、あと、私の通った小学校が、新しかったんです」

「というと、震災後に作られた、あの」

「ええ、コンクリート作りの、窓の上の方が丸い。姉が通っていた当時はまだ木造の校舎でしたけど、私の通った頃に建て替えられたんです」

「なるほど。そう、あれらの学校建築は、明治以来の画期的なことでしたね」

「そうなのですか?」

「何しろ、当局の局長がもう熱心で。特に理科教育の設備と、暖房については、彼が激しく必要性を主張したということです。だけど文部省のお偉方ときたら、暖房は要らない、作法室を作れ、というような態度で」


 はあ、と多希子はうなづいた。初耳だった。


「建設中の小学校に、勝手に作法室が作られている、と聞いた彼は、何と、その作りかけを壊させたそうです」

「ええっ」


 さすがにそれには彼女も驚いた。


「だ、大丈夫でしたの?」

「あなたの学校はいかがでしたか? 暖房が無かったりしませんでしたか?」

「ええ、あの、冬でもスチームが効いて、暖かかったですわ」

「では、そういうことですよ」


 今度は彼がにっこりと笑った。


「何、結局そんな話ばかりなの?」


 ハナは口を歪めた。


「面白かったわ。今までの誰の話よりも。あ、あなたは別よ」

「それはどっちでもいいけど、色気も何もありゃしない」

「色気なんて無くてもいいじゃない」

「あればあったで楽しいと思うけどなあ」

「私はいいの」


 ずるずる、と多希子はわざとらしくしるこをかきこむ。


「だってね、誰も今まで私にそういう話してくれた人いなかったのよ。無論お父様はそういう話を私がすると、女の子らしくない、って嫌がるし、お兄さまは何か私のように何も知らない奴には話したくない、という感じだし」

「それはまあ、そうだろうねえ」

「でも私はそういう話をしたかったのよ!」


 どん! と多希子は卓を叩いた。振動で、そばに置かれていたお茶が倒れそうになる。ハナは慌ててそれを押さえた。


「そんなに好きだったら、本当、あんた建築家になっちゃえばいいのに」

「あなたもかなり大胆なこと言うわね」

「そんなに大胆かな?」

「女の人の洋裁師は結構居るじゃない。それに比べれば大胆よ」

「そんなのは最近のことだよ。それまでは女が、なんてとんでもないって言われたもんだし。何だってそうだよ。まあ分野は少しずれるだろうが、建築やってる女の人、居るんだろ? だったら、うだうだ言ってるなら、なってしまえばいい」

「どうやってなればいいのか分からないんですもの」


 は、とハナは両手を広げた。


「だいたいハナさん、あなたはどうなの? 私のお見合いのことばかりずいぶん聞くけどあなたには、そういうひとは居ないの?」

「そういうひと?」

「好きなひとは居ないの、って聞いてるの。あなたがお見合いってことは無いだろうし」

「そりゃああたしには紹介してくれる立派な親は居ないしねー」

「ばあか。そういうことじゃなくてねえ」

「はいはい判ってますって。居ない訳じゃあないよ」


 なあんだ、と多希子は口を歪めた。


「私のことばかり言って」

「悪かったねえ。でも始めっから叶わないって判ってるからさ」


 らしくない、と多希子は思った。しかしひとを「らしくない」ようにさせてしまうのが、そういう気持ちなのかもしれない、と思ったりもする。何せ彼女には経験が無いものだから、そのあたりがよく判らないのだ。

 しかし興味はある。自分にばかり喋らせてずるい、という気持ちもあった。皐月とはそういう話をしたことが無い。


「世話になってるひとが居るんだけどさ。あたしを今の職場に紹介してくれたひと」

「あら、いいじゃない」

「けど男爵の次男坊だよ?」

「う」


 多希子は詰まった。さすがにそれは身分の違いが大きくのしかかる。


「それに、何かもう、二年も帝大を留年してて、だらだらだらだらしてて、何やってるんだよ、って感じでさあ。それでいて何かたくらんでいるようで、いけしゃあしゃあと色んな話するし……」

