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中編

 翌朝、魔導師トーラは、迷惑な上司ザルバに、叩き起こされた。同じ王城内で隣室であるとはいえ、ザルバ自らが部下の部屋に赴くなど、まず無かった事だ。


「……まだ、早朝ですが……。ザルバ様、何か緊急の案件、でしょうか?」


 トーラは居心地よく整理された居室の暖かく清潔なベッドから、ゆっくり身体を起こした。カーテン越しの隙間から入り込む弱い朝の光は、まだ桃青く、夜が明けきっていない事を表していた。


 ーー眠い。

 ピリピリと痙攣し閉じかける瞼を擦り、無理矢理目を抉じ開ける。


「朝?……もう朝か。なら、ナーガが来るのも、すぐだな!

トーラ、見てくれ!ナーガの娘に贈る指環が出来たのだ!」

「……寝かせて、ください……。」


 あまりにもどうでもいい。トーラは再び寝台の中に倒れこんだ。

 が、静かに魔力が集まっていくのを感じとり、急いで飛び起きる。


「術式、組まないでください!!」

「うっかり指が印をなぞってしまった。つい、癖でな。

愚かな部下を見ると顔面に炎の一つでも叩き込みたくなるだろう?」


 無詠唱、魔法陣なし、結印のみで魔法が発動する簡易術式は、この男くらいしか使い手のいない、恐るべき技だ。通常の魔法と違い、何の準備も前触れもないため、高位の魔導師や騎士であっても対処する事ができない。

 ザルバがニヤニヤしながら、魔力の纏う指をトーラの顔前に翳し、軽く振ると、指先で光る印跡は、『爆炎』の魔法が発動寸前で凍結させられたことを示した。

 トーラの眠気はすっかり吹き飛び、身体中をダラダラと冷たい汗が這い落ちる。


「さて。指環が出来たのはいいが、俺には女の好む装身具、というものがさっぱりわからなくてな。

無難にシンプルにしてはみたのだが。

デザイン的に大丈夫そうか、女好きなお前なら判断出来るだろうと思い、わざわざ頼りに来たわけだ。」


 言いながらザルバはポケットから指環を大小二つ、取り出した。

 シンプルな銀の指環に、小さめの瑠璃が埋め込まれ、裏側には術式が彫られている。


「……センス的には問題は特に無い、とは思うのですが、しかし……」


 手のひらに指環を転がし、眺めると、ずいぶん強力な呪いがかけられているのだろうか、指環が重々しい魔力を放っているのが判る。……さらにいえば、何故、ペアリングなのか、ということも気がかりだ。


「ザルバ様、これに、どんな呪いをおかけになったのです?」

「もちろん、永久の隷属と束縛(エンゲージ)だ。」

「……ペアで?」

「ペアで。」


 ザルバが喜色満面に、答えた。

 それを聞き、トーラの顔色がサアッと青く染まる。

 ナーガの娘を隷属させるだけなら、彼女には気の毒だが、頭のおかしいザルバのする事。許容範囲内ギリだ。

 しかし、よりによって、互いの隷属だという。


「王国魔導師のトップがナーガに隷属だなんて、ダメに決まってるでしょうが!!」


 が、ザルバはさっさと指環を取り返すと、踵を返し、トーラの部屋から出ていった。


「センス的には問題無し~っ。」


 小さな声で歌うように呟きながら。


 ーー緊急事態だ。

 ザルバの恋愛は、けして成就させてはならない。


 即刻、白竜魔導師団が、副長トーラにより招集された。



※※※



 転移魔法陣室は王城の中央棟にあり、入り口が各国の大使を迎える王の間に通じている。厳しくがっしりとした作りで、緊急時には王を護りながら転移を成功させるという、防御的な意味合いの強い部屋だ。

 正円形をした床の中央に、転移魔法陣が配され、異世界への扉の鍵を持つという女神、ベアリーチェを讃える祭壇が置かれている。魔法陣の無い床部分は黒い大理石で装飾され、室内に窓はなく、壁面下部と梁自体が柔らかく光っていた。壁面上部からドーム型の高い天井にかけては9部分に区切られている。


 その区画のうち8部分に描かれた鮮画は、すでに仕上げの金箔と瑠璃青を待つのみとなっているが、それらは複雑に組み上げられた木製の足場に遮られ、隠されていた。

 この鮮画は創世神話の1つ、『ベアリーチェの大召喚』をテーマに、祭壇にむかって左側には人間の、右側には亜人の、天井に神々のエピソードを、祭壇から手前に向かうにつれ、物語が進むように図式化されており、ダイナミックな構図で描かれた人間などの総数は200を越える。また、柱には、古代ヨルドモ語での祈りの言葉が刻まれた銘文が神話に準えて貼られていた。


