幕間1
四月の三十日まで残り一週間。今日は日曜日だというのに俺は文芸部に居た。コンビニで買ったおにぎりを片手にノーパソと睨めっこをしている。
このパソコンは俺のでもなく、文芸部の物でもない。かといって冬音さんの物でもない。では一体どこの誰の物なのかというと、それはこの文芸部の顧問である国語教師の村田先生の私物だ。
ノーパソを五台とか六台とか持ってるらしく、古くなったノーパソを冬音さんに使わせてあげていたそうだ。もはや文芸部の物っぽいけれど、やはり今はまだ村田先生の私物なのだと認識している、と彼女は言っていた。
「何を書こうかなあ……」
と、思わず声が出てしまった。まあ誰が居るわけでもないし、と思っていたけど「ファンタジーとかよくない?」という男の返事が返ってきた。ああ、そうだ。さっき村田先生が入ってきたのを忘れていた。彼は物音を立てずにずっと本を読んでたから存在を忘れていた。
「ファンタジー、ですか」
「そうファンタジー。やっぱりさあ、異世界とか憧れない?」
少しボロいソファーに寝転がっていた村田先生は、置きあがると僕の座っている名が机のちょうど対角線上に座った。胸ポケットから煙草とマッチを取り出した。
「吸ってもいいかな?」
「構いませんよ」
「悪いね」
「いえいえ。家では両親が吸いますし、兄も姉も吸いますし」
「へえ、今時めずらしいねえ」
「そうかもしれませんね」
「君もいつか吸うのかい?」
「……かもしれません」
既に吸っています、なんてことは言えなかったし言うべきことでもないだろう。
「なるほどねえ。教師としては止めるのを勧めるべきなのだろうが、まあ個人的にはそおういうのは個人の勝手だと思うから止めはしないけども」
そう言いながら彼はシュッとマッチを擦って煙草に火を点けた。煙がモクモクと天井に上る。ライターを使わずにマッチを使うとは変わった人だと思った。マッチなんて化学の実験の時にアルコールランプやバーナーを点ける時ぐらいにしか使った記憶がない。
「小説を書くのは難しいと思うかな」
唐突な質問だった。
「自分はそう思います」
「そうかい。まあ、僕も初めて小説を書いた時はそう思ったよ。もう随分と昔の話になる。思うんだけどね、小説を書くというのは誰にでもできることだろう? 字を書けて、読める人間なら誰でもできる。それなのにどうして難しいと感じるのだろう?」
確かに文字を書けて、読める人間なら程度の差はあれど小説を書くことはできるのだろう。ならば、俺はどうして小説を書くのが難しいと思っているのだろう。
「いや、それでもやはり小説を書くにはそれなりの才能が必要なんじゃないでしょうか。字を書けて読めても、書けない人というのはいるんじゃないでしょうか」
「なるほど。しかしそれは違うだろう。書けない人が居るんじゃない。『書かない人』が居るだけだよ。小説を書けない人は、小説を書く意思がない人だ。これは何にでも言えるけど何かを出来ないというのは、まず何もしない人だ」
煙草の煙を吐き出し、携帯灰皿に灰を落として彼は続ける。
「君は小説を書く意思がある。意思がなくとも、書くべき立場に居る。ならばきっと書けるだろう。それに、部誌は小説じゃなくても別にいい。漫画でも、エッセイでも、読書感想文でも書いていい。最悪、書かなくてもいい。彼女は書くし、私も書く。大して読まれもしない部誌だし、どんなに薄くとも発行しているという事実が有ればまあ面目は立つからね」
と、吸殻を携帯灰皿に入れて彼は立ちあがった。
「悪いね、どうにも私は話したがりで仕方ない。おっさんの話に付き合わせてすまなかった」
「いえ、大して時間が掛ったわけでもないですし」
つまらないわけでもなかった。
「そうかい、それならよかった。意思のない者には何事も為し得ない。とある文学者の言葉を君に送ろう。じゃあ、私は仕事があるからね」