「それでも好きなの?」


 ハナは憮然とした顔で黙った。


「何かさ、時々変な顔、するんだよ」

「変な顔?」

「何か、待ってるような顔。で、それを見ると、何か、言うこと聞いてやっちゃいたいなあ、という感じになる」

「よく判らないわ」

「たぶんあんたには判らないと思うけど」

「あぁまた決めつける」


 知らない、と多希子は残ったしるこを一気にかきこんだ。



「それじゃあ、今度の時には、赤坂の葵館へ行きましょう」

「葵館?」

「洋画の映画館ですがね、建物のつくりが面白いのですよ。ほらこないだお話した、震災後の建築集団」

「ああ」


 彼女は目を輝かせる。あれから見合い相手の宇田川とは時々会っていた。親の側からしてみたら、「おつきあい」が順調だ、ということで喜ばしいのだろう。度重なる外出も、喜んで許してくれていた。もっとも多希子は、と言えば、彼からとにかく建築関係の話を聞きたくて仕方ないから、だったのだが。


「けど本当に多希子さんはお好きなんですね」

「え?」

「建築が」

「ええ。なぜだか判らないんですけど」

「何故だか判らないけど好き、というのが一番大きいんですよ。金のためとか、誰かのため、というのでは、その目的が無くなった時、やる意味を無くしてしまうでしょう?」

「そういうものですか?」

「まあそういうものです。大陸ではそういう人も時々見ました」

「そうですか」


 そう言えば、と多希子は思う。自分は建築の話を色々このそひとから聞いたが、このひと自身の話はほとんど聞いていないのではないか。

 少しばかり、彼にも興味が湧いてくる自分を感じた。


「お腹、空きませんか?」

「あ、そんなには」

「じゃあ、ちょっと何処か喫茶店で軽くサンドウィッチでもいただきましょうか」


 ええ、と多希子は言う。そういえば、このあたりを以前歩いていた時、ハナが「ここに行ったことがある」と言った喫茶店があるはずだった。珈琲とケーキが美味しかった、と。


「ちょっと入ってみたいところがあるんですけど」


 扉を開けると、クラシック音楽が耳に飛び込んできた。

 喫茶店そのものに多希子はほとんど入ったことが無い。それでも一度二度、夫人と一緒に入った所は、天井も高く、たくさんの客席があるような所だった。

 だけどどうもこの店はそうではないらしい。店全体がこぢんまりとしている。照明もそう明るくはない。あちこちに置かれている南国の植物が、この場所をいきなり異国の何処かの街めかせる。