 これらは全て、ブオナと魔導師たちにより計算された配置となっている。正しく完成したならば、転移魔法の確実性を数十倍に高めるだろう。


 正面奥、祭壇上の足場の上。そこには二つの人影が見えた。

 それは、未完成である最後の区画の、漆喰を塗り終えたばかりの壁面に、原寸大下絵が描かれた紙を重ね、キリで刺し跡をつけ、炭黒(カーボンブラック)粉をすりこみ、下書きの作成をしている、ブオナとベラだ。

 二人の今日の一日分の仕事(ジョルターナ)は、金鍵を掲げもち、異界への扉を開く、女神ベアリーチェの姿部分である。


 天をより高く見せるため、ドーム型の天井上部に描かれる人物像は、より小さく煽りの構図に、逆に下方に描かれる人物像は、より大きく正面に描く必要がある。祭壇付近に描かれるこの神話の主人公、ベアリーチェは、どの人物像よりも大きくき図式化されていた。

 一日分の仕事(ジョルナータ)一日分の仕事(ジョルナータ)の繋ぎ目は、どうしても色調が変わってしまいやすい。その為、人物像の途中で一日分の仕事(ジョルナータ)を区切ることが出来ず、一日で一息に描きあげなくてはならない。


 祭壇奥のベアリーチェ。ここは今回の鮮画において、スピード的な意味での最難関だった。


 二人は無言のまま、漆喰にキリを打ち付けていた。


 この規模の鮮画は、工房によっては弟子、助手あわせて30人規模で作成する事もある。

 もちろん、ブオナの工房にも弟子や助手が大勢いたこともあった。しかし大抵の場合、ベラに脅え自ら去ったり、ベラを蔑んだ為に短気なブオナの怒りをかったり、中にはベラに興味を持ちすぎたために追い出されたものもいたが、多くが数日もたずに居なくなった。今では、力仕事や雑務を行う温厚な助手が3人いるのみだ。


 ブオナは今回の鮮画を、ほぼ一人で描いている。


 ベラも長年の助手作業により、充分な筆力を身に付けてはいるのだが、今回のような天井画の場合は、ブオナからの制作許可がおりない。

 作業中に天井から滴る顔料の滴に、ベラの金の瞳が濁らされてしまう事を、ブオナは極端に恐れていたからだ。

 実際、ブオナ自身の視力は4年の作業でひどく衰えた。銀朱(バーミリオン)や、鉛白(シルバーホワイト)の顔料が目に数度、入ったためだ。すぐに洗い流したので失明は免れたが。


 下絵の作成を終え、ベラは顔料や水の準備を整えた。完成予想画を見えやすい位置に置き、一旦足場から降りる。

 一日分の仕事(ジョルナータ)のある足場の高さはおおよそ8メートルくらいか。ベラは足場の下から、他の助手に指示を出し、道具の補充を行うなどして、ブオナの補助に徹する。


 金の瞳でブオナの一挙手一投足を見守るベラの後ろに、黒い影が近付いた。


「こんにちは、ナーガのお嬢さん。」


 突如現れた黒衣の魔導師と、それに付き従う5人の王国魔導師たちーーベラは知り得ないが、白竜魔導師団の精鋭たちーーを見て、ベラは警戒心も顕に目を細めた。


「……こんにちは、魔導師様。」

「いい、天気ですね。」


 黒衣の魔導師、ザルバは、まずは世間話から入ることに決めたようだ。背後に控える白竜魔導師団、通称、ザルバの後始末係たちの緊張が、一気に弛んだ。

 この部屋に窓はない。


「……外は、よく晴れている、というほどではなかったですが……。」


 ベラは困ったように黒鱗の眉をしかめ、天井を見上げた。

 ドーム天井に描かれた壮大な空は神話の神々の姿を覗かせながら、高く青く輝いている。釣られて天井を見上げたトーラは、邪魔な足場を全て剥がし、全貌を眺めたい、という衝動にかられた。


「……ブオナ様の描かれたこの空は、確かに素晴らしく輝くいい天気です。ナーガである私の目とは違い、人の目、というのは光の中に複雑な階調を見出す事に優れています。」

「ナーガの目は違うのですか?」


 高くも低くもない、性別を感じさせない柔らかな声色に、トーラのナーガへの恐怖心は削られ、好奇心からそう聴いてしまった。目の前の上司が小さく舌打ちをしたのが聞こえ、芯が冷えた。


