中腹のお茶会
上った先には、立派なお茶会のテーブルが用意されていました。
そのテーブルは歪でした。階段の上でも役目を果たせるように、足の長さが不ぞろいで、とても不恰好です。傍にあるチェアも同じく、背の高さが全て違います。
影だけは影だけで、そのチェアの一つに座っています。
トーラスは影だけの隣にアンを座らせ、その向かいに自分も座ります。
すると、まず影だけは感謝の言葉を述べます。
「ありがとう、トーラス。アンと遊んでくれて」
「ろくに遊べてないけど……」
「ううん、アンはとても楽しそうだったよ」
影だけはアンの影へと戻りながら、アンが喜んでいると言います。
けれど、アンは無表情のまま、何も言いません。遊んでいる間も、ずっとそうだったので、トーラスは影だけの言うことが信じられませんでした。
しかし、それはトーラスにとって些末なことです。すぐに興味を失い、本題へと入ろうとします。
「それで影だけ、答えは?」
「答えの用意はできているよ」
影だけはそう言って、塔の壁へと近づいて影の手で触ろうとします。
すると、塔の壁は色を失い、霧が消えるようにその実体を失いました。そして、塔の壁に窓が一つできたのです。
「さあ、トーラス。これが答えだよ。覗いてごらん」
トーラスは影だけの言われるがままに、窓へと近づいていきます。
つまり、塔の外が見えるのです。
外の風景はトーラスの思い描いていたものとは違いました。外は深く暗い闇だと、なぜかトーラスは想像していました。
けれど、現実はその逆。
どこまでも続く、青と白の世界。無限に広がる青いキャンパスに、乳白色の雲がたくさん垂らされた世界でした。
それはトーラスの知る、空、そのものでした。
「空だ……。大空だ……」
「そうだよ、トーラス。外は空」
トーラスは浮かんできた言葉を、ただ口に出しました。
「これが答え?」
「いや、それが全てじゃないよ。トーラス、よく自分のいる塔の上と下を見て」
トーラスは指示通り、体を乗り出して塔の上下の先を見ようとします。
しかし、その先を見ることは叶いませんでした。
塔はどこまでもどこまでも伸びており、その先を確認することができないのです。
トーラスは「この塔に終わりはない」という言葉の意味がわかりました。
そして、体の力を失い、自分の座っていたチェアへ、ゆっくりと体を落とします。
すると、目の前に紅茶の入ったカップが一つ差し出されます。どうやら、アンが無言で用意してくれたようです。
それにゆっくりと口をつけ、潤った喉で話しだします。
「ああ、影だけの言うとおり、終わりがないのかもしれない……」
「わかってくれて何よりだよ」
しかし、トーラスの力が抜けたのも束の間、すぐに使命を思い出し気力を取り戻します。
「けど、僕は上らないといけない。上らないといけないんだ。その先にある答えを見つけないと、僕は帰れない。たとえ、この道が気の遠くなる長い道であろうと、立ち止まることはできない」
そして、その決意を言葉にして、自分で自分を奮い立たせようとします。
しかし、影だけはそれを柔らかな様子で受け入れ、首を振ります。
「残念ながら、今回の答えはそれだけじゃないんだよ。その紅茶をゆっくりと飲み干したら、もう一度、外を見て」
トーラスは奮い立った体が静止したのを感じます。
答えはそれだけじゃない、という言葉に嫌な予感を感じたからです。
トーラスは影だけの言うとおり、紅茶をゆっくりと飲み干し、また塔の外を見るために窓へと近づきます。
そこに広がるのは先ほどと同じく、どこまでも続く空。大地も海もないので地平線すらない、空だけの世界。
「ねえ、トーラス。そこには空しかない。けど、よく観察して欲しいの。この塔を、もっとよく見て欲しい」
トーラスは塔を観察します。
そこに更なる答えがあるのならば、トーラスはそれを知らないといけません。
じっと塔を見つめることで、トーラスは違和感に気づきます。
「塔が傾いて……、曲がっている……?」
そして、その違和感を言葉にしました。トーラスは塔が真上に伸びていないと気づいたのでした。
それを聞いた影だけは、にっこりと笑ってそれに同意します。
「そうだよ。曲がっているのが正解。この塔は、緩やかに緩やかに曲がってるの」
それが答え?
