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「お前さん、半分生きていないね」
面白いものでも見るように目を細め、そんな言葉を投げ掛けられたのはいつのことだったか――――
言葉の意味を理解出来ないまま記憶は薄れ、幼い日々の想い出と共にいつしか思い出しもしなくなった言葉。生まれ育った家でありながらも居心地の悪い家。旧家と呼ばれるほど古くからある広い屋敷の薄暗く長く延びた廊下。古く軋む床板のギシギシという音だけが耳に残る――――
*
『オマエダレダ……イヤナニオイガスル……』
『フユカイダ……クッテヤロウカ……』
そんな言葉が聞こえてくる。纏わりつくように群がる奇妙なものたち。あるものは黒いだけの塊のような、あるものはおぞましい姿の妖怪のような……そして、あるものは怨み辛みを残したひとの姿のなにか……。
真夏の太陽がギラギラと照らすアスファルトをひとりの男がフラフラと歩く。耳障りな言葉を浴びせられながらも項垂れ歩き続けていた。
一切反応を示さないことで、周りを取り囲むものたちは己の発する言葉が相手に届いているのか否かは分からないだろう。しかし、そんなことはどうでもいいかのように、ひたすら纏わり付いていた。
二十代くらいだろうか。体格も良く背も高い男だが、体格とは反して顔色は悪く目の下には隈が広がる。男はダラダラと汗をかき、黒いTシャツはしっとりと肌に貼り付いていた。黒く短い髪には汗が滴り、太陽の光を反射させキラキラと光って見える。
苦悶の表情を浮かべながらも、男はただ俯き歩いていた。どこへと向かっているのか、それは自身にも分からず、ただひたすら足を進める。止まってはいけない。止まってしまえば纏わり付くそれらのものたちに飲み込まれてしまう。そんな感覚だけが足を進めさせていた。
街中を歩いていたはずが、いつの間にやら寂れた商店街のような場所へと入り込む。古惚けたアーケードをくぐると、いつの時代から閉じてしまったのか、酷く寂れた店が並ぶ。ひと気はなく静まり返り、蝉の声だけが響き渡る。
その蝉の声が耳に煩く感じたとき、先程まで纏わり付いていたものたちが周りにいないことに男は気付く。
「おや、なんだいお前さん。とんでもない重苦しいものを引っ付けてきたねぇ」
突然聞こえてきた女のような声。しかし、その声はしっとりと心地好く耳に馴染む。男は重い頭を持ち上げ、声の主へと目をやった。
そこには銀色の長髪に金色の瞳をし、妖艶に微笑む美女がいた。化粧をしているようには見えないが、切れ長の目は意志の強そうな眼差しを向け、こちらを見定めるかのよう。白い肌に薄い唇は真っ赤な口紅を付けたように真紅の色を放つ。胸が見えそうな程はだけた前身ごろの白い着流しを着た女は男を一瞥し、着物の袖で口元を隠したかと思うとクスクスと笑った。
「フフ、なにやら面白いものがやって来たもんだ。あいつに教えてやらねばな」
目を細め楽しそうに笑った女は、一歩近付いた。そのとき男の全身にぞわりと悪寒が走る。真夏のアスファルトを歩き続け、汗だくであったにも関わらず、なぜか今度は冷や汗へと変わったことに気付き、全身に鳥肌が広がる。
「お、お前は……何者……」
絞り出すように声を発したつもりが、それは最後まで言葉にすることは出来なかった。一気に吐き気が込み上げ崩れ落ちるように項垂れ嘔吐してしまったのだ。
「おや、おやおや、私の気にあてられたかねぇ」
男はそのまま崩れ落ち地面へと膝を付き、倒れ込まないよう必死に堪えるが、身動きが取れないほどに身体は強張り吐き気が治まらない。意識を飛ばしそうになりながらも頭上から聞こえる声は、焦るでもなく、まるで分かっていたかのように冷静だ。じりっと女の足音が聞こえ、蹲る視線の先に女のつま先が見えた。汚れの一切ない真っ白な足袋がやけに奇妙に思えた――――
*
「今日も暑いねぇ。いい加減涼しくなってもらいたいもんだよね」
茶色く柔らかそうな髪がふわりと風に靡く。スラリと細身で藍色の着流しを着た男は店先の掃除をしながら呟いた。日本家屋のような二階建ての古い木造の建物。その屋根には古惚けた看板が立てかけられている。店の名でも書いてあるのか、なにやら文字が並んでいるようだが、黒く煤汚れているようで、はっきりとは読み取れない。店先にも特になにか商品が並べられているでもなく、外の日射しのせいか、家屋のなかは薄暗く奥までははっきりと見ることは出来ない。
男は南蒼司、この一見なにを売っているのか分からない店の店主である。
少し垂れ目がちの目に物腰柔らかそうな落ち着いた顔立ちの蒼司は「暑い」と言いながらも、涼し気な顔で空を見上げながら嬉しそうに話す。
『ソージは全く暑そうには見えないにゃ』
「えー? そうかな、十分僕も暑いよ?」
足元で蒼司を見上げながら呟いたのは茶色い毛並みの雌猫――――蒼司は自身の足元でげんなりと項垂れている茶色い猫へと視線を送った。
『あたしのほうが暑いに決まってるのにゃ!』
「アハハ、そりゃ、きなこさんは毛皮着てるしねぇ」
『笑いごとじゃないのにゃ! 寒いのも苦手だけど、最近ニホンは暑過ぎるのにゃ!』
「まあね、最近の暑さは異常だとか言われてるしね……」
そこまで言いかけ、蒼司はふと視線を『きなこさん』と呼んだ猫から外した。
「おやおや、きなこ、蒼司に暑さを訴えても無駄だよ。こいつはその暑さすら楽しんでいるからねぇ」
「失礼な、一応僕だって暑いと思うことはありますよ……と、それより銀子さん、それ、なんです?」
銀髪に金色の瞳をした白い着流しを着た女……銀子と呼ばれたその女はちらりと自身の足元を見た。
そこには先程銀子が対面していた男がドサリと投げ捨てられるように倒れ込んでいた。