「人の目ほど、光に頼ってはおりません。本来、闇に生きる金蛇ですから。」


 そして、ベラはそのままくるりと背を向け、視線をブオナに戻した。仕事の邪魔をするな、とでも言うかのように。


「……あっ、ナーガのお嬢さん、名前は……。」


 ザルバの言葉が終わるより早く、ベラは小走りにブオナのいる足場の下へと向かった。

 顔料箱からいくつかの包みを選び出し、他の道具と共に箱に詰める。その箱を他の男助手が受け取り、新しく水を張ったバケツを手に、するすると足場を登り、ブオナへと届けた。

 男助手はまた、ブオナから濁った水バケツと、汚れた道具を詰め替えた箱を持ち、ベラの元へと戻る。

 ベラは男助手から箱を受け取り、汚れた道具の手入れを始めた。


「……名前は何……。」


 ナーガの娘と全く会話にならなかったザルバを、白竜魔導師たちは複雑な表情で見ていた。

 いつもは、生意気で迷惑で腹立たしい上司の、成就させないつもりの恋愛であっても、はなから全く相手にされていない、というのはさすがに憐れみを誘う。

 それに、身内がアッサリとナーガに振られる、というのは、なんとも後味の悪いものだ。


「ザルバ様、ナーガは忙しいようですよ?仕事が落ち着くまで、待ってみるのはどうでしょうか。」

「そうですよ、例えば昼御飯に誘ってみるとか!」


 恋愛阻止が目標のはずの白竜魔導師たちは、何故か口々にアドバイスをはじめた。年若いザルバの、不器用な初恋に、自らの過去を重ねたのかもしれない。

 励ましを受け、すっかり凹んでいたザルバも、ゆっくりと顔を上げ、いつもの不遜な笑みを取り戻して言った。


「……昼飯か。

しかし、ナーガの好物は何か、お前たち、知っているか?」

「……。」


 知るわけがない。蛇の亜人が好むものなど。


「……鼠や、鳥ですかね。蛇ですし。」

「果物や花の蜜の可能性もありますよね。」

「ただの蛇ではなく伝説の金蛇……竜の一族ですからね。下手をすると人を食べるのかも……。」

「よし、人を喰うのなら、ここにいる役たたずどもを喰わせれば丁度いいな。」


 あっけらかんと言ったザルバの一言に、一同戦慄が走る。

 この様子では、ナーガが食べたいといったなら、ザルバは躊躇なく部下を食べさせるだろう。


「とにかく昼飯に誘ってみるか。」

「止めてください!ザルバ様!!」


 部下たちの悲痛の叫びを受け、止めるような男ではない。ザルバは足場の下でブオナを見つめているベラの元へ、再び近付いた。


「ナーガのお嬢さん、これから昼御飯でもご一緒しませんか?

好物があるのなら、どんなものでも(・・・・・・・)用意しますよ。」


 ザルバがそう言うと、トーラたち白竜魔導師は一斉に震え始めた。

 ベラはニッコリと微笑みーーその表情は白竜魔導師たちにとっては、怪しく企む悪鬼のように映ったがーーそして、言った。


「私達、市井の民は、貴族様や魔導師様のように、昼御飯を食べる習慣はありません。

それに、私もブオナ様も、燃費のいい性質なので、夕御飯も殆ど食べないのです。」

「なっ、そうなのか。

それでは共に朝食を!」


 共に朝食を食べる。

 この恋愛事に疎すぎる魔導師が、それが意味する事をしっかりと理解した上で言っているとは思えないが。

 少なくとも白竜魔導師団で阻害をしなくても、まず、この初恋は成就しないだろう。トーラなどは既に、失恋した上司から受ける八つ当たりを想像し、頭を抱えている。


「結構です。」


 ナーガがキッパリと拒絶の言葉を放ち、金の瞳を大きく開き、瞳孔を縦に細める。黒鱗にうっすらと赤い筋が浮かび上がり、口元から黒い毒牙がはみ出した。

 生き物ならば本能で感じ得る。これは、威嚇だ。

 威嚇に呼応するかのように、空気が、冷えた。

 知恵のある魔物に分類されることすらある、金蛇(ナーガ)の、闇の魔力だ。産まれてからずっと、魔力の少ないものたちに育てられ、コントロールする術を知らないベラの魔力は、野生そのものの荒々しさを纏い蠢いている。