その事実が一体どういう意味を持つのか、トーラスはすぐに理解できませんでした。
「曲がっていると……、一体何が……」
「トーラス、想像して。想像という粘土を、湿らせて、柔らかく、自由に表現して。トーラスは塔を真っ直ぐそびえる円柱だと思っていた。けれど、それは違ったんだよ。この塔は曲がっている。この円柱の塔は、どこまでも続く大空を、逸れて逸れて逸れ続けているんだよ。すると、どうなると思う?」
トーラスは考えます。
伸びる塔が曲がって、逸れて、その先に着くであろう結果。
「地面につく?」
「うーん、正解とは言いがたいね。けど、地面――、つまり、最初に戻るという想像はいいよ。ただ、地面、……地面は駄目なの。そんなものはないから」
影だけはトーラスの持っていた前提をくつがえそうとします。トーラスはここが普通ではないと思ってはいたものの、少なからず常識というものは持っていたのです。そして、その常識の一つ、塔は大地に建っているという常識がひっくり返されようとしています。
「地面はあるよ……、ないとどこに塔はどこに建っているっていうんだよ……」
「地面はないよ。私は地面がないことを確認したの。だから、地面はないよ」
「じ、地面がないって確認した……?」
トーラスは呆気に取られます。
「そうだよ。私は地面がないって確認したの。そして、トーラスは地面があるって確認できていない。なら、地面はないってことだね」
「ま、まってよ。確認も何もないよ。このっ、この塔の下には、地面がないとおかしい。ないと、おかしいよっ」
「そうだね、ないとおかしいね、ないと駄目だね。トーラスは賢いね。――けど、それは確認じゃないんだよ。おそらく、たぶん、あるに違いない、という期待でしかないの。見たこともないものを、トーラスは期待しているだけなんだよ」
「期待じゃない、これは当たり前なんだよ。塔があるなら地面はある。地面がないのに塔が建っているなんて、ありえないっ」
トーラスは影だけの言うことを認めるわけにはいきませんでした。それを認めたら、自分の何かが一つ、崩れそうで怖かったのです。
それを見た影だけは少しだけ悲しそうに、そして意を決して提案します。
「それじゃあ賭けようよ、トーラス。見たことのないものを見よう。トーラスの言う当たり前があるかどうかを賭けよう」
「え、見たことのないものを見る……?」
「そうだよ、トーラスの常識の中にある、見たこともないものを暴こう」
そう言って影だけは自分の紅茶のカップを割ります。そして、割れたカップの中でも、特に鋭い角度を持った破片を手に取ります。
トーラスは急にカップを割った影だけに怯え、それをどうするつもりなのかを聞きます。
「影だけ、それをどうするつもり……?」
「例えば、ここがトーラスの世界だったなら、そこらにある機械でも分解して、中から小人を見つければよかったんだけどね。あと、行ったことのない外国が、実はないのを確認するのも面白いね。けど、ここにはろくなものがない、あるのは塔とその住人だけ。なら、塔か住人を暴くしかないよね」
影だけはそう言って尖った破片でアンの体に当てようとします。
影だけの口ぶりから、その先を推測したトーラスは血相を変えてそれを止めようとします。
「や、やめ――、そんなことしなくていいっ、それは駄目っ」
それを聞いた影だけは、惜しそうな顔をして笑います。
「――というのは冗談。もちろん、暴くのは塔にするよ」
そして影だけは尖った破片を使って、塔の壁を削り始めます。そして、削られたものをもう片方の手に落とし、トーラスへと差し出します。
「え、これ……」
「トーラス、これは何?」
「これは、石か、土……?」
「そう言うと思ったよ、トーラスは賢いね。けど不正解。塔は、なんとチョコでできています」
「へ?」
影だけはその言葉と共に、その壁の破片をかじります。さらに、テーブルへ戻って、アンにも与えます。アンはそれを平気で食べました。
そして、それをテーブルの上に置き、影だけは手のひらをこちらに向けて、僕にも食べさせようと促します。
