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前編

鮮画=フレスコ

システィーナ礼拝堂の最後の審判など

乾画=テンペラ

最後の晩餐など


技法に関してなど、突っ込みどころも多いかと思います。ご容赦ください。

 ナーガ族


 伝説の生き物、金蛇(ナーガ)の末裔とされる一族。毒牙を持ち、体表が黒鱗で被われ、瞳孔の細い金の目には白目が無い。寿命が大変長い、と言われている。また、人間と関わることは殆ど無い。


「……つまりは、外見以外はよくわからん、ということか。」


 子供向けに書かれた図鑑を膝の上で閉じ、男は溜め息をついた。


 ここは、ヨルドモ王城内、左棟最上階、白竜魔導師長ザルバの自室。

 王城内の部屋、というわりに室内が雑然としているのは、ザルバが掃除夫を部屋に入れない為だ。

 ザルバ以外がこの部屋に触るのは、危険すぎる。部屋の中心には大きな魔法陣専用スペースがあり、そこでは未だ発光しつづける開発中の魔法陣が放置されている。もし誤って触れたなら、おかしな魔導式が発動しかねない状態だ。

 棚から溢れた本は壁に立て掛けるように積み上がり、衣類や雑貨に至っては入口付近で山となっている。

 その衣類の柔らかい山をクッションがわりにし、胡座をかくザルバは、役にたたない図鑑を放り投げ、足元に置かれた次の本を手に取った。

 伸ばし放題の黒髪をかきあげ耳にかけると、黒い瞳が露になる。王国魔導師、と呼ぶにはずいぶん若い頬を膨らませ、唇をとがらせながら表紙を捲る。


 日当たりのいい大窓は全て本で塞がれ、隙間から射し込む光が埃をチラチラと照らす。ザルバは体の位置をもそもそと動かし、膝の上に開いた本の上に丁度光が刺すように調整し、読み進める。


「なんだこりゃ。全部筆者の妄想と悪口じゃないか。こんな本、書庫に返す価値もない。」


 膝の上にあった本を部屋の隅にある小さな魔法陣に投げつけ、ザルバが軽く手で印を描くと、本は一瞬で燃え上がり、白い灰になった。


「……ザルバ様、いくら気に入らない本だったからといって、燃してしまうのはお止めください。もう書庫から借りられなくなりますよ?」


 ノックの一つもなく無遠慮に扉を開いたのは、ザルバの部下、トーラだ。やはり黒く長い艶髪を腰まで伸ばし、首もとで纏めた魔導師らしい美青年は、よっこいしょっと呟きながら抱えた本をザルバの足元に積む。

 ザルバは国から与えられた白竜魔導師の制服を嫌がり、動きやすい黒のローブを身に付けているが、トーラはしっかりと襟元を正し、金糸で刺繍が施された白い軍服まがいの制服を姿よく着こなしていた。

 その白い制服についた埃を神経質そうに払い、肘や袖口の裏まで汚れはないかチェックし、一仕事終えたといった表情でザルバに言う。


「はい、これでナーガに関する本は全て持ってきました。……私は力仕事は範疇外なんですから、こういったことは書士かメイドに頼んでくださいね。」

「信用ならん。……あいつらは絵本に童謡、子供向けの図鑑、そういったものを、勝手に省いて持ってくるだろうからな。」


 ザルバはトーラから受け取った本を一冊一冊、確認しながら答えた。次は北方の大陸に伝わる童謡集を調べる事にに決めたらしい。


「……おお!これなんかいいな!ナーガの瞳には我々とは違う世界が見えているらしいぞ!」


 ザルバが無邪気な顔で笑う。それを見たトーラは、書庫で本を探している時からずっと抱えていた疑問を直接ぶつけた。


「なんで、ナーガなんです?あんな醜い生き物をいまさら。確かに、謎は多いですが。」

「ナーガが醜い?ははっ。相変わらず、お前とは女の趣味が被らないな。」

「……おんなのしゅみ?」

「俺は今日、女神に会ったんだ。異種族、という壁があるならな。まずは彼女の種族の事を理解しなくちゃならないだろ?……なんだその顔は。さっさと好きな女の一人でも、と口煩く言っていたのはお前だろうが?」


 嬉々として好きな女(・・・・)の情報を集める上司を前に、トーラは激しく混乱していた。

 ナーガは醜い。それは幼子でも知っている事実だ。

 さらにいえば、この上司、幼い外見をしてはいるものの、国内最高位の魔導師である。魔法至上主義のこの国で、彼以上に婚姻対称としてご令嬢たちから狙われている男は他にいないと言っていい。なんといっても、いまだ正妻の座が空いているのだ。

