上る少年
とある寒い冬の日。
一人の子供がいました。
子供の名前はトーラス。
ただ、トーラスについて、これ以上知ることはできません。
この話では名前しか知ることはできません。外見上の特徴も知ることはできません。彼の生い立ちも、生きる時代も、生きる世界も知ることはできません。
子供の名前はトーラス、それだけです。
トーラスは泣いていました。
とてもとても悲しくて泣いていました。
胸に穴が空いてしまったような気がして、そこに全てが吸い込まれそうな恐ろしさに負けて泣いていました。
トーラスは泣きながら、その気持ちを自分の父にぶつけます。
泣いて叫んで喚いて、父に問いかけをぶつけます。
ただ、その言葉をトーラスの父は聞き取ることができませんでした。
トーラスは嗚咽を交え、声を枯らせ、全身を震わせていたからです。そのせいで、出てくる言葉のすべてが形を成しておらず、獣の声のようでした。
しかし、父にはトーラスの言っていることがわかります。
この場の状況から、言っていることを推察できてしまったのです。
だから父は、あやすように、それでいて真剣に、トーラスへと言い聞かせます。
「――大切なひとは、いつだって、心の中にいるんだよ」
トーラスはそれを、はっきりと聞きました。
聞いて、愕然とします。
トーラスはそんなありきたりな言葉が欲しかったのではありません。欲しかったのは、もっと別の何かです。
愕然として、トーラスの体から力が抜けていきます。
けれど、涙は止まりません。嗚咽も震えも止まりません。
欲しかった答えは、『もっと別の何か』。
トーラスは父の口からそれを言ってほしかったのです。
『もっと別の何か』を、トーラスは心の底から必要としています。
だから、トーラスは探します。
『もっと別の何か』を見つけるための旅に出るほかなかったのです。
トーラスの体は糸の切れた人形のように崩れ落ち、薄い雪のクッションに受け止められます。
トーラスの意識はそこで途絶え、真っ暗な黒い海の底へと沈んでいきます。
沈んで、沈んで、沈んでいきます。
ただ、どこまで沈めども、海の底へとはたどり着けません。
たどり着けませんが、代わりにトーラスは見つけます。
『塔』を見つけます。
はるか海の底、光のない黒き世界で、トーラスは『塔』を見つけたのでした。
あの懐かしくも届かない『塔』を――。
『塔』を見つけたのです。
◆◆◆◆◆
見上げればどこまでも続く螺旋階段。
見下ろせばどこまでも続く螺旋階段。
トーラスは塔を上り続けます。
トーラスはいつから上り始めたのかを覚えていません。そもそも、この塔が何なのかもわかっていません。つまり、どこまで上ればいいのかもわかりません。
けれども、トーラスは上り続けます。
なぜなら、トーラスには使命があったからです。
何もわからない世界で、たった一つ確かなもの。トーラスの使命。
それは『もっと別の何か』を見つけることです。
それを見つけるために、自分はここにいる。トーラスは確信していました。
そうしなければ大切な何かが失われると知っていました。
だから、トーラスは上り続けます。使命がある限り――。
トーラスが階段を上り続けていると、声が聞こえてきます。
聞き慣れた、けれども懐かしい声です。
「トーラス。なぜ、あなたは塔を上るのですか?」
トーラスは足を止めて、声のほうへと目を向けます。
トーラスの背後、一歩後ろに少女はいました。とても見目麗しいか、とてもみすぼらしいか、知ることのできない少女がそこにいました。
-
トーラスはその少女のことを知っています。もう、長い知り合いです。
塔を上っているあいだに生まれた友です。
名前はアンと言います。トーラスと出会ったとき、自己紹介で「サーをつけて呼んでください」と言った不思議な少女です。もちろん、トーラスは少女にサーをつけていません。トーラスの浅い知識でも、それが尊称であることを知っていたからです。今のところ、トーラスが少女を敬う予定はありません。
トーラスはアンに答えます。
「上らないといけないからだよ」
簡潔な答えでした。トーラスにとって上ることは使命となっていたので、そこに長い言葉は必要ありませんでした。
それに対して、アンは言葉を返します。
「上るのは、上らないといけないから――。そうですか、わかりました」
アンは小さく頷いて静かになります。
