下りた先
「紅茶です、トーラス」
トーラスはカップを言われるがままに受け取ります。
そして、霧のかかった頭で、ここがどこなのかを確認しようとします。
しかし、わかりません。
トーラスには、ここがどこなのかわかりません。
けれど、わかることはあります。
目の前にアンがいること。
そして、ここが階段でなく、『頂上』だということ。
他の細かなことは何一つわかりません。
塔の頂上でアンにカップを渡されたということが、かろうじてわかるだけです。
なので、トーラスは受け取ったカップに口をつけます。けど、残念なことに、トーラスにはその味がわかりません。繰り返しますが、他の細かなことは何一つわかりません。
トーラスは自分さえも見失いそうな中、自分の使命を何とか搾り出します。
「ねえ、アン。ここはどこ。――答えを教えてよ」
けれど、アンは静かに首を振ります。
トーラスはアンが疑問に答えてくれることはなかったと思い出し、目をアンの影へと移します。
しかし、そこに影はありませんでした。
「影だけはいません。私だけです」
「そう……」
トーラスはお喋りな影だけならば、ここについて教えてくれると期待していました。けれど、あてが外れたようです。
トーラスは、なぜ影だけがいないのかを聞こうとして、それに先んじてアンは喋り始められます。
「ここはないものの場所なので」
ないものの場所。
だから、影だけはいない。
それを聞いたトーラスは合点がいきました。
そして、なぜ自分が頂上にいるのかを理解しました。
ゆっくりと味もわからない紅茶を飲み、自分の目指した頂上は味気ないという感想を抱きます。
「そっか、わかったよ……」
トーラスは味のしない紅茶を飲み干して、完全に理解しました。
アンの名前がアンでないこと。
ここが『もっと別の何か』であること。
そして、目の前にいる人恋しい少女が、塔の答えであること。
人恋しい少女は紅茶を飲み干したトーラスを見て、薄く笑います。トーラスもそれに釣られて笑います。
ようやく終わったということを、人恋しい少女もトーラスも理解していたのです。
人恋しい少女は最後に言います。
「長い間、とても楽しかったです」
「……うん。また、くるから」
トーラスはそれが叶わないと知りながら、そう答えました。
そして、お互いはお互いの表情もわからなくなり、消えてしまいます。
消えてしまうのは、――トーラス一人。
人恋しい少女は塔の頂上で、たった一人。
たった一人で、お茶会を続けます。
いつまでも、いつまでも。
◆◆◆◆◆
とある冬の日。
雪のクッションに倒れた少年、トーラスは起き上がります。
トーラスに手を伸ばそうとしたトーラスの父は驚きます。
糸の切れた人形のように倒れたトーラスが、その次の瞬間には糸のついた人形のように起き上がったのですから、驚くのも無理はありません。
先ほどまで大泣きしていたトーラスでしたが、ぴたりと泣き止んでいました。
そして、先ほどまで父に聞き続けていた問いも、口に出そうとはしません。
それも当然です。
トーラスは胸に穴を空けた当人に、問いの答えを聞いてきたからです。なので、トーラスは泣くことも問うことも、もうないでしょう。
『もっと別の何か』で心を満たすことができたのです。
自分の中に、いえ、世界には、人恋しい少女の塔があるとわかったのです。
それと同時に、それでもトーラスの心の底に、小さな恐怖が生まれます。
悲しいことに自分が大人になってしまえば、父のように、それを忘れてしまうということを予感したのです。
トーラスの父が泣き喚くトーラスにそれを答えることができなかったのが、その証拠でしょう。
トーラスはそれを絶対に忘れないと誓います。
たとえ大人になっても、あの光景、あの場所、あの少女のことを忘れないと誓います。
トーラスは誓う――、けれど、現実は厳しいものです。
それに抗うことは、誰にもできません。
トーラスは必ず成長し、大人になり、子供をつくり、親となり、長い時間を経て自分が子供だった頃を忘れていきます。
それは人間である以上、避けられない現象なのです。
そして、いつか自分が父に聞いたことを、子に聞かれることでしょう。
それも、目じりにたくさんの涙を溜めた子に。