 トーラ自身は、成人前にあっさりと、文字通り体を張った罠にかかり、妻と娘が出来たが、いまだに高位魔導師の血筋を獲よう、とえげつない罠が絶えない。


 ーーザルバ様なら選り取りみどりじゃないか。ナーガが相手だなんて悪趣味にもほどがある。


 つい、顔をしかめたトーラを嘲笑するように、ザルバは言う。


「俺は一度たりとも、人間の女を欲しいと思ったことはないがな。

だが、彼女は別だ。目深に被った灰色のフードから覗く溢れんばかりの金瞳、悩ましく潤う黒鱗、三日月型の笑みからチラリと現れた鋭く黒い毒牙……。」

「あー。そういう意味での、欲しいですか。確かに、身近に発見したなら研究対称として欲しくなりますよね。材料にも使えそうですし。」

「……これは、恋であり、愛だ。」


 読んでいた本をトーラの頭に投げつけ、ザルバは断言した。本はあっさりと側頭部に直撃し、鈍い音が室内に響く。


「……痛っ。恋だの愛だのがまさかザルバ様の口から出てくるとは……。」

「そうだな。なにぶん俺は、恋愛経験が全く無い。気に入った女を手にいれるには、何をしたらいいものか……。どこにも書いてなくてなあ。」


 ナーガの女の口説き方。

 そんなハウツーが本になっているような世の中は嫌だ。

 また別の本の流し読みをし始めたザルバに、トーラは呆れたように言った。


「女の口説き方なんて、時と場合によるでしょうが。……とりあえず、贈り物でもしてみたらどうですか?装身具や花、衣服なんかが一般的ですよ。」

「そうか!それはいい案だな。あの黒く細く華奢な首には、どのような首輪が似合うだろう。あの長く鱗で覆われた妖艶な指先には、どのような指環が似合うだろう。纏わせる呪いは、どのようなものが相応しいだろう!ああっ!」


 どうやらこの魔導師は、装身具は呪われて然るべき、と思い込んでいるらしい。

 トーラはナーガの令嬢を不憫に思い、贈り物をしたらいいなどと口が滑った事を後悔した。




※※※※※※




 そこは、老画家ブオナの自宅兼アトリエ。

 齢80近いブオナは、怒りに任せ、床に置かれたバケツを蹴り飛ばした。


「なんだ、あの餓鬼は!わしのベラを物欲しそうに視ただけでは飽きたらず、買いとりたい、などと!」


 長年鮮画に関わった彼の声は、炭黒(カーボンブラック)顔料の粉塵を吸った為につぶれ掠れて聞き取り辛い。

 若い頃こそは生来の短気な性格の為に怒鳴り散らし、大声をあげる事が多かったが、ここ数年は声を出すこと自体が辛く、こんなに怒りを顕にすることなど、なかった。

 そんなブオナを見て、ベラは昔を思い出し、少し懐かしくなる。


「魔導師様、でしたね。魔導師は好奇心の強い生き物、と聞きます。」


 ベラは漆喰の練り直し作業を終え、明日描く分の下絵を確認しながら、薬紙に包んだ顔料を慎重に選ぶ。


 今手掛けているのは、王城内転移魔法陣室の天井に描く、女神ベアリーチェを配した壁画だ。

 今流行りの、卵と膠を顔料に混ぜて描く乾画でも、細部のみ乾画を用いる混合技法でもなく、描くのに多大なる手間がかかる鮮画を選んだのは、もう先のないブオナにとっての最後の傑作を描く為でもある。


 鮮画とは、文字通り鮮やかに仕上がり、経年劣化の少ない伝統的な作画技術だ。下地を塗った壁面に生乾きの漆喰をぬりつけ、漆喰が完全に乾燥するまでの約12時間のうちに、水で溶いた顔料を用いて描いていく。

 この作業を数年間、パズルを一枚ずつ埋めていくかのように繰り返し、巨大な壁画を完成させる。


 石灰でできた漆喰は、乾燥させると石灰岩、つまり大理石と同じような成分に戻るため、石の中に鮮やかな顔料を閉じ込めたような絵画が出来上がり、劣化に強く色あせにくい。

 卵と膠を使う乾画では、数十年経つと表面がポロポロと剥がれ落ちてしまう、ということをブオナは経験的に知っていた。


 目の前に座る、愛らしい助手、……助手であり、幼なじみでもあり、愛娘でもあるベラは、他人の前ではけして曝すことのない滑らかな黒鱗の肌を惜し気もなく顕し、いつもは伏せがちな金の瞳を優しげに弓なりにする。常人であれば恐ろしさで肌が粟立つような笑顔だが、ブオナには温かい安らぎを感じさせるものだった。