 こんな所にハナは出入りしているのかしら、と多希子は思う。


「だからそれはね」

 そして案の定、その声が耳に飛び込んできた。


「どうしました?」

「あ、知り合いが」

「知り合い?」


 宇田川は訝しげに首を傾ける。令嬢が知り合いを持つような場所ではないはずなのだ。


「ちょっと私彼女に」


 足を踏み出し掛けたときだった。


「……でも多希さんはね」


 自分の名前? はっとして多希子は踏みだしかけた足を引っ込めた。どうしたんですか、と問いかける宇田川にしっ、と指を一本唇の前に立てた。


「多希さん、ね。何か君、最近変わったよね」

「そんなこと、ないよ」

「だいたい、君があのお嬢さんとよく続いてるね、と俺は思っているのだけど」

「……」

「あの時君は言ったよね。わざわざ芝居組んで、仲良くなって、できるだけ金巻き上げようって思ったからって。違う?」


 顔は見えない。だけどその声は何処か楽しそうで。あれがハナの言っていた「男爵の次男坊」だろうか、と多希子は思う。

 いやそれどころではない。多希子は内容に耳を傾ける。お席に、と言いたそうなウェイターには、宇田川が少々待つように、と言っていた。


「そんな!」


 何か言い返そうとは思うが、ハナはいまいち上手く言い返せないようだった。


「この間、君の団の連中に会ったけれど、何か君が、最近何の指示も出してくれないから、くすぶってるし。いっそもう、手を切ったらどう?」

「そんなことを、あんたに言われる筋合いはないよ、日比野さん!」

「でも私には言う筋合いがあるんじゃなくて?」


 ずい、と多希子は一歩踏み出した。


「多希さん!?」


 ハナの目と口は大きく見開かれた。

 多希子は数歩大股で歩くと、思い切り手を振り上げる。

 ばしん! と音が響く。


「いっ、たい! じゃないの!」


 ハナは頬を押さえる。学校の部活動でテニスを時々やっていた多希子は割合腕力があった。


「あなた、私のこと、そう思ってたの!?」


 聞いてたのか。ハナはちっ、と舌打ちをする。

 こんな場所に多希子が来るとは思ってもみなかったから、平気で喋っていた。背後に男の姿があることから、この男が連れてきたのだ、と納得する。保護者同伴って訳ね。


「そりゃあ思ってたさ! いい鴨だってね。何不自由ないお嬢さんだからさ!」

「って。本当にじゃあ、今までだましてたって訳なの?」

「それじゃあ悪いかい?」

「悪い、わよ!」


 もう一発、と彼女は手を振り上げる。だがハナも今度は黙っていなかった。飛んでくる平手をぱっと掴み、ねじ上げる。


「痛いじゃないの!」

「あたしだって今の痛かったんだからね!」


 だけど多希子の力は思いの外強かった。ぶるん、と思い切り腕を振ると、拘束していた手が外れる。


「ずっと話してたことも、嘘だったって言うの!? あたしが勝手に話してただけなの?」

「それは嘘じゃない」


 きっぱりとハナは言う。


「確かに最初はそう思ってたさ。いいとこのお嬢さんだったら、つきあってそのたびに金出させる方が得だってね。だけど」

「だけど何よ」

「あんたが変な奴だから悪いんだよ!」

「変な奴って何よ! あなただって変わってるじゃない!」

「あんた程じゃないよ! それにそうだよ。なのにうだうだうだうだしてさあ。あたしがあんただったら、親が何って言おうが、親だましてでも、今したいことするように持ってくよ! あんたはまだそこまでしてないじゃないか!」

「あなただって何よ! 男爵の援助、受けられようと思えば受けられるんじゃない! 何突っ張ってんのよ!」

「って」


 席に案内しようとしていたウェイターは、その様子をはらはらしながら見ていた。何処で止めようかと迷っているかのようでもある。


「相変わらずだな、日比野」

「なあんだ宇田川か。お前こそ、ずいぶんと立派になったもんだ。ふうん、一ノ瀬の令嬢と、おつきあい、している訳ね?」

「別に立派になろうと思った訳じゃないさ。好きなことをしてたたけだ」


 その会話を聞いているうちに、何となく女の子二人の手と口が止まった。


「俺もそうだよ。好きなことをしている」

「本当にそうか?」


 日比野の表情が、ほんの少し硬くなった。


「お前はずいぶん父上の事業のことについては批判的だったがな、やり方が横暴だとか、貧しい人達が可哀想だとか」

「そんなこと言ったかね」

「言ったさ。だからそういう父親の事業には荷担したくない。それには僕も賛成した。だが今は何だ? 綺麗な服も、父親の金だろう」

「ふうん? 別に今は否定している訳じゃあないさ。ただ、気力が湧かなくなってたんだよ」

「日比野さん」


 ハナが口をはさむ。


「それで、ずっと、そんな暮らし続ける気なのか?」

「さあて」


 多希子はハナがそんな彼をやや不安げに見ているのに気付く。確かに今は怒りたいことも山々だったが、それ以上に、今はここに自分達が居てはいけない、と思った。

 行きましょう、と多希子は宇田川に言った。


 翌日、多希子は皐月の家に出向いた。

 あらいらっしゃい、と彼女の母親はにこやかな笑顔で迎えてくれた。

 皐月の家はリベラルな教師一家だった。母親は元教師で、結婚して退職したのだという。

 家は多希子の家とは比べものにならないが、それでも真ん中に廊下があり、玄関横に「応接間」の洋室がある、ある程度の余裕がある家庭の和洋折衷型の家と言えた。

 そしてその家の中には、小さいながらも皐月の居場所、というものも確保されている。彼女の上に兄が居るという状況なのに、彼女の居場所もあるあたり、進歩的な家と言えよう。