「え、本当に、チョコなの?」
「ああ、君はこの塔が石か何かでできていると思っていたのかもしれないけど、実はこの塔、チョコでできているんだよ。甘くて美味しいよ、どうぞ」
トーラスはチョコレートが大好きです。
だからといって、先ほど塔から削り取ったものを口に含むのは、とても勇気がいりました。トーラスはおっかなびっくりに塔の破片に手を伸ばし、いくらか手触りや臭いを確認して口に入れます。
「あ、甘い……」
トーラスの口に含まれたのは確かにチョコレートでした。
「ふふっ、トーラス。確認するまでは何もわからないものでしょ。絶対も、必然も、当たり前も、大体は勘違いなんだよ」
「け、けど……」
けれど、トーラスは納得がいきません。
この塔がチョコレートでできているのならば太陽の熱で溶けるはず、チョコがこんなにも高い塔を支えるほど頑丈なわけがない、そもそもチョコである理由がない――。
そういった沢山の考えがトーラスの頭をまわっているからです。
「だから、例えば、アンの体がチョコでできていてもおかしくないし、君の体に何が詰まっているかも定かじゃないんだ。確かめるまではね」
そう言って影だけは、チョコの破片を手で潰します。
トーラスはそれをその目で確認した以上、何も言い返せません。
トーラスが黙っていると、さらに影だけは喋り続けます。
「少しばかり、話が逸れすぎたね。要は、地面があるだなんて妄信しないで欲しいの。君が妄信し続けていると、いつまでたってもたどり着けないから」
影だけは話を戻し、そしてどこからか新しいカップを取り出して二杯目の紅茶を飲み始めます。
「わ、わかったよ。とりあえずだけど、影だけの言う通り、地面があることにこだわるのはやめるよ……」
「ありがとう。やっぱり、トーラスは賢い子だね」
トーラスは影だけの言うことを何もかも受け入れることはできません。しかし、自分の中で凝り固まっていたものを、少しだけ柔らかくしようとは思いました。
「それで、地面がないとしたら……。どうなるんだろう……」
「塔は逸れて逸れて曲がっていく、そして、その先に地面なんてものはないの」
そして、考えます。
先の思考実験を、もう一度考えます。今度は地面を抜いて考えます。
次にトーラスが思いついたのは、コーヒーに落ちたミルクのような形状でした。
落ちたミルクをスプーンでかきまわすとできるぐるぐる模様。それが、この塔の全様だと確信します。
トーラスはすぐに紅茶へ色の濃いシロップを落とし、スプーンで綺麗なぐるぐる模様をつくります。
「これだ」
「んー、それでもいいけど。今回は違うよ」
しかし、すぐに影だけはそれを否定しました。
「今回は違う?」
「そうだね、今回は、だよ。考え方は合っているんだけど、今回は、条件がもう一つ追加されているの。トーラスがそれを知るのには時間がかかりそうだから、教えてあげる。――塔の曲がっている角度は一定だよ。実はこの塔、目的をもって逸れているんだ」
影だけは、また難しいことを言い始めます。
子供のトーラスにとっては、角度が一定という表現すら未知の世界なのです。それを頭の中で創造するのは難しいことでした。わかるのは一つだけ、この塔が目的をもって逸れているということ。
トーラスは答えを導き出せず、行き止まりにぶつかります。
「トーラス、これをあげる」
トーラスが考え込んでいると、いつの間にか用意された皿が一枚ありました。それを影だけは嬉しそうにこちらへ差し出します。
皿の上にはお菓子が盛られています。
たくさんのドーナッツが山盛りになっていました。
トーラスはそれを見て、はっとしてある答えを思いつきます。そして、思いついた答えが余りにもあっさりとしていたことに悔しがり、目の前のドーナッツを食べることで憂さを晴らします。
いくらかのドーナッツを食い散らかし、トーラスは答えます。
「この塔は、ドーナッツなの?」
「うん。この塔は地面につかない、円環体だよ」
影だけは頷きます。
そして、ドーナッツを一個手にして、それを立てます。