「全く、あんな糞餓鬼が神にもっとも近い人間だ、などとよくもまあ名乗れたものだ。魔導師など、所詮、神をも怖れぬ反逆の徒ではないか。しかも、ベラに色目を使い追って……。」

「色目では無い、と思いますよ?さすがに。魔導師への悪口は外では言わないでくださいね。心臓がいくつあっても足りません。」

「……ベラ、お前の心臓は、いくつあるのだ?」


 ベラは自分の薄い胸に手を当てて確かめてみる。


「……ひとつ、のようですね。人間族と同じみたいです。」


 ナーガの娘、ベラは、おどけるように微笑んだ。



 神画家ブオナはヨルドモ城下町に大きな店を構える布問屋の三男坊として産まれた。

 魔法の才能こそはなかったが、しかし、息を吐くように絵を描き、言葉を話すように粘土像を捏ねる、いわゆる神童であった。13歳を迎える日にはヨルドモでもっとも著名な鮮画家の工房に入る事も決まっており、将来は間違いなく時代に名を残す画家、もしくは彫刻家になるだろう、と言われていた。

 ブオナの信心深い母親は、ブオナを一流の神画家にさせるため、熱心に神話を語り聞かせ、教典を読ませた。そして、夏には必ず、神話にまつわる土地へと連れていき、実際に風景をスケッチさせた。


 ヨルドモ王国の聖地、といわれるベアリーチェ湖。女神ベアリーチェが誕生し、異界の扉を開いて人間たちをこの世界につれてきたという、深い森に囲まれた神秘の湖。

 

10歳の夏、ブオナはこの湖の畔で、ベラと初めて出会った。


 両親と兄弟を旅館に置き去りにし、スケッチ道具を詰め込んだずだ袋を抱え、ブオナ少年は、湖の周囲をぐるりとまわりながら絶景を探していた。

 湖の直径は5キロ程ある。湖沿いを歩けば道に迷うこともないだろう、と、たかをくくり歩き続けるうち、人の通れない獣道に迷いこみ、気がつけば湖を黙視できない森の奥に入り込んでいた。


 普段は生意気なほど威勢のいいブオナも、ただ一人、暗い森の奥をさまよっていると泣き出したくなるほどの不安がこみ上げてくる。足元には高い草が生え、過去に人の歩いた気配はない。蔓の巻き付いた太い木々は出鱈目な方向にずんぐり伸びて、ブオナの進行を妨げる。時折、ケケケケケッと鳥の声が静かな森に響きわたり、ブオナを飛び上がらせた。


 ガサッ


 目の端で草むらが動いた。急ぎ身体の向きを変え、動いた場所を正面に後ずさる。道具袋の中から小さなナイフを取り出し、でたらめに構えた。


「獣か!?僕は強いぞ!来るならこいっ!」


 小さな身体から発せられた威勢のよい台詞は、しかし上ずる声色によって台無しになっていた。必死に草むらを睨みながら、脇に力を込め震える手を支えた。ブオナの心臓の速打ちが森に響く。


「……なんだ来ないのか!来ないなら、僕が行ってやるぞ!」


 もし獣であるならば、逃げたら殺られる。背を向ける事は出来ない。草むらの主は気配を殺しているのか、それとももう既にいないのか、こちらの呼び掛けに応える事は無かった。

 小動物か、それとも虫か、落下した木の実か……。

 ブオナはそう判断し、草むらに近づいた。



「……お前、そこで何をしてるんだ?」


 草むらの影に見えたのは、フードを被ったシルエット。息を殺してしゃがみこみ怯えた様子で顔を隠す、小さな子供だった。

 ブオナがその子供に近付こうと草を掻き分け足を進めると、子供はビクッビクッと震えた。

 ブオナの末の弟と同じくらいの大きさだ。5、6歳位だろうか。


「……おい、もしかして道に迷ったのか?」


 ブオナはできる限り優しい声色で、自分の事は棚上げに、そう聞いた。目線をあわせるためしゃがみこみ、子供を安心させようと頭を撫でる。と、子供が少し目線をあげたのか、フードに隠された顔が露になった。