「ふうん」


 差し向かいで座った皐月は、前日の話をしばらく半目開きで聞いていたが、終わるとぱっと目を開けた。


「で?」

「で、って?」

「いや、あんたがわたしの所に来る、ということは、何を期待しているのかな、とね」

「冷静ね。そういうとこ嫌ぁよ」

「だってなあ。そのハナさんは最初はともかく、あんたのこと気に入ってしまったから、その後何だかんだ言って、『巻き上げ』もせずにちょくちょく会ってたんだろ? あんたおごったりしたかい?」


 多希子は首を横に振る。


「だろ? じゃあ別に、いいじゃないか。彼女の立場だったらやりえる話だろ?」

「それはそうだけど」

「じゃあ何に対して落ち込んでるんだよ。その夢、の話?」


 多希子は黙ってうなづいた。


「確かにあんたの家の場合、親父さんが社長である以上、なかなか難しいだろうが。そうだな。でも、まだあんたはぶつかってもいないからな」

「あなたは強いから。それにあなたのお家の場合、あなたが高等師範に行くこと、応援してくれてるじゃない。家とは事情が違うわ」

「それはたまたまの結果さ。まあ確かに、そういう家に育ったから、そういう夢を見た、というのは否定しないがね。それはあんたと同じだよ」


 ぐっと詰まる。皐月は腕組みをして、首を軽く傾げた。


「わたしは確かに運が良かったさ。だからその運を最大限に利用しようと思う。それだけのことさ。流されるのは嫌いだからね」

「流される」

「進むも意志、逆らうも意志さ。…実のところ、ちょっとだけ、母上の抵抗という奴があったのだよね」

「ええっ?」


 皐月は頭をかく。あのひとが、と先ほど紅茶とカステラを運んできた彼女の母親の姿が心をよぎる。


「あのひとは教師時代、結構色んな目にあったみたいだからね。だからわたしにはその苦労させたくない、と思ったんじゃないかなあ」


 なるほど、と多希子は思う。


「だけどあのひとの時代とは少しは違っているはずだし。それに、わたしはあのひとじゃあない。同じことがあのひとには苦労になっても、わたしにもなるという保証はないし、その逆も同じだ。だったらやってみないことには分からないだろう?」


 確かに、と多希子はうなづいた。


「時には抵抗の意志がある、ってことを見せなくてはいけない時もあるんだよ」


 軽い口調だったが、友人の目は真剣だった。多希子はそれを見て、何やら逆に、苛立つものを感じる。


「そうよ私、それはすごくよく分かっているのよ! あのひともそうなのよね! みんな強いのよ! でも私そんな強くないわ! だから悔しいんじゃないの!」


 叫ぶ様に言うと、思わずぽろり、と涙が出てきた。感情が激していたから、涙腺が緩んでしまったらしい。はいはい、と皐月は多希子に近づくと、その肩を抱く。多希子はわっと友人の胸に泣き崩れた。