トーラスの方から見ると、それが綺麗な円であることがわかります。影だけはそれが、この塔であると言いたいのでしょう。
「逸れて、最後には繋がっていたんだね……」
「そして、このお茶会こそが頂上なんだよ。私たちはここにいる」
影だけは立てたドーナッツのてっぺんを指の一つでとんとんと叩く。自分たちのいる場所を表現しているようです。
それを見たトーラスは、ゆっくりと席を立ち、窓へと近づきます。
そして、窓の外を見てぼやきます。
「これが塔の頂上の風景なんだ……」
トーラスはたどり着きました。
使命に背中を押されるがまま、長い時間をかけて塔の頂上へとたどり着きました。
しかし、頂上に着いたものの、疑問はたくさんあります。
「けど……、この窓の外が頂上なら、僕たちは窓の反対方向へ落ちるんじゃないのかな? ほら、重力とかで……」
トーラスの数少ない知識の中に、重力という存在はありました。まず、トーラスはそれを疑問に思います。
けれど、影だけはそれを切って捨てます。
「重力、ね……。そうだね、見たことないから、ないことにしよう。ここには重力なんてものはないよ。ついでに始まりも、入り口も、面倒なものは全てなくそう。確かめられないんだから、なくてもいいよね」
言外に影だけは考えても無駄だと言い、優雅に紅茶を飲みます。影だけにとって、トーラスの心配していることは問題ではないようです。
「え、ええっ、見たことないからって……」
「そういうものなの」
トーラスはその考え方に反対しようとしましたが、影だけはそれを取り合おうともしません。
ただ、影だけの様子を見て、トーラスもそれは問題でないような気がしてきます。
トーラスにとって問題なのは、頂上であり、答えであり、これ以上塔を上っても無駄かどうかということなのです。
「とにかく、上っても無駄なんだね……」
「無駄だよ」
影だけはあっさりと答えます。
「それなら、もっと早くに教えてくれてもよかったのに」
「早くに教えても、どうせ信じてくれないよ。数え切れない時間、塔を上り続けたトーラスにしか、この頂上の風景は見えないの」
トーラスは影だけの言い分も一理あると思いました。上りたての頃の自分がこれを信じられるかは疑わしいところです。なので、これ以上の追求を止め、次の話を始めます。
「けど、頂上には何もないんだね。僕は頂上に全ての答えがあるって信じてきたのに……」
そして、トーラスはこの塔の結末に落胆します。
「ううん、それは違うよ。ここが塔の頂上なのは確かだけど、かといってトーラスの歩む道の最後ではないよ。まだ、先はある。ここは始まり、まだ上れるんだよ、トーラス」
トーラスの落胆を影だけは許そうとしません。
「まだ、上れる?」
「そうだよ。世界は塔で終わりじゃない。塔の上には空がある。天上へ上るんだ、トーラス」
影だけは当然のように、トーラスにって恐ろしいことを言います。
けれど、それが自分の次の道であることをトーラスは無意識に理解できています。トーラスはここに、『もっと別の何か』を見つけにきたのです。塔になければ、それ以外のところからそれを探さないといけません。
トーラスは悩みながら、畏れながら、頷きます。
「わかったよ。……でも、この外へ飛び出るのは怖いなあ」
トーラスはそう言って、窓の外の空を見つめて震えます。
高所恐怖症でなくても、このどこまでも続く空を見れば誰でも潜在的な恐怖が掘り起こされることでしょう。
「大丈夫だよ、トーラス。それは地面があればの話でしょ?」
影だけは地面の有無についての話を、もう一度持ち出します。
トーラスは想像を働かせ、地面がなければ空は凶器にならないということを理解します。しかし、その身にまとわりつく不快感は消せません。そういう問題ではないのです。
「そうもしれないけど……、そう簡単には……」
「大丈夫、トーラスは安心して答えを探せばいいんだよ。この空も、絶対にトーラスを傷つけないようにできているから」
影だけは太鼓判を押して、空を勧めます。
けれど、どうしてもトーラスは不安を拭えません。それを見た影だけは言葉を足します。