 大粒の涙を溜めた金の瞳。黒鱗の肌は影に溶け、その金色だけが浮いて見えた。


「……金蛇(ナーガ)?」


 ナーガの子供は慌ててフードをかぶり直し、小さく小さく体を丸めた。


「すっげー綺麗な目だな……。なあ、もう一度、顔を上げて見せてくれよ。」

「……きれいな、め?」


 ナーガはおずおずと顔を上げ、不思議そうにブオナを見つめた。


「……こわく、ないの?この、め。」


 舌足らずに喋る幼いナーガに、恐怖心など沸くはずもない。

 ブオナはむしろ、この美しい瞳の色を再現できる顔料や技法はないものか、と鼻先に顔を近付け、夢中になって観察していた。

 ナーガは近すぎる距離に恥ずかしくなり、目を伏せた。


「あ、わりい。俺また視過ぎちゃってたな。母ちゃんによく怒られんだよ、失礼なクセだってさ。

子供、とはいえ、女の子(・・・)だもんな。顔、近付け過ぎちゃってゴメン。」

「……おんなのこっ!」


 ブオナはナーガの頭に添えていた手をそのまま動かし、優しくなで回した。ナーガは、金の目を大きく見開き、信じられない、といった顔で驚いている。


「いま、わたしのこと、おんなのこって!なんで?」

「え、違うの?女の子にしか見えないけど。」

「そう、だけど、でも……だって……。」


 ナーガ族には人間ほど外見的な特徴による性差がない。性器でさえ体内に隠されており、発情期と雌の産期以外は人間が区別できるような違いは無い、といっていいだろう。

 事実、今までに出会った人間には、雌だと断言したものはいなかった。しかもブオナは……


「……おんなのこ(・・・)、だなんて。」


 ナーガは黒鱗の下の真皮、頬のあたりにカアッと血が昇るのを感じた。

 両手を顔にあて、赤くなっているかもしれない頬を隠そうとする。もちろん、黒鱗のおかげで赤くなってはいないのだが。


 顔を伏せ、隠してしまったナーガに、ブオナはごく当たり前に話を続ける。


「えっと、ナーガって呼ぶの、変だよな。名前、なんていうんだ?」

「な、なまえ……。はじめてきかれた……。」

「あれ?名前、無いなんて事、ないよな?俺はブオエンティーナ・ミカエラ。ミカエラ家の三男だ。ブオナって呼んでくれよ?」

「……わたしは、ベラ。このなまえはおじいさまがつけてくれたの。……そうだ、おじいさま……。」


 ベラはわざわざ人間を探しにここまできた理由を思い出した。


「おじいさまがしんじゃったの……。だから、おはかをつくりたくて。」


 昨夜、おじいさま(・・・・・)が死んだ。老衰による往生だった。

 ベラは朝までおじいさまの躯の隣で泣き続けたが、夏の空気は躯から腐敗の気配を感じさせはじめた。

 そこで、庭に墓を用意し、一人で埋葬を行おうとしたのだが、非力な子供の力では、老人の躯を、引き摺り動かすことはもちろん、ベッドから降ろすことすら出来なかった。


 誰か、力のある大人を。できれば自分と同じ、ナーガ族の大人を。さもなくば、亜人種を。


 山を下り森をさ迷いながら人里に近付き、感覚器に人間族を捉えたときは、ベラは姿を表して助けを求めるつもりだった。

 しかし、おじいさまの庇護下にいながらも幾度となく感じた、人間族への恐れが、ベラの足を縫いとめ、その場にしゃがみこまさせた。


 人間が足音高く近付いてくる。……自分の前に立ち、その手を高く振り上げた。


 殺されてしまう!!


 そう瞼を堅く閉ざしたベラの頭を、その手は優しく撫でたのだ。




「あの時は、本当に無鉄砲でした。」

「本当だな。もし、わし以外の人間がベラを見つけていたら、と思うと、寒気がする。」


 老ブオナは、ゆったりと寝台に横たわり、毎夜の習慣となっている、ベラとの昔語りを楽ししんでいた。

 ベラは、寝台の傍らに置かれたベラ専用の椅子で、眠たそうに話をするブオナを見つめながら、おじいさま(・・・・・)の躯を思い出してしまい、頭を振ってその嫌な妄想を吹き飛ばそうとした。