「なあ多希子、あんたは何だかんだ言っても、強いよ」


 頭を撫でながら、皐月は言う。喉に引きつりを覚えながら、多希子はそれに答える。


「嘘ばっかり」

「大丈夫。好きなようにしてみなよ。ただし本当に好きなことをね」


 背中を押すくらいのことは、自分にもできるんだ、と。



「この間、少し、私、安心しました」

「安心?」

「だって、あなたがあんな風にお友達とおしゃべりなさるなんて思わなかったんですもの」


 ははは、と彼は笑う。

 宇田川と会うのは二週間ぶりだった。夏休暇ももうじき終わろうとしている。日比谷公園の木陰で待ち合わせをしていたら、頬を軽く秋風がよぎった。

 そのまま二人は、何処に行くともなく、話しながら歩いていた。

 ハナとはずっと会っていない。

 毎日が変わり映えしなく、ようやく彼が連絡をしてきた時には、ぱっと視界が明るくなったようだった。


「それはまあ、学生時代の友人と、あなたと話す時の口調が同じではいけないでしょう」

「何故ですの? 私が社長の娘だから?」

「まあそれもあります」


 正直なひとだ、と多希子は思う。


「でもそれと同時に、あなたが女性だから、ということもある。それもできれば、好意を持ってもらいたい対象として」

「それは、私のことを好ましく思っている、ということですか?」

「はい」

「どうして?」


 さて、と彼は一度首を傾げる。


「まあ率直に言ってしまえば、当初は『いい縁談』ですね」

「本当に正直なひと」

「だけど、どうしても合わないひとだったら、すっぱり断ろうとは思っていました。何せ僕はああいう気性で。友達には結構ずけずけとものを言ってしまって、時々恨まれることもあったし」


 そんなことが、と多希子は肩をすくめる。


「だからまあ、最初会った時は、ちょっとなあ、と思ってたんですよ。上手いこと口実つけて、断ってしまおう、と。まあ確かに社長の令嬢、というのは美味しい。だけどつまらない相手だったら、それで一生過ごすのは出世よりつまらないよなあ、と思ったんですよ」


 本当にずけずけ言うな、と多希子は思う。だがずけずけと言われるだけの相手に、自分がなっているのか、と思うと少しこそばゆい気持ちがした。


「出世なんていうのは、別に女性の手を借りずとも、色んな方法でのし上がることも可能でしょう。それもできないというのは、僕のポリシイに合わない」

「大胆な御発言」 

「どうも。だけどあなたが、建築の話を振った時、建築家になりたい、と言われたから」

「え?」


 多希子は思わず問い返していた。


「それまでのあなたとの会話は実に退屈だった。まあ実際あなたも退屈じゃなかったですか?」


 図星である。


「そんなに違っていましたか?」

「ええ。まるで。そう、大陸で会った女性達の中に、時々そういう方が居ましたね」

「大陸に」

「こっちでは色んな制約があってできないことが多い女性が、大陸に飛び出してきて、必死でその道を探そうとしていたりします。他にも、欧州から渡ってきた女性とか、民国でも都会の女性の中には居ましたね」

「私本当に、視界が狭いんですね」

「や、視界が狭いのはあなたのせい…も多少はあるけれど」

「……」

「でも大半は環境のせいですよ。目隠しされていては、見られないものが往々にしてある。そんな中で夢を見られることの方が、よっぽど凄い。あの日比野と一緒に居た彼女、が前にあなたの言った洋裁師になりたい子でしたよね?」

「ええ」

「彼女のように、働くことが当然の階級に生まれ育ったなら、ある程度そういう夢は見られるんですよ。周りにお手本があるから。だけどあなたはそうではないでしょう」


 確かに、と多希子はうなづく。


「だとしたら、意志としては、あなたのほうが、強いかもしれない」

「誉めすぎですわ」


 多希子はうつむく。そして少しの間、二人の間に沈黙が行き過ぎた。


「宇田川さん、あなたにお聞きするのは失礼なことなのかもしれません」

「どうぞおかまいなく」

「だって私は、確かにこうやってあなたとおつきあいしていますけど、結局は今結婚がどうこう、なんて考えたくないんです」

「それはそうでしょうね」

「だからそういう相手、として紹介されているあなたにお聞きするのは、見当違いなのかもしれないですけど」

「どうぞ」


 多希子は立ち止まり、ぱっ、と彼の方を向いた。


「どうしたらいいんでしょう? 私」

「どうしたら、とは?」


 彼もまた、足を止めた。


「何とかしたいのに、私の悪い頭では、考えが手詰まりなんです。建築家になれるかどうか、でなく、なりたいから、その方法を探しているのに、その取りかかりが私には分からないんです。私が目を閉じているだけなのかもしれないのですが、その目の開き方が分からないんです」