「……なんと、美しい魔力だ……。」


 ザルバが呟いた。


「……もう、よろしいですか?私は仕事中ですので。」


 ベラは威嚇を止め、怒りを押さえ込み、言った。今話している相手は、王国魔導師なのだ。怒りのままに手をあげようものなら、ベラだけでなく、ブオナの首まで飛びかねない。

 ザルバからブオナへと、視線を戻し、わからないように小さく深呼吸をした。


「では、あなたの望む願いを何でも叶えてやろう。俺は世界一の魔導師だ。」


 ザルバはベラの腕を掴み、焦ったように言った。


「離してください!……私は、魔導師様に叶えてもらいたいような願いはありません。」

「どんな願いでもいい。一声、あなたが命じればいい。

そうだな、昨日読んだ童話集の魔法使いになぞらえ、三つ、三つまで願いを叶えよう。

……三つ目が叶ったその際には、俺の願いを聞いてもらうがな。」


 ベラは力付くでザルバの腕を振り払い、再び威嚇をした。冷たい魔力が、ゴオッと唸る。


「何を仰っているのか、唐突過ぎて理解が出来ません。私は、今の生活に十分満足しておりますので。

魔導師様方がお相手になさるような娘のように、金品や宝石、ドレスを求める事はありませんから。」


 ザルバは嬉しそうに顔を歪めた。


「ようやく、会話ができたな。

……では例えば、人の外見になる、とかはどうだ?その姿のまま市井で暮らすのはなかなか苦労も多い事だろう。

他には、そうだな、ナーガの一族が未だ生き残っている場所を探し当ててみせよう。他のナーガがどのように生きているか、知りたくはないか?」


 ザルバの誘惑に、ベラは少し心が揺らいだ。ブオナと同じ人間になれたなら、と、常に願っていた事を見透かされた気がしたからだ。それに、他のナーガに会えるならば、是非会ってみたい事も確かだ。繁殖力が低く、絶対数の少ない一族だ。両親の事を知っているナーガもいるかもしれない。

 しかし、この誘惑に乗るべきでは無いことも明らかだ。三つの願いと引き換えられるのは魂、と相場は決まっている。


「とくに、知りたくはありません。

もうこれ以上話しかけないで下さい。迷惑です。」


 しかし、ザルバはベラの声の上擦りから、心が揺らいでいる事を読み取った。


「こんな願いはどうだ?

……どうやらあそこにいる画家は、もう余命が無いようだ。天寿を伸ばす事は出来ないが、例えば、絵を描く事を止めさせ、心穏やかに余生を過ごさせる事なら出来るぞ。もちろん、何の未練も無く、だ。

このような過酷な労働を寿命を削りながら行う事を止めれば、少なくとも数ヵ月、数年は、ゆったりと暮らせるようになるはずだ。」

「なっ!ザルバ様、それでは転移魔法陣室が完成しないではないですか!」


 脇から口を挟んできたトーラを、ザルバは鋭く睨んだ。


「完成などしなくとも、俺の魔法は失敗した事がない。部屋の力を借りるまでもない。」


 ザルバの誘惑に、ベラは動揺を隠せなかった。

 ブオナから絵を取り上げるだなんて!しかし、絵を諦め穏やかに過ごすブオナの横に、幸せそうな自分を想像してしまい、自らを恥じた。昨夜、共に絵を完成させると誓ったばかりだというのに!

 自分への怒りは、目の前の男へとそのままぶつけられる。威嚇は攻撃へと変貌し、黒い鱗は赤い網線でクッキリと縁取られ、金の瞳の細い瞳孔は蒼く染まっていく。

 コントロール出来ていない冷たい魔力の渦は、魔導師でなくてもわかるほど、重い圧を携え、転移魔法陣室をガタガタと揺らしはじめた。


 ベラがその事に気がついたときはもう遅かった。

 8メートルの足場の上、騒然とした室内でただ一人、集中力を途切らせることなく、女神ベアリーチェを描いていた画家、ブオナを、魔力の圧が襲いかかった。頑丈に組まれているはずの足場はガラリと崩れ、顔料粉や濁ったバケツ、道具類と共に、ブオナは落下しようとしていた。


