第2話 源泉徴収、鼻血と担保
第2話 源泉徴収、鼻血と担保
夜が明けても、鼻腔の奥に残る鉄の味は消えなかった。
徴魔庁の離れで簡易台帳を閉じると、扉が二度、軽く叩かれた。
「情報屋だ。扱いは丁重に、金は前払いで頼む」
入ってきたのは、猫背に黒外套の男。頬に古傷、目は笑っていない。
「カゲトラ。元盗賊。今は裏帳簿のほうを付けてる」
「裏帳簿?」リサが眉を上げる。
「山の連中は税より速い。関所を勝手に作って通行料を取ってる。加えて、塔の上に祈祷師がいる。奴らの“雨請い”の詠唱は、途中で免税に切り替わる癖がある」
カゲトラは卓に紙を広げ、墨で簡単な図を描いた。山腹の砦。見張り台。塔の上に旗。
「今日の昼、行き止まりで隊商を止める。そこで“疼光の雨”を落とすのが手。疼光は、当たった筋肉に遅延痙攣を起こす。逃げ遅れたら、財も命も取られる」
私は台帳を閉じ、印を握った。「源泉徴収が通るなら、止められる」
リサが私を見る。「昨日の前取り、担保がギリギリだった。今日は長丁場になる。担保の考え方を整理してから動く」
彼女は手帳を開いて、さらりと定義を刻む。
源泉徴収(Withholding):詠唱=申請で予約された決済枠から、実行前に徴収する行為。担保(Collateral)が必要。担保とは、合意に基づく将来の効果の保証。担保不足は**利子(身体負荷)**として所有者に請求される。
「昨日は、あなた自身の体力で担保した。だから鼻血。――でも守備の場なら、合意を集めれば担保は市民が持てる」
「寄託」私は言った。
「ええ」リサは頷く。「守るための微量前納を、市民や衛兵が宣誓で預ける。あなたは課税域の中で、その預かり分を使って前取りする。――正当性が上がるから、効きもいい」
カゲトラが指の節で卓を叩いた。「やるなら早いほうがいい。昼の鐘の前に峠道へ」
私は頷いた。鼻の奥の鉄の味が、薄く甘く変わる。恐怖ではない。緊張でもない。やる。
◇
峠道は風の通りが悪く、音が籠る。
砦は谷を跨ぐように突き出て、木と石で二階建て。見張り台に祈祷師、旗はまだ降ろされている。門前に木柵。丘の斜面に弓兵。
門の陰に隊商がすでに三つ、止められていた。荷車の御者が腕を組まれ、通行札を買えと怒鳴られている。
私は盾を構えた市民兵の列の前に立ち、声を張った。
「守備宣誓を頼みます。――前納担保として、あなた方の守る意思のひとかけらを課税域に預けてください。申請の言葉は短くていい。“街を守る”。その一言で、十分」
市民兵たちは互いに顔を見合わせ、頷き合った。
私は柵の外、半月ではなく爪切りのような形で課税域を描いた。砦の門と見張り台を挟む形。税率二%。世論は未知数、まずは浅く。
リサが並んで立ち、短く告げる。「寄託の定義を刻むわ」
前納担保寄託:課税域内の防御行為に限り、宣誓者の将来の効果の微量を、徴税者が預かり利用できる。預かり分は清算時に返戻されるか、延滞として相手へ転嫁される。
宣誓の声が重なり、私の皮膚の下の勘定線が温かくなった。
担保が来た。前取りの線が、私の前へ伸びる。
見張り台の祈祷師が、旗の紐に手をかけた。口の中で疼光の雨の詠唱――申請が走る。
私は予約枠へ指を差し入れた。封蝋が空気に浮かび、祈祷師と決済枠を結ぶ。
前取り――源泉徴収。
鼻の奥が痛む。来る。
だが、昨日と違う。担保がある。黄金色の小滴が、私の内側で心臓と同期して灯る。市民の合意だ。
祈祷師の詠唱が一瞬噎せた。
私は差押印を、門に向けてかざす。朱の封が、薄く門前の空気に貼りつく。
祈祷師が強引に詠唱を続ける。免税印が旗の縁で光る。
弾かれる。
免税――非課税。課税域の線が、旗の銀糸で滑った。
「タクト!」リサの声。
私は舌を噛み、仕訳を切る。借方:門前の安全/貸方:祈祷師の未納。
差額が生まれる。差額は未納。
未納は、延滞。
私は、腹の底で定義を噛む。
延滞金スタン:未納が閾値を越えたとき、遅延分を利子として身体反応(痺れ・眩暈)に変換し、未納者へ即時還付する。連鎖性を持つ。