いつも通りでした。トーラスはアンの疑問に対し、いつも適当で短い返事をするだけですが、アンはそれをいつも神妙な顔をして納得するのです。
アンを敬う予定がないのは、これが原因でした。
トーラスが何を言っても、アンは納得します。それがどんなにふざけた答えでも納得するのですから、アンという人間をトーラスが敬えないのは当然のことでした。
アンは今も、ゆっくりと何度も頷いています。
トーラスは時間を無駄にしたと思いながら、また階段を上り始めます。どこまでも続く螺旋階段を上ります。
螺旋階段は、塔の壁へ張り付くように渦巻いています。塔の広さは結構なものですから、必然とその中央には大きな空洞ができています。
その空洞から今まで上った階段と、これから上る階段が見えるのです。もちろん、両方とも先は見えません。
階段を進むと、一定間隔ごとに灯りが揺らめいています。
それが蝋燭なのか、松明なのか、トーラスにはわかりません。トーラスには理解できない灯りが、塔の中を照らし続けています。
延々と代わり映えしない風景。
石造りの古めかしい階段を、トーラスは黙々と歩き続けます。
こうも同じことをしていると、使命を胸に秘めたトーラスといえども心が弱ります。
トーラスは数え切れない時間を上り続けたあと、とうとうその場に座り込んでしまいます。
そして、ぽつりと、弱音を零してしまうのです。
「はあ、一体どこまで上ればいいの……。この塔……」
弱音を零してしまい、トーラスはすぐに口を手で塞ぎます。
しかし、いまさら口を塞いでも、零れた言葉が返ってくることはありせん。
そして、後ろからその言葉に反応が返ってきます。
「それはそうよ。トーラスが上ろうとするから、塔もトーラスに応えようと必死なの。トーラスが上ろうとする限り、塔はどこまでも階段を伸ばしてくれると思うよ。塔も健気な子だよね」
陽気な声がトーラスに返ってきます。
トーラスは溜息をつきながら後ろへと振り返ります。
当然、そこには無表情のアンがいます。けれど、さっきの陽気な声はアンのものではありません。それをトーラスはわかっているので、アンを無視して、アンの影へと言葉を返します。
「影だけ。そういう曖昧で、それでいて気が滅入るようなことは言わないでよ。上っている僕が馬鹿みたいじゃないか」
それを聞いたアンの影は、伸縮しながら笑います。
その影も長い知り合いです。この塔を上る間に知り合った友、影だけです。
「まさか、この塔を上っているトーラスが馬鹿なわけないよ。トーラスはとってもとっても賢いよ。だからこそ、だからこそ、塔はどこまでも伸びるの。もしも、トーラスが馬鹿だったら塔は伸びやしない。すぐに頂上だよ」
「馬鹿だったら、伸びない?」
トーラスには影だけの言ってることがわかりませんでした。
影だけの言うことはいつも曖昧で、要領を得ません。トーラスはそれを嫌って、影だけへと喋りかけないようにしていたのです。
「そうだよ、馬鹿だったら伸びないよ。……馬鹿だったら、まず、塔を下りるからね。だから、そもそも塔が伸びているかどうかを知ることすらできないの。知らない以上、伸びてるなんて夢にも思わない。ほら、馬鹿にとっては伸びていないでしょ」
「……僕は影だけの言っていることがよくわからないよ。けど、なんとなく、とても嫌らしい屁理屈を並べているような気はする」
トーラスには影だけの言っていることは遠回り過ぎて理解できませんでした。ただ、それが屁理屈のようだということは、なんとなく言葉の端からわかりました。
「あはは、トーラスは賢いね。なんとなくで、正解を当てられちゃったよ」
影だけはトーラスの答えが正しいことを笑って認めます。
トーラスは影だけのそういうところが苦手でした。
「影だけは、いつも屁理屈ばかりだ」
「けど、私はその屁理屈がお勧めなの、トーラス。屁理屈は屁理屈だけど、決して間違いじゃない。まあ、正しくもないけどね」
「間違いでも、正しくもない?」
「ああ、大抵のものは、そんなものよ」
「そんなことはないよ。間違っているものは間違いだし、正しいものは正しいよ」
トーラスは論点が代わっていることに気づかず、影だけ(シャドウ)に言い返します。いつかの両親の教えを馬鹿にされたようで、我慢ならなかったからです。
「でも、トーラス。正しいことが正しいって、どうしてわかるの?」
「どうしてって、それは正しいから……」