「なら、とりあえず、出て戻ってきなよ」
「出て、戻る……?」
トーラスは影だけの言ってることがわかりません。一度出れば、真下へ落ちて帰ってこれないに決まっているからです。
「不思議かもしれないけど、戻ってこられるんだよ。よく空を見て」
影だけの指示に従って、トーラスは窓から外を注意深く観察します。
しかし、トーラスには影だけが何を伝えたいのかわかりません。それを見かねた影だけは助言します。
「じっと見て、あと手で風を感じごらん」
トーラスは言われたとおりに手を伸ばします。そして、空の動きをじっと見張りました。
そして、気づきます。
風が下から上へとなぎ、雲の流れる方向も下から上だったのです。
トーラスは驚きます。
これでは、まるで――
「――塔が空を落ちている?」
「賢いね、トーラス。だから、大丈夫。例えば、この紅茶のポットだって」
答えを得たトーラスを褒め、影だけはテーブルの上のポットを持って窓へと近づきます。そして、ポットを窓の外へと放り投げたのでした。
するとポットは窓の外で停止しているかのように浮きました。
それをトーラスにじっくり見せたあと、影だけは手を伸ばしてポットを引き戻し、テーブルで紅茶を入れなおします。
「このとおり、戻ってこられるよ」
トーラスは手品を見せられたような感覚になります。
それがおかしいとわかっているのだけれど、現実はそれを嘲笑うかのように過ぎていきます。
先ほども重力の話で、現実を取り戻そうとしました。今回もそれらを理由に、おかしいことを指摘はできます。けれど、それを指摘しても、影だけに「ない」と言われればそこでおしまいです。
トーラスはそういうものだと思うしかありませんでした。
むしろ、そういうものでないとトーラスの望む『もっと別の何か』は見つからないのですから、もっと喜ぶべきなのです。けれど、トーラスはそれを素直に喜べません。
腑に落ちない全てを置き去りにして、トーラスは窓に足をかけるしかありませんでした。
「それじゃあ、いってくるよ……」
「いってらっしゃい」
影だけは影の手を振ります。その奥では沈黙していたアンも無表情で手を振っていました。
トーラスは勇気を振り絞って窓の外へと飛び出します。
飛び出した先に待っていたのは、体の芯から沸いてくる落下の恐怖。しかし、それはすぐに打ち消されました。
トーラスも先ほどのポットと同じく、空に浮いたからです。
いえ、正確には塔と同じ速度で落ちているからそう見えるだけで、トーラスの感じている浮遊感は偽者です。
トーラスは空に出ても、塔の窓が遠ざからないことに安心します。
塔の中で二人はまだ手を振っています。もっと、遠くを見て来いということでしょう。
トーラスは仕方がなく、空を歩きます。始めは泳ごうとしたのだけれど、少しすれば歩くように動けるとわかったのです。
トーラスは歩きます。ときには上ります。ときには下ります。
その空が何も変わらないということだけ確認して、トーラスは窓へと戻ってきます。
「ただいま」
「おかえり」
トーラスは影だけと挨拶を交わしました。
「空の散歩はどうだった?」
「変わらなかったよ」
「と、言うと?」
「塔と、変わらない」
トーラスがそう言うと、影だけは拍手と共に笑う。
「賢いな、トーラス。その通りさ。――塔がドーナッツなら、空もドーナッツさ。何も、変わらない」
そうなのです。
トーラスはそれを理解してしまったのです。
空を上り、下り、――やっていることは、塔と変わらないと理解してしまったのです。
そして、塔はどこまでも落ち、地面はない。
パズルのピースは足らないけど、手元にあるピースだけで、トーラスは世界という名の絵画を垣間見てしまったのです。
つまり、塔がドーナッツ状に無限を生んでいるのなら、このどこまでも落ちれる空も同じドーナッツ状で無限を生んでいる。
空はトーラスの知る空のようには拡がっていない。それを理解したのです。
「塔に、空に――、世界に果てがないのなら、頂上はないというのなら、僕はどこへ上ればいいんだろう……?」