黒い勘定線が祈祷師の腕に浮き、ぱちんと弾けた。
祈祷師の肩が跳ね、膝が折れる。旗が垂れ、免税印の光が鈍る。
同時に、砦の上で弓を引いていた二人がふらつき、矢が外れた。連鎖だ。疼光の雨の入力側が遅延したまま、決済に届かない。
門が、まだ閉じている。柵の前で市民兵が歯を食いしばる。
私は課税域を爪切りから弧に広げ、税率三%へ。世論は――門前の御者が「頼む!」と叫んだ。同意が空気にのる。
私は差押の割当を、盾と槍の柄に自動で振るよう細かく指定した。勘定線が道になる。
砦の内側で、別の詠唱が起きた。低く、重い。門の裏で増強の術だ。
私は予約枠を探る。封蝋の糸が迷う。名義が、ふたつに分かれている。
――ロンダリング。名義洗浄。
まだ、二重帳簿結界はない。私は手計算で貸借を追い、片方の声だけが門の蝶番に効いているのを見つけた。
そこへ、前取りを一点、差し込む。
鼻から赤。視界が瞬きに白む。だが、担保が残っている。
封蝋が蝶番の空気に薄く貼りつき、延滞の利子が点火された。
門板がぎしと鳴り、内側の楔が緩む。
カゲトラが低く口笛を鳴らし、背中から縄鉤を投げた。「今だ」
市民兵ふたりが縄をよじ登り、内側から閂を外す。
門が半間だけ開いた。風が流れる。
私は差押印を門柱に押し、「守るための税だ」とだけ呟いた。
割当された微光が槍列に走り、列が一拍長く呼吸する。
突入が始まった。
◇
砦の中庭は狭く、木箱と樽が積まれている。反対側の階段から短剣を持った盗賊が降りてきた。
私は課税域を狭く張り替え、税率四%へ。範囲は自分を中心に三歩。正当性は“侵入”で薄い。だが、ここは門前の延長だ。寄託担保が、まだ灯っている。
盗賊が補助術で足を軽くする。申請が走る。
私は前取りを短く差し込む。封蝋が靴に貼りつき、利子がくるぶしに跳ねる。盗賊の足が一瞬凍る。
市民兵の槍が柄の腹で脇腹を打ち、盗賊がうずくまる。
見張り台から、疼光の詠唱が再開された。祈祷師が歯を食いしばって立っている。
私は予約枠へ再び指を差し込む。担保の灯が心臓の拍とズレる。不足。
リサの声が飛ぶ。「担保不足!」
わかっている。だが、今は止めるしかない。
私は自分の体を、担保に入れた。
前取りの糸が太くなる。封蝋が祈祷師の喉に貼りつく。
鼻から、赤。耳の中で鐘が鳴る。
祈祷師の目が見開き、喉が空を切る。
延滞金が跳ね、視神経に白が走る――祈祷師は膝をつき、嘔吐した。
弓兵が連鎖でふらつき、手すりに吐き伏した。
疼光の雨は、降らない。
胸が焼ける。視界が狭まる。
私は格子を維持しながら、肋骨の内側で勘定線を収めた。寄託担保の残りを市民兵の盾に返す。
――清算。
返戻された微光が盾の表面で消え、私の眩暈が一段ひく。
カゲトラが縄からひらりと降り、祈祷師の手首に縄を回す。「生け捕りでいいんだろ?」
「未納は聞き出す。免税印の名義も」リサが短剣を下ろし、静かに言った。
中庭の隅で、樽の陰に青い札束が転がっていた。通行札。
私は札束に差押印を押し、朱の封で束をくくった。
それは戦利品ではない。取引だ。記録だ。
差押は許可でも盗みでもない。正当性の印だ。
門の外で、御者が肩を落とし、泣いていた。
私は中庭の埃に膝をつき、短く、ゆっくり呼吸した。鼻の赤が、砂に黒く滲む。
一%の前取りで、砦はまだ落ちない。
だが、初めて、源泉徴収が形になった。
リサが私の肩に手を置く。「今日の定義は?」
私は乾いた喉で、短く答えた。
定義:源泉徴収は、守るために借りる。担保は合意。利子は、未納者が払うべきもの。
彼女は頷いた。「続きは明日。砦を落とすのは、延滞が満期になったとき」
カゲトラが樽を蹴って、にやりと笑う。「満期取り立て、嫌いじゃない」
私は立ち上がった。勘定線が肋骨の内側で静かに光る。
黒字は、まだ仮計だ。
決算は、明日。
延滞には、利子を。
それが、この世界でのやり方だ。