 それこそ、目隠しをされていたから、急にそれをはぎ取られても、どうやって周囲を見渡せばいいのか、判らないのだ。

 彼はしばらく黙っていた。何を考えているのだろう、と多希子は思ったが、その表情からは読みとることができなかった。


「少し、座って話しましょう。そこの、松本楼ででも」



「多希子さんは、N女子大学校の家政学部に住居学科というのがあるのをご存じですか?」


 珈琲を前に、宇田川はそう切り出した。


「住居学科?」

「前にお話したでしょう? 女性の建築家は無い訳ではない、ということを」


 彼女はうなづく。


「他にもそういう学校があるかもしれませんが、僕が知っている限りでは、あの学校は、一級建築士の資格が取れるはずです」

「え」


 多希子は思わず声を立て、テーブルクロスを掴んでいた。彼は確か、というようにあごに手をやる。


「住居、だから家庭のこと、と皆あの学部のことを見がちですが、やっていることは何てことない、結構な理系の学問ですよ。いや、僕は、家事一切というものは、基本的に理系だと思いますがね」

「ということは」


 多希子の表情が見る見る間に変わる。


「それに、専門学校を…… ああ、女子大学は、専門学校だ、ということはご存じですよね」

「一応」


 皐月が進学する、と聞いた時に、聞いたことがあった。


「高等師範とかと同じように、あれは女子『大学』とは称していますが、実質、専門学校です。だがそこを卒業すれば、例えば帝大でも東北大とかなら、今では女性の入学を許しています。中には帝大の聴講生になって、そこから建築事務所に入っていく、という方法もある訳です。まああなたの場合は、お家がお家ですから、よその事務所に行くということはできないでしょうが」

「本当に、できるんですか? 女も大学で」

「全くできないことは、ないです。現にそうやっている人もいる」


 ぱん、と多希子の中で何かが弾けた。


「あなたがそうしたいのなら、僕も応援しましょうか?」


 応援。その言葉がひどく嬉しく感じる。だけど。


「お気持ちはとっても嬉しいですが、とにかく私、ひとまずは自分で当たってみたいと思いますの」


 そうですか、と彼は笑う。


「まず、父に当たってみたいと思います、ただ」

「ただ?」

「少し、お願いがありますの」


 がたがた、と食堂に皆一斉に入ってくる。

 窓の外には桜の木。満開だった。

 多希子はさすがにお尻がむずむずするような気持ちで、この食堂の椅子に腰掛けていた。

 四月。N女子大学校の入学式が今朝方あった。その後、彼女達新入生に、寮舎での歓迎会が行われることになっている。

 寮舎で一番人数が入る場所は、と言えばやはり食堂である。入寮してからせいぜい三日かそこらである。まだ顔も知らない人々ばかりの間で、柄にもなく多希子は緊張と孤独を両方味わっていた。

 官立の女学校からこの学校に入る者も無くはない。だが学部学科が違えば、どうしても会うことは少なくなるし、そもそも、入学していたのは仲のいい友達ではない。

 皐月は首尾良く高等師範に入学した。向こうは向こうで、新しい生活が始まったようである。きっとこれから手紙が忙しく往復することだろう。

 やがて歓迎会が始まった。選りすぐりの新入生は、そんなに人数が多い訳ではないから、ここで全員自己紹介を求められる。名前と、出身の学校と、これからの抱負をはっきりと言わなくてはならない。

 同じ出身の学校の先輩達は、それを聞いて、拍手や「がんばれ」などの声を飛ばす。自分の順の時、多希子の先輩達も結構居ることが、この時判った。少しだけ彼女はほっとする。寮舎ではそう見かけることが無かったので、あんまり居ないのではないか、という心配もあったのだ。

 学部学科別に自己紹介は行われていた。多希子が入学した家政学部はこの学校の顔だけあって、最初に行われた。「住居学科」が彼女のこの先数年間を過ごす場所だった。

 そしてその後に、「被服学科」が続いていた。

 数名、立ち上がって挨拶をした時だった。名前が告げられる。

 え?

 思わず多希子は振り返っていた。嘘。本当?