そして、それを理解したとき、トーラスは真の意味で迷い子となります。
影だけは優しくトーラスに語りかけます。
「どこへも行かなくていいよ。この世の全てはドーナッツなんだから、ゆっくりとそれを味わえばいい。例え、ここにあるドーナッツも、塔も、空も、全てが同じだったとしても。例え、私も、トーラスも、世界も、ドーナッツみたいなものだったとしても。ここで、一緒に遊んでくれれば、私たちはそれで満足だから……」
それは優しい語りでした。
けれど、トーラスは本能的にそれを認めたくありませんでした。
「僕はドーナッツじゃあない」
「いや、トーラスはドーナッツだよ」
「世界はちょっとしたマトリョーシカ。無限に、ドーナッツの中にドーナッツがあるだけの平等な世界だよ」
そう言って影だけは手元のドーナツを指で割り、散らばったドーナツの粉を指差します。
「このドーナツの粉もドーナッツでできていて、そして、その粉のドーナッツの中にもドーナッツがあるんだよ。そして、その中の中の中もさ」
その言葉はトーラスを追い詰め、狂わせます。
影だけは抽象的で曖昧な言葉をもって、トーラスを混乱させようとしているのです。
トーラスは信じていました。
どこかに確かな答えがあると。きっと、進み続ければ確かな答えが、『もっと別の何か』があると。
けれど、影だけは言います。
塔に頂上はなく、空に終わりはなく、どこまでいっても同じ。どこまでいっても変わらないと言います。
――このままだと、何もわからないまま、あそこへ戻らないといけない。
それだけは許されません。
トーラスはその結末だけは、受け入れられません。
「だから、トーラス。君はここでアンと――」
トーラスは影だけの言葉をこれ以上聞きたくありませんでした。影だけの言葉を最後まで聞かず、トーラスは窓から空へと飛び出します。
後ろから声が聞こえてもトーラスは空を進みます。
何があってもおかまいなしに、トーラスは先へ先へと、上ります。
塔の窓が遠ざかり――、塔が見えなくなっても――、トーラスは上り続けます。
長い間、数えれきれない時間、トーラスは上り続け、ようやく空の端までたどり着きます。
もちろん、そこに望んでいた頂上はありません。
トーラスにはわかっていました。空というドーナッツの外には、別のドーナッツがあるとわかっていました。
空の端を飛び出ると、そこは色の変わった空でした。
どこまでも黒く塗りたくられたキャンバス、その黒のキャンバスには様々な宝石が落ちています。トーラスは、この黒い空が何かを知っていました。けれど、それはこのドーナッツの別称であって、トーラスにとってはどうでもいいことでした。
トーラスは黒い空を同じように進み続けます。
長い間、数えきれない時間、トーラスは上り続け、黒い空の形をしたドーナッツも抜け出します。
もう一つ上のドーナッツに入り、まだトーラスは進み続けます。
長い間、数えきれない時間、トーラスは上り続け、一つ上のドーナッツも抜け出します。
もう二つ上のドーナッツに入り、まだトーラスは進み続けます。
長い間、数えきれない時間、トーラスは上り続け、二つ上のドーナッツも抜け出します。
そこには、もう三つ上のドーナッツがあるだけでした。
三つ上の世界で、トーラスは一度来た道を振り返ります。
――三つ上の世界を落ちる二つ上の世界、そこを落ちる一つ上の世界、そこを落ちる黒い空、そこを落ちる空、そこを落ちる塔、その塔を上るトーラス。
トーラスは首を振ってその光景を忘れ、前を見ます。
進まなければならないからです。
トーラスは四つ上、五つ上、どこまでも、どこまでも上の世界へと上っていきます。
どこまでもどこまでも、世界を上っていきます。
もはや、世界一つが階段の一段でしかなく、無数の世界が無数の階段でしかありません。
それでも、トーラスは上ります。
いつまでも、いつまでも。
トーラスは、塔を、上ります。
いつまでも、いつまでも。
上り続け、意識が曖昧になり、自分を失っても。
いつまでも。