そう言って彼は部室を出ていった。いったい何をしに来たのだろうか。本を読みに来たのかな。
俺は改めて目の前のノーパソと向かい合う。キーボードに手を置き、何か文章を書こうとするけれど、どうしても指が動かない。頭の中で物語が生まれないし、文章が出てこない。
そういえば、読書感想文でもいいとか言っていたな。読書感想文……小学校の夏休みを思い出すな。友達の多くも大変苦しんでいたし俺も苦しんだ。
本を読んで感想文を書いて提出しなさい。
これはきっと読書を奨励する為の宿題なのだろうが、逆効果が大きい気がしてならない。読書嫌いの少年少女をどれだけ生み出したのだろう。
小説というのは文字の羅列だ。国文法に従って並べられた漢字、ひらがな、カタカナを読んで意味を理解して文字を消費していく。
漫画というのは絵だ。絵を見れば直感的に意味が分かるし場面も浮かぶ。だから小説よりも遥かに読むのが楽だ。やはり人間というのは楽が好きだし、幼い時には尚更そうだろうし漫画を好きな人の方が小説を好きな人よりも多いだろう。
「……はあ」
キーボードから手を離す。文章を連ねることが今日もできそうにない。一体、俺は何を書けばいいのだろう、何を書きたいのだろう。
最初は小説を書こうとしていた。書く参考にと、好きな小説を数冊持参してきているがどう参考にしていいのか分からずにいる。
キィ、とドアが開かれる音がした。そちらを向くと、冬音さんが立っていた。こちらを呆然と見やる彼女に「こんにちは」と言った。「ああ」と答えて彼女はさっき村田先生が座っていた席に着いた。
「君はいつから着ていたんだ」と腕時計を見て彼女は尋ねた。現在の時刻は十二時を少し回った程度。そういや俺は何時ぐらいに来たっけな。いつも通りに朝起きて、普段通りに学校に来たから平日の登校時間と同じぐらいだろうから、「八時ぐらいですかね」と答えた。
「八時か、随分と早いな」
今日は仮入部期間が終わってからの最初の日曜日だった。仮入部の時期には日曜部に来る気は起きなかったのだけどなあ。
「そうですかね。平日と同じぐらいの時間ですよ」
「まあ、そうか」
彼女はそう答えると、鞄の中から本を取りだした。カバーはされていなかったので、題名が見えた。『ろくでもない僕らの逃避行』だそうだ。どんな内容なのだろう。
「面白いですか」
「面白くないこともない」
「そうですか」
てっきりその本を読むのかと思ったけど、どうやら違ったようで長机の上に置いてあるもう一台のノーパソを起動した。この文芸部室には村田先生の私有物であるノーパソが二台も置いてあるのだ。
「そういえば村田先生がさっき来ましたよ」
「だろうと思っていた。煙草の匂いがするからな」
「なるほど」
「ところで、小説は何か書けたか」
「いやはや、どうにもこうにも指が動かなくてですね」
「別に大した物を書く必要はないんだ。気楽にやってくれ」
「そうなんですけども。でも、面白半分に友達に見られるだろうと思うと、少し気が重くなりますね」
「面白半分でも書いた物を読んでくれるなら、嬉しいことだろう」
「そういうものですか」
「友人という前提の下でだとは思う」
「はあ。ところで冬音さんは、もう書いたのですか?」
「私は既に書き終えている。村田先生もだ」
「残るは俺だけか」
「まあ焦らなくていいさ」
そうして、彼女はキーボードに手を乗せてカチャカチャと打鍵し始めた。
途切れ途切れのその音が、音のない部室に妙に馴染んでいた。
「あっ、そうだ。冬音さん、ガム要ります?」
「ガム?」
打鍵の音が止まった。
「ガムはあまり好きじゃないんだ、すまないが遠慮しておこう」
「そうですか」
板ガムを一枚取り出して、包装から取り出したガムを口に含んだ。
打鍵の音は再び鳴り始めた。