 只の人間族である、ブオナの死期は近い。



 おじいさまの躯を、ブオナ少年とどうにか埋葬し、神に祈りを捧げた。

 ベラを本当の両親から預かり、育ててくれたというおじいさまは、土小人(ドワーフ)混じりの人間族で、それほど大柄ではなかったことも幸いした。

 ベラとおじいさまが住んでいた小さな小屋は、ベアリーチェ湖から山の方に森を数キロ進んだ場所にある。おじいさまは瑠璃(ラピスラズリ)の採れるこの山で採掘をし、加工することで生計を立てていた。


 おじいさまの小さな工房に足を踏み入れたブオナは溜め息を吐き、そして机の上に広げられた、加工中の瑠璃鉱石を丹念に調べた。棚には白雲母や孔雀石、銀等も無造作に並べられ、加工を待っていた。


「……これって、顔料にすんのか?」

「がんりょう?ちがうよ、ほうせきだよ!?」


 確かに棚には顔料には向かない鉱石もところ狭しと並べられている。

 これらがすべて、同じ山で採れるとは思えない。おそらく、細工の腕の良さに、商人達が加工前の鉱石を持ち込むのだろう。


「……削って余った屑とかは、どうしてんの?」

「あ、それはわたしが、まじりのないようにこまかくわけて、ろかして、しょうにんさんにうるの。くずも、うれるのよ?」


 濾過。それは灰汁を用いた相当手間のかかる職人作業だ。そんな作業をこの小さな女の子がやっているのだ、という。


「ほら、みて?おじいさまはいつも、ほめてくれるのよ?」


 ベラは小さな包紙を引き出しから出して、ブオナの手のひらにポトリと転がした。

 息を殺し、丁寧に包紙を開くと、中には透明に澄んだ瑠璃青(ウルトラマリン)の顔料が入っていた。


 鮮画家にとっての瑠璃青は、特別な色である。数年の歳月をかけ、完成した鮮画は仕上げに瑠璃青と金箔で飾り付けられるからだ。

 まだ少年であるブオナは、高価な瑠璃青に触れるのは、初めての体験だった。

 他の色を全て食べ尽くす狼色ではないが、そう呼んでもおかしくないほどの強烈な青の粉。ベラの金の瞳に翳すと、とても美しく映える。


「……ベラ。俺さ、画家になるんだ。鮮画の。

いつか、自分の工房が持てるような画家になれたらさ、この瑠璃青を使わせてくれないか?

んー、そうじゃないな。

……大人になったらさ、ずっと、俺と一緒に、俺の工房で、俺のための顔料を作ってくれないか?」


 ブオナは、ベラの金の瞳にすっかりとりつかれていた。そして、ブオナなりの言葉で、プロポーズをしたのだった。


 工房を持つ頃には、自分は立派な青年になるはずだ。そうしたなら、この美しい瞳を持つ少女を自分の妻として迎え入れたい。

 まだ幼いベラにはこの気持ちまでは伝わらないだろう。が、大人の女性として成長したベラに、また改めて同じことを伝えれば、きっと、応えてくれるのではないか。


「いいよ?じゃあ、がんりょうについて、たくさんべんきょうしておくね!」


 ベラが素直に顔を綻ばせ、白い唇から毒牙を覗かせた。その、三日月の白と、危うい黒のコントラストでさえ、ブオナにとっては艶やかで素晴らしかった。


 それから8年の月日が経ち、自らの工房を立ち上げた若く才に溢れた鮮画家、ブオナは、約束通り、ベラを迎えにいった。

 しかし、そこで待っていたのは、未だ幼い少女の姿のままの、ベラだった。


 金蛇(ナーガ)族は、とてつもなく成長が遅い。


 ブオナはベラを妻とすることを断念し、愛娘として、助手として、工房に迎え入れた。




「明日は、いよいよ、ベアリーチェを描く。」


 老ブオナは目を閉じたまま、そう呟いた。

 転移魔法陣室に足場を組み、作画を開始してからはや4年。もう9分割された天井のうちの8つの区分は描き上がり、あとは最奥祭壇上、ベアリーチェ周辺のみとなっている。完成まであと一月、といったところか。


「どうにか、寿命も持ちそうだ。……ベラ、最後の最後まで、世話になってしまうが、我儘な頑固爺の最後の願いだ。わしと一緒に、最高傑作を作るぞ。

……そして、最後の時まで、隣で手を握っていてくれ。」


 ベラはブオナの瞼に指をあて、言った。


「約束しましたもの。ずっと、一緒にいますって。」


 老画家は、その言葉を聴いて、安心したかのように眠りについた。


 金蛇(ナーガ)の娘は、画家の静脈の浮いた手の甲に口づけをし、金の瞳から涙を溢した。

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