「ナーガよ!あなたの願いを!」


 ベラの耳元で、ザルバが叫ぶ。


「……ブオナを、助けて!!」


 ベラの叫びを受け、ザルバが指先で素早く印を組むと、暖かい光の塊がブオナの下へと飛び、弾力性の高い空気のクッションを作る。

 ブオナはそのクッションに無事受け止められたが、足場の上から顔料粉が、バケツの水が、道具類が、ブオナの上へと降り注いだ。

 もうもうと、粉が巻き上がり、床は濁った水に濡らされる。

 ベラがブオナに駆け寄ると、ブオナの顔には、顔料粉や水が大量にかかってしまっていた。ベアリーチェの顔を仕上げていたのだろう、よりによって、顔料粉は、毒性の強い鉛白(シルバーホワイト)だった。


「手当て室へ、急げ。」


 ザルバはブオナが生きている事を確認すると、白竜魔導師団へと命じ、自ら手当て室へと向かった。ベラはただ、呆然と、運ばれていくブオナを見つめていた。


 そのまま、数刻。


 ザルバがトーラを連れ、再び転移魔法陣室内に戻ると、ベラと三人の助手は、崩れた足場の修理を行っていた。そして、入り口にザルバの姿を見つけたベラは、急ぎ駆け寄った。


「……ブオナ様は……。」


 ベラの痛ましいまでに必死な表情に、ザルバも、ベラの愛する者が誰なのか、ようやく理解した。


「老画家は……無事だ。助けろ、というのがあなたの願いだったからな。

……ただし、今日は目が覚めることはないだろう。意識が戻り次第使いのものを工房までよこそう。」

「……ブオナ様を、よろしくお願いいたします。」


 ベラは深く頭を下げ、三人の助手に向き直り、言った。


「今日の一日分の仕事(ジョルナータ)の撤去を。漆喰が乾く前に、至急です。」


 仕上がらなかった漆喰は、剥がさなくてはならない。ブオナの仕事を剥がす事はもちろん苦痛だが、剥がさなければ、この壁画は完成しなくなるのだ。


「ナーガのお嬢さん、願いは後、二つだ。必ずあなたはまた、私を必要とするだろう。

では、また、近いうちに。」


 ザルバは、そう言い残し、転移魔法陣室を後にした。




※※※




 夜の風は、冷たい、という事を、ザルバは初めて知った。

 王城は結界に包まれている。それは、敵や災害から護るだけではなく、気温でさえも、背中が大きく開いた長袖のドレスを着た姫君が快適に踊れる温度、に、常に保っていた。

 王城生まれの天才魔導師ザルバには、この結界から出た記憶はない。第一皇子の誕生に合わせ、皇子の国を護るためだけに、掛け合わされ創られた存在だからだ。

 しかし、その強すぎる魔力に、人の身体は悲鳴をあげ、天から与えられた寿命はとうに果てた。結界に閉じ籠り、自らの魔法で成長を止めることで、どうにか生かされている。

 王城内左棟、尖塔屋上部の隅、ほんの小さな庭。ここだけが、結界の届かない唯一の穴だ。


「ずいぶんと、変な場所にいますね。……ザルバ様の気配が結界内から消えた、と、大変な騒ぎになっていますよ。

こんな場所に穴があったとは。早急に修繕させなくては。」


 白竜魔導師団、副長トーラは、ザルバの部下であり、監視役でもある。


「この、ストーカーめ。俺には一人物思いに耽る事も許されない、というのか?」

「……許されないでしょうね。市井の亜人に心を奪われるというのは。」


 トーラはカツカツと足音を高く響かせ、ザルバの背後に立った。


「にしても、見事な失恋っぷりでした。もし、成功していたなら、我らは市民を手にかけなくてはならなかった。」


 ザルバはトーラの言葉を聞き流し、冬の高く冷たい空を見上げた。


「この天気は、いい天気ではないのか?」

「……曇り空、ですね。いい天気ではないです。」

「そうか、では俺は一言目から間違えたのだな。」


 ザルバはいい天気がどんな天気か、知らない。本で読んだ挨拶をそのまま使ってみただけだ。


「にしてもザルバ様、さすがに悪役過ぎるでしょう、あれじゃ。」


 トーラが言うと、ザルバは肩を落とし、俯いた。


「……わかってる。

俺だって好きな娘の前で、悪い魔法使いの役よりは、王子か騎士になりたい。ただ、悪い魔法使いが適任だっただけだ。

ナーガの娘を失わない為には、俺が悪役になるのが一番手っ取り早い。」

「……ナーガの娘を失う?」

「お前はさっさと部屋に帰れ。俺も、すぐ戻る。」


 膝に顔を臥せたまま、悪い魔法使いは、小さな背中をさらに小さく丸めた。

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