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『蒼司殿、落ち着きなされ』
蒼司の肩に乗ったままだったトキが諭すように落ち着いた口調で言った。蒼司はトキのその言葉にハッとした表情となり、前のめりになっていた自分に気付く。
「あぁ、失礼。トキさん、ありがとう」
アハハ、と愛想笑いを浮かべた蒼司は少し顔を向け、肩に乗るトキに呟いたが、それを見た田中は引き攣っていた表情から今度は一気に蒼褪めた。
「そ、そこになにかいるのですか⁉」
「あぁ、トキさんは紳士ですからね。大丈夫ですよ」
にこりと笑った蒼司にトキは溜め息を吐く。田中が気にしているのは『紳士だから』などは関係ないだろう。案の定田中はなんのことか意味が分からないといった顔だ。確実に『なにかがいる』という気配を感じているのに、目の前にいる蒼司が求める答えと違う答えを返して来ることに、田中はなにかを悟り、結局は意味の分からないものには触れないでおく、という結論に達した。
「あ、えーっと、そ、それでですね……住人たちの間で噂が噂を呼んで、「このマンションは呪われているんじゃないか」「例の騒音の住人は幽霊なんじゃないか」なんてことを言われはじめましてね。さすがにこれはまずいとなり、堀井さんに調査を依頼したんですよ」
「幽霊ですか! これまた面白い発想になりましたねぇ!」
あからさまにウキウキと楽しそうに蒼司が目を輝かせるため、田中はいまだに若干表情が引き攣っている。しかし、それでも先程よりは落ち着いている蒼司は少し考え込むと首を傾げた。
「でもその例の住人って、貴方も何度か会っていますよね?」
「えぇ」
「ならば、そのひとが幽霊なんてことはある訳がないのでは?」
「それはそうなんですけど……」
田中はなにやら口籠り、少し言い辛そうになる。蒼司は相変わらず目を輝かせたまま田中の言葉を待つ。田中は肩をすくめ怯えるような姿で、声を潜めた。
「その……確かに会ってはいるのですが……なんというか……失礼だとは思うのですが、どうにも普通のひととは思えず……」
しどろもどろになりながら話す田中の言い分はこうだ。
その住人は強面で無口ではあったが、契約のときにもただ『暗い』といった印象くらいで、特段おかしなところはなかった。しかし、入居し、一度目の苦情が来たときにはなにやらさらに暗さが増し、表情も生気がないように見えた、という。次第に様々な苦情が出だし、再び会いに行くと、その住人は酷くやつれ、目の下には隈が広がり、明らかになにかに『憑かれている』ように見えた、ということだった。
「うーん」
蒼司は顎に手をやり考え込んだ。田中の言う『憑かれている』というのは主観であって、事実本当に憑かれているかと言うと、にわかには信じ難い。噂のせいでそういう思考に偏ってしまっているだけの可能性が高いからだ。
「ま、とりあえずそのマンションに行ってみましょうか!」
考えるよりもまず現場を、と、意気揚々と立ち上がった蒼司に田中はびくりとし見上げた。
「え、あ、受けてくださるのですか?」
「えぇ、もちろん!」
滅多に来ない依頼、普段ならば物探しなども受けるほどの仕事のなさだ。こういった依頼は大歓迎とばかりに、蒼司はにこりと笑い田中に向かい手を差し出した。慌てて立ち上がった田中は差し出された手を取り握手を交わす。
「契約書はまた現場を見てからにしましょう。案件によって料金もね……変わりますから」
にこにことしている蒼司とは対照的に、なにやら法外な料金を吹っ掛けられないかと不安になる田中だった。
「きなこさんと珠子さんは一緒に来てくれる? トキさんは留守番お願い」
田中の隣でずっと共に聞いていたきなこと珠子は蒼司のその言葉に、お互い顔を見合わせ満面の笑みで立ち上がった。
『行く行くー!』
『久しぶりの依頼だにゃ』
きなこは伸びをし、珠子はあちこち駆け回り喜んでいる。田中はこの応接室には蒼司とふたりきりのはずなのに、明らかに蒼司の口から出た誰だか分からない名前に、身体は強張りつつ、もういっそ聞かなかったことにしよう、と遠い目をしていた。
土間にてトキに見送られながら、蒼司はきなこと珠子と共に田中の後へと続いた。現在午後三時。陽は少し傾きかけてはいたが、それでもまだまだ暑い時間帯だ。炎天下のなか外へ出るのを嫌がっていた珠子は、しかし、そんなことは忘れたのかルンルンとご機嫌に鼻歌を歌いながらスキップをしている。
『結局姐さんは一緒に来てるのかにゃ?』
きなこが辺りをキョロッと見回しつつ、銀子の姿がいつまでも見えないことに首を傾げていた。
「さあねぇ、銀子さんは気まぐれだからねぇ。でも僕の勘としては一緒に付いて来ているんじゃないかな。フフ」
隣でちょこちょこと蒼司たちの歩みに合わせ歩くきなこに少し視線を投げ掛け微笑む。田中は背後で独り言のように呟く蒼司の言葉は聞こえていないのか、必死に前だけを見詰め歩いていた。
彌勒堂からしばらく歩いて行くと寂れた商店街に差し掛かる。古惚けたアーケードは日射しを遮りはするが、暑さまでは遮ってくれない。アーケードになっているため風通しも悪いのか、空気が重くすら感じる。道に敷き詰められたタイルは所々にヒビが入り、メンテナンスされていないことは容易に想像がつく。
歩いて行くたびになにやらざわざわと音にならない音が耳に届くが、田中は気付いていないのかそのまま歩き続けていた。蒼司はその音に少し反応を示すように首を動かすが、しかし、それは虫のさざめきよりも小さい。近付いてくるような、遠ざかるような、まるで子供がかくれんぼをするように、影からこっそりこちらを見てクスクスと笑っているようだ。蒼司はそんな気配にすら楽しそうに笑う。