「ああ、正しいことは正しいというのは正しいって、トーラスは言うんだね。じゃあ、正しいことは正しいというのは正しいって、どうしてわかるの?」
影だけは楽しそうに問いかけてきます。
影だけの楽しげな様子を感じたトーラスは、すぐにそれがある手口の一つだと直感しました。子供同士の口喧嘩で起きる常套手段の一つに、今の影だけのような手口があります。口達者のものに敵わないとわかると、すぐ「それで? それで?」「なぜ? なぜ?」と、同じことを聞き返し続けるという技のことです。もちろん、その口達者のものが呆れて負けを認めるまで、その繰り返しは終わりません。
トーラスもその手口を使うものだからこそ、その恐ろしさも知っていました。これに正攻法で打ち勝っている人を見たことがありません。
だから、すぐにトーラスは諦めます
「はいはい、そうだね。僕にはわからないよ」
「あはは、トーラスは賢いね。わからないことがわかるんだね」
トーラスの降参を見た影だけは笑います。ただ、その笑いは決して勝利の笑いでも、トーラスを馬鹿にする笑いでもありません。本当にトーラスを褒め称える笑いです。
けれど、子供であるトーラスにはその差がわかりません。馬鹿にされたと思い、影だけを無視して前へと体を向き直します。
それを見た影だけは慌てた様子で、トーラスに謝ります。
「ごめんごめん、トーラス。別に、馬鹿にしたわけじゃないんだ」
トーラスは言葉を返しません。
いつも通り、無視して塔を上ろうとします。影だけとの会話は、いつもこういった顛末を迎えることが多いようです。
けれども、今回は違う様相を見せます。
影だけが謝罪だけでなく、トーラスの望むまともな答えも付け加えたのです。
「ごめんよ、トーラス。本当に申し訳ないと思ってる。――だから、最初の質問に答えてあげるよ。この塔を、一体どこまで上ればいいのか」
トーラスはその言葉に驚いて振り向きます。
なにせ、トーラスはこの塔を数えきれない時間上っています。
それは思い出すだけで、気が遠くなり眩暈がする時間です。
だから、途中、この塔についてアンと影だけには何度も質問しました。その中でも、塔の長さというのは、最も多く口にした質問でしょう。
その何度聞いてもはぐらかされてきた待望の質問が、思いもよらないタイミングで答えられようとしているのです。
「影だけ、本当に?」
「本当だよ。そろそろ、次の段階に進んでもいいと思ったからね。教えてあげようと決めたの」
「な、なら、早く教えてよ!」
トーラスは必死にアンの影へと詰め寄ります。
影だけは、もったいぶることなく即答します。
「――トーラス、この塔に終わりはないよ」
影だけは、とても簡潔に答えてくれました。
しかし、その答えを聞いて、トーラスは首を振ります。少なからず顔色も悪くなっています。
「……そんな、そんなはずはないよ。塔である以上、頂上があるはずだよ。なければ、それは塔じゃない、もっと別の何かだ」
「あはは、トーラスは賢いな。そうだね、トーラスの言う通りだね」
影だけはトーラスの言い分を認めます。
けれど、自分の発言を撤回しようとはしません。長い付き合いであるトーラスにはわかりました。影だけは、「この塔に終わりはない」と「トーラスの言うとおりだ」の両方を認めていることがわかりました。
そして、長い付き合いだからこそ、影だけが嘘をつかないこともわかります。
トーラスは考えます。
塔に終わりはなく、しかし頂上はある。
それに当てはまるものを考えます。
しかし、トーラスはすぐに頭が熱くなってしまい、あと少しのところで思いつけません。
「ない、そんなものはないよ」
「あるよ、トーラス。私は嘘をつかないよ」
影だけは真摯な様子で答えます。トーラスは影だけが嘘をついているようには見えませんでした。
トーラスは仕方がなく、もう一度考え直します。
しかし、考えても考えても、揺らめく灯りが何度消えては灯っても、トーラスには何が何やらわかりません。数え切れない長い時間が過ぎ、トーラスは諦めて影だけに聞きます。
「僕にはわからないよ。影だけ、どういうことなのか教えて」
見守っていた影だけはにやりと笑って交換条件を出してきます。
「いいよ。けれど、タダで教えるのはつまらないから、少し遊んでもらおうかな」
「遊ぶ?」
影だけが遊びたがるのはよくあることでした。今までも、何かに理由をつけては遊ぼうと提案してきました。ただ、トーラスはそれを塔を上る使命のため断ってきました。
