境界線
日常と非日常の境目は驚くほど曖昧である。
毎日同じことをしていればそれが日常になり、それを繰り返さなくなった瞬間が非日常に変わる。だが繰り返さなくなったことを続けていれば、またそれが日常となる。曖昧だからこそすぐ染まりやすいのだろう。
そう例えば。
夕方の電車の中。僕はドアに凭れ掛かりながら流れて行く街中をぼうっと眺めている。車両の中をオレンジ色に染め上げていて、その光は僕にも向けられていてほんのり眩しい。次第に沈むであろう太陽は今日最後の一踏ん張りだと言うかのように、大きく光って世界の端へと消えようとしている。
これはここ最近の僕の日常で、一番最初は綺麗だと思って静かに興奮したものだが、時間が経てばその感動も静かになり「当たり前」なのだと無意識に認識されていく。少し寂しい気持ちにもなるけれど「当たり前」と思う心が常に勝って最終的に無関心へと変わる。そして僕は本当に何も思わなくなるのだ。
それが本当の「当たり前」になり日常へ組み込まれて、この電車のようにあっという間に流れて僕はどこかへ行ってしまう。それは楽でいいと思う。終点まであっという間だから。
そう流れに身を任せていた時。近くのシートに座っていた子供があ、と小さく声を漏らした。
次第に弱まるオレンジの光からそちらの子供に目を向けると、反対側の窓を指差して隣にいる母親に「お母さん、あっちの空真っ暗だよ」と知らせている。太陽が沈む場所と反対側は夜になっているよ、みたいなニュアンスのことでも言ってるのかと思い、指差した窓の向こうを見ると確かに真っ暗だ。
だがそれは夜ではなく、曇天としての真っ暗で。
「雷なるかな。」
「なったらこわいね。」
「雨ふるかな。」
「お父さん傘もってってないけどだいじょぶかな」
と親子の会話は続いていた。
そう、だから日常は面白い。延々と同じことが繰り返されると思い込んでいたところに、するりと介入してくる何かが、僕の世界を非日常へと変貌するのだ。それがどんなに些細なものでも、震えればもうそれは。
太陽は沈みかけて、世界は夜へと変わる。それと同時に黒い雲が雨と雷が訪れるだろう。どうせ終点まで行くのだから、いろんなものを見たい。暗闇に光る街並みを、流れる水滴が付いた窓というフィルターを通して眺めてみたい。
二、三個駅を通り過ぎた頃、窓の向こうで一瞬小さく空が光った。雨もそろそろこの電車を濡らしに来るだろう。
日常と非日常の曖昧なラインを走る電車に乗りながら、僕は希う。
終点まではまだまだ先なのだから。