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男が俺の方へ走って来るのとほぼ同時に、俺は長机へと走った。
想像以上に軽いそれを素早く持ち上げると、男の方へ。
男は、さっきまで行われていた“俺との全力追いかけっこ”によって体力をかなり失っていたらしくスピードこそ衰えてはいるものの、疲れを見せない迫力で、俺に掴みかかろうと俺のすぐ側まで走って来ていた。
「おらぁ!舐めてんじゃねーぞ!!ガキがぁぁああ!」
普通にやりあったんじゃ力負けするだろうと言う不安が俺の頭を過った時…、悪魔の呪文を唱える声が聞こえ、男は俺の目の前で固まった。
以外にも、そのチャンスに俺の体は素早く反応し、長机を男の体に押し付けると、壁まで一気に押して行った。
そして、内臓潰れろと言わんばかりに、壁と机で男の体を圧迫した。
…途中で魔法は溶けたらしく、男は、
「ぐっ、…ぐぉ。…げっ、は…ぐぅ。」
と、汚らしい声を発し出した。
しかし、抵抗はそこまで見られず、これはいけるのでは無いかと思い始めた俺は、一心に力を込めた。
…悪魔は、そんな俺と男を物理的にも、心理的にも少し距離を取った所から眺めているようで、手伝ってくれる気配は無い。
でも、悪魔が俺の為に手を汚してくれるだなんて、そんなこと俺は端から思ってない。
だいたい見ず知らずの平凡な人間である俺に力を貸してくれていることてさえ奇跡なのだ。…まあ、気まぐれにしろ、何にしろ、現に今俺は助かっているのだから、ありがたいと思っている。
…ただ、それだけ。あるのは感謝のみで、他意なんてあるはずがない。
悪魔だって、俺に力を貸すのに、深い意味なんてないんだ。
今、胸がモヤモヤとして嫌な気分なのは、始めて人を殺そうとしているからであって…。
そんな余計な事考えている場合じゃないのに、俺の脳は勝手にそんな事ばかり考え、俺はどんどん混乱していく。
俺は、とりあえず生きる為に、目の前で呻くこの男を殺さなければならないのにっ!
俺はモヤモヤを振り払うように、長机を押し付けた。
男の顔からは、徐々に血の気が薄れていくような気がした。
…呻く声がフィードアウトしていき、やがて消え去った。
……殺った?
殺ったのだろうか?
俺は、土色の顔をした男を見て、急に怖くなった。
自分の手が…この手が命を…?
冷静になっていくにつれ、長机は重みを増していった。
最終的に持っていられなくなって、俺は長机から手を離すと、後ずさった。
男は、支えを失い、床にズルズルと崩れ落ちた。
…俺は、悪魔の立っている方を見た。
許しえない最大の罪を犯したのであろう俺を、今どんな目で見ている?…見えないからこそ、余計に気になった。
悪魔は、躊躇うように小さな声で、
「…まだだよ。」
と、言った。