 がたん、と椅子を引く音がして、その場に立ち上がる音がする。低めの声が、食堂内に響いた。

 この声。多希子は思い切り顔を上げる。何処。


「磯山ハナです。私には出身の女学校はありません。私は専検です」


 一瞬場内は静まり返った。専検。それは高等女学校を出ていない者が、このような専門学校を受けるために通らなくてはならない試験のことである。

 努力が人一倍、必要なはずだ。

 誰ともなく、拍手がわき上がった。何処の出身でもない彼女に、一番の拍手が起こった。



「よく進学できたわね」


 歓迎会の後、多希子はハナを見つけて、その肩を思い切り掴んだ。驚きもせず、ハナはにやりと笑った。やっぱり、とつぶやくあたり、小憎らしい、と多希子は思った。

 そしてそのまま、こっそりと寮の庭へと移動した。ちょうど満開の桜が、常夜灯に照らされてぼんやりと不思議な空間を作りだしていた。


「日比野さんに、出世払い、ってことで借りたんだ」

「出世払い」

「あたしが嫌だったのは、勉強のための資金を、向こうが丸ごと出してくれる、って言ったことだったんだ。それだと、その先が縛られるような気がして仕方なかったからさ」

「ああ」


 そういうことか、と多希子は思う。あの頃、結局ハナは渋る気持ちの中身を話してはくれなかった。


「別に向こうはその気はなかったとしても、あたしの気持ちが承知しない。それを言ったら、日比野さんは、じゃあ、と言ってきた訳さあ」


 なるほど、と多希子は感心する。


「で、あんたと会わなくなってから、切符売りも返上で、半年間勉強三昧。日比野さんとこにほとんど監禁状態でね。何せあたしは、『苦肉の策』も知らなかったくらいだからね」

「か、監禁?」

「あー、と」


 照れくさそうにぽりぽり、とハナは頭をかく。何をこの「お嬢さん」が想像したのか、予想できたのだ。


「って言っても、向こうは結局、あたしのことを妹程度にしか考えていないからね。だから、強引にそんなことできたんだよ。どうせ出世払いだったら、同じだろ、ってさ。けどお屋敷ってのは嫌だね。広すぎる」


 何じゃそれは、と多希子は思った。けど何かハナの様子は嬉しそうだった。照れ隠しなのだろう、と感じた。


「男爵からはお許しが出たの?」

「男爵の方は、もともと『才能には金を』というひとらしいから。何度か会わされたけど、剛胆なひとだね。息子とは大違いだ。ま、でも日比野さんがようやく帝大を卒業しようって気になっていたから、それであたしを住まわせて、ってのも平気だったのかもしれない」