「ねえ、死んだ人はどこへいくの?」
けれど、大人になったトーラスには答えられません。
そして、その質問に答えられないとわかった瞬間に、自分が何かを忘れていたと気づくのです。
トーラスは大人になり、生死について割り切れてしまえるようになったのです。。
人の生死について確固としたバランス感覚を見つけてしまった以上、子供のように全てを賭けてそれに悩むことは出来ません。
けれども、あの光景、場所、誰かを思い出そうと必死に記憶を掘り返します。
なによりも、涙を浮かべる息子のために、答えを掘り起こそうとします。
トーラスはがんばってがんばって――
がんばって、思い出せたのは、少女の、影だけでした。
影だけはトーラスの足元で笑います。
「だから、もっとアンと遊ぼうって言ったのに」
笑いながら、もはや届かない過去をトーラスに悔やませます。
しかし、トーラスは今や父。今は、自分の息子のために全てを尽くすしかありません。
トーラスは申し訳なさそうに首を振って、最後に小さく笑います。
すると、影だけも小さく笑い、だらしのない我が子にかけるような声で助けてくれます。
「仕方がないな。結局、こういうのはお決まりの文句しかないの。こう言うんだよ、トーラス。――大切なひとは、いつだって、心の中にいるんだよ、って」
どこかで聞いたことのある言葉でした。
そして、懐かしく、愛おしい言葉だとトーラスは思いました。
この言葉に間違いないと思ったトーラスは、息子へ言います。
「大切なひとは、いつだって、心の中にいるんだよ――」
その言葉を零していくと共に、トーラスはいつかの何かを思い出せそうになりました。
しかし、届きそうで届かない、それは『もっと別の何か』です。
それを聞いた息子は、なぜか不満そうな顔になり、背中を向けて走り去りました。
トーラスは言葉を間違えたんだと思い、そして、間違えていいんだとも思いました。
影だけが語りかけてきます。
「トーラス、これで二度と会うことはないだろうね」
これが本当の最後の別れだと影だけもトーラスもわかっていました。
トーラスは答えます。以前の分かれ方より、何倍もいいと思いながら答えます。
「そうだね。もしかしたら、うちの息子がお世話になるかもしれない。そのときはよろしく頼むよ」
「もちろん、そのときは大切なお客さ、ま、だ……――」
ろくに別れの言葉も交わせず、影だけは消えていきました。
大人であるトーラスにとって、影だけでもその再現は難しいものだったからです。
そして、トーラスは一人になります。
とある寒い冬の日。
白い雪の世界で、トーラスは一人になります。
いえ、一人だけど一人でないとトーラスは知っています。
だから、もう一度、呟くのです。
「大切なものは、いつも心の、なか、に――」
すると、視界が一瞬だけ、どこかへ切り替わったような、そんな錯覚をトーラスは感じました。
それは、懐かしくも届かない、愛おしい光景。
どこまでも続く青い空の下、穏やかな日差しを受ける塔の頂上。
そこには、汚れ一つない白のアンティークテーブルと、四つのチェア。
それぞれに愛おしい顔が座っている。トーラスの息子、トーラスの失った大切な誰か、人恋しい少女、それとその少女の影だけ。
四人は紅茶を飲みながら談笑しています。
お菓子を食べて、紅茶を飲んで、楽しそうに笑っていました。
一瞬。
本当に、一瞬だけの光景。
すぐにそれは白い雪の世界へと切り替わります。
けれども、トーラスはそれで十分でした。
一瞬さえあれば、あの四人にとっては永遠のようなものだと知っていたからです。
そして、次の一瞬。
次の一瞬で、トーラスはそれを全て思い出せなくなります。
トーラスは『もっと別の何か』を永遠に失いました。
もう二度と、届きません。
しかし、トーラスはそれでいいと思いました。
世界には僕一人じゃない。あの誰かも一人じゃない。
それが、最後にわかったからです。
トーラスは笑みを作って歩きます。
自分の息子を迎えに歩きます。
かつての父のようにできるかと心配しながら歩きます。
そして、今日は息子の話を、うんと聞いてやろうと決めるのです。
息子の話はきっと、トーラスにとって懐かしく愛おしい話のはずだから。
トーラスはそれを聞きたいと思ったのです。