しかし、今回は塔に関わることです。トーラスはそれを断るわけにはいきません。
トーラスは仕方がなく首を縦に振ります。
「それで、影だけ。こんなところで、どうやって遊ぶんだよ。君には体がないから、できることも限られている」
「ああ、それは勘違いだよ。――私は影。つまり、私と遊ぶということは、この子と遊んでってことだよ」
そう言って、影だけは、自分の本体であるアンを指差します。
「アンと?」
「そうだよ。アンと遊んで欲しい。私はその間に、準備をするよ」
トーラスは無表情のアンへと向き直り、困り果てます。
なにせ、彼女とはまともな会話をしたことがないのです。稀に短い問答をするものの、それもトーラスにとって理解できないものばかりでした。
そんなアンにどう遊びを切り出せばいいかわからず、トーラスは影だけに救いを求めます。しかし、もう影だけはアンの体から千切れて離れ、先に塔の上へと上って行っていました。
トーラスは仕方がなく、一人で遊びを考えます。
ここにあるものは限られていますので、必然とできることも限られます。
「アン、鬼ごっこでもしようか?」
トーラスはベターな遊びを選択します。
アンはそれに頷きます。トーラスはアンが反応したことに安心して、まずは自分を鬼に決めて鬼ごっこを始めようとします。
けれども、アンは全く逃げようとしません。
ぴくりとも動こうとせず、こちらを無表情に見つめるだけです。
トーラスにはアンがなぜ動かないのか不思議でした。
そして、僅かな可能性を思いたち、アンに聞きます。
「もしかして、鬼ごっこがわからない……?」
アンは頷きました。
トーラスはアンの物の知らなさに呆れてしまいます。
仕方がないので、トーラスは一から遊びについて説明をするしかありません。
アンはそれを何度も頷きながら聞き、ようやく鬼ごっこという遊びを理解してくれます。
トーラスは「今度こそ」と意気込み、次はアンを鬼にして走り出します。トーラスは自分の足に少なからず自信がありました。けれど、女の子であるアン相手に全力を出すほど意地悪でもありません。とりあえず、様子見として五分ほどの力で塔を駆け上がります。
けれど、次の瞬間、トーラスは服の裾を引っ張られていることに気づきます。
驚いて振り向くと、そこにはアンがいました。
トーラスはそれなりに息を切らしているにもかかわらず、アンは汗一つかかずトーラスへと追いついたようです。
トーラスは「そんな馬鹿な」と思ったものの、ルールはルールなので、次は自分が鬼になります。しかし、それもすぐに終わります。
アンの足はとても遅く、捕まえるのに一分もかかりませんでした。
次はアンの鬼です。
トーラスは先ほどの失敗を糧に、全力をもって塔を駆け上ります。
しかし、今回も先ほどと同じく、すぐに裾を引っ張られます。
流石のトーラスも、これにはおかしいと気づきます。
「……鬼ごっこはやめよう」
おそらく、アンにとって距離は距離でないのです。トーラスに理屈はわかりませんが、それを直感で理解していました。そして、そうである以上、鬼ごっこでアンと遊ぶのはナンセンスであると判断します。
次にトーラスが提案したのはあやとりでした。
トーラスの服のポケットにたまたま入っていた毛糸を使って遊ぶことにしました。
ただ、アンは鬼ごっこと同じでそれを知っておらず、説明だけで多くの時間を費やします。そして、やっと説明をし終わっても、アンはろくにあやとりをできませんでした。
トーラスは仕方がなく、延々と自分のできるあやとりをアンに見せるしかありません。
あやとりはトーラスの持ちネタが尽きたところで打ち切られ、次はしりとりが始まります。
これも案の定、説明をしたにもかかわらず、アンはろくに答えられません。仕方がなくトーラスがアンの答えを答えてあげるということになり、一人しりとりのようなものになってしまいました。
当然、しりとりもすぐに打ち切られ、様々な遊びがすぐに終わっていきます。
打ち切られた遊びが十を超えたあたりで、塔の上から声が聞こえてきます。影だけの声です。
トーラスはアンの手を引いて、塔を上ります。
影だけが質問を答えてくれるということに、期待を膨らませながら塔を上ります。
その後ろで、アンは微かに笑っていました。
それは、およそ人間の観察力では捉えきれない、微かな微かな笑みでした。