「卒業、したの…… ってしたいからってできるもの?」

「あいつはね! しようと思えば余裕でできたの! ったく」


 忌々しそうにハナは吐き出す。


「ただ出ても世間もつまらなさそうだから、ってんだからね。ったくもう」


 しかしその口調はやっぱり楽しそうだった。


「何でも、何年か大陸のほうにある子会社へ出向してくるってことでね。その間あたしには寮に入ってみっちり勉強してこい、ってことだったけど」

「何か、いたれりつくせりじゃない」

「や、そこは出世払い、だよ。必ずあたしはあいつとあいつの家には利子つけて返してやる」


 ハナはそう言って、拳を強く握りしめる。それでこそ彼女だ、と多希子は思う。


「けどそういうあんたもよく来れたね。まあ、来なかったら一生会わないつもりでいたけど」

「そこはここよ」


と頭を指さし、多希子はにやりと笑った。その笑みが自分のものと少し似ていたのに、ハナはぞく、とする。


「お父様達にはこう言ったのよ」



「婚約の話、お引き受けいたします」


 おお、と両親はその時、露骨に嬉しそうな顔をした。


「ただ、やはり建築家の妻となるのでしたら、それなりに話ができる家庭であるほうが、円満ではないかと思うのですが」

「ふむ、それはそうかもしれないが」


 宇田川に学校のことを聞いた日の夜、多希子は両親にあらためて話がある、と切り出した。

 あくまで、冷静に。そしてちゃんと頭の中で組み立てて。


「ですから、N女子大学の家政学部に進学したいのです。そこには建築のことを少しは学ぶこともできるようですから」


 嘘ではない。ただ、目的がやや違うだけで。

 一ノ瀬氏は、そんな娘に訝しげな顔を向けた。


「そんな学問などわざわざ苦労して勉強しなくとも、お前は良き妻良き母になれると思うがな。女学校でもいい成績だった。それで充分だろう?」


 父親は当然のように、そう言った。ここがふんばりどころだ、と多希子も思った。

 しかしそれに反論したのは、夫人のほうだった。


「あなた、多希さんのいい様にさせてやってくれませんか」

「何だねお前まで」


 一ノ瀬氏は、眉を強く寄せた。ここで妻が反論するとは思っていなかったのだ。


「悪いことでは無いと思いますのよ。ええ、お家のことでしたら、私もおいおいお教えしていきますから」


 夫人の気持ちを推測することは多希子にとってそう難しくはなかった。

 せっかくまとまりかけている縁談を壊したくはない。

 それにさすがに母親を長くやっているだけあって、こういう所で反対されると、婚約そのものが駄目になってしまうかもしれなかった。彼女の知る多希子の性格からすれば、その可能性は大きかった。

 夫人も何度か会ったあの青年が多希子の婿になるなら願ったりかなったりだった。それでまた別の、となると、それもまた厄介である。

 いい縁談で、娘の気持ちも向いているのなら、数年また学校に行かせることくらい、大したことではない。そして、本当に必要なら、学校など辞めさせればいい、と思っていたのだ。

 もっとも、そんな母親の気持ちまで、多希子が計算に入れていた、などと、この人のいい夫人は思わないのだが。

 多希子は無論辞めさせられる可能性も考えていたし、その時にはまた闘わなくてはならないことは判っていた。しかしそれは後のことだ。とにかくは、入らないことにはお話にならない。

 入るためには、母親は必ず味方になる、と踏んでいた。

 両方を揃えて「お話が……」と切り出したのは、そのためだったのだ。



「きっとお母様はそう言って下さると思ったのよ。あの方は、私が嫁がないうちには、妹の由希子を結婚させる訳にはいかない、って思っているから。だから私の縁談が壊れてしまうことのほうを恐れると思ったわ」


 くすくす、と笑う多希子。ハナは腕組をしながら目をむく。


「驚いた! 嘘一つつけそうにないあんたがねえ!」

「あら、私結構小賢しいのよ。知らなかった?」


 何も言わずに、ハナは苦笑する。


「で、彼と結婚、するのかい?」

「さあぁ」


 多希子は首をぐるりと回す。


「さあぁ、ってあんた」

「だって私、どうしてもそうしたかったんですもの。この学校に入って、建築を勉強したかったんですもの」


 にっこりと多希子は笑う。その笑みにハナはぞくり、とする。


「別に全くの嘘でもないしね」

「じゃあ何。彼のことも、好きになってしまった訳かい?」

「あら前にも言わなかった? 宇田川さんのことは、結構好きよ。一緒に居ると楽しいし、会わないとつまらないし」

「そこまでは聞いていないよ。それって、充分『好き』じゃないか」

「でも結婚したい程かどうか、まだそれはわからないわ。まだ私達、距離置いてるし」

「そうか」

「それに結婚は生活ですもん。だから宇田川さんとはもう少しゆっくりおつきあいしてみようと思うし。それは彼も承知の上だし。その上で、どうしてもその気にならなかったら」

「ならなかったら?」

「その時は、その時よ! ねえ、その時にはあなた、私と一緒に暮らさない?」


 呆れた、ハナはあははは、と笑った。その声につられて多希子も笑い出した。

 あまりにもその声が大きかったので、寮舎の近くの窓から抗議が来たくらいだった。

 二人はそれで、翌日から入学早々、寮内の有名人となってしまうのである。

 しかしとりあえず、この日の二人には、そんなことはどうでも良かった。


 やっと、足を踏み出せるのだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 空気感が素晴らしかったです。 色々と制限があるから気持ちの強さが見えることもあるという感じで。 [気になる点] 家政学って良妻賢母のための学問と認識していたのですが・・・?
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