プロローグ 徴魔官見習い
プロローグ 徴魔官見習い
霊産院を出ると、石畳の先に徴魔庁の尖塔が見えた。塔の上半分に黒い格子が彫り込まれていて、朝日が当たると細い影が街路に落ちる。
塔の根元に請願窓口がある。タクトは列に並びながら、街を見た。露店、荷馬車、鳩。人々の肩越しに、あちこちで小さな魔法取引が起きている。
手をかざして火を灯す男。水壺に清浄をかける女。どの瞬間にも詠唱(申請)と加護(許可)と発動(決済)があり、世界の台帳に記録が打たれていく。
列の前で、喧嘩が起きた。筋骨の男が、屋台の少年を怒鳴りつけ、荒い手つきで火の玉を練る。
タクトの皮膚の下の勘定線が震える。一%が、また落ちてくる。
――違う。今度は前からだ。
火の玉はまだ申請の途中。決済されていない。
だが、タクトの中の雫は、火ではなく空白を連れてきた。
【源泉徴収(概念の発芽):詠唱=申請で予約された決済枠から、実行前に徴収すること。通常は権限がなく不可能だが、予約は**“未来の取引”**でもあるため、担保があれば前取りが発生しうる】
担保? 何が?
タクトは、掌の朱の印跡を見た。差押印。
ただの印。使えないはずの玩具。
でも、朱は記録の色だ。記録は、世界の同意だ。
タクトは一歩踏み出し、男の腕と屋台の支柱の間に、掌をかざした。
――借方、世界の安全。貸方、あんたの未納。
意味不明な仕訳を、心で切る。
掌の朱が、じゅと微かに音を立て、空気に薄い封蝋を描いた。
男の詠唱が、たたらを踏むみたいに途切れた。火の玉は申請止まりで固まり、決済されない。男は目を剥き、口を開閉する。
周囲の視線が集まる。屋台の少年が息をついた。
胸の奥で、タクトの勘定線が満足そうに鳴った。
体の奥から、逆流する感覚。軽い眩暈。鼻の奥がつんとする。
前取りは、体に利子を請求する。
鼻から、赤が一筋、落ちた。
男が睨む。「何をした、貴様」
タクトは正面から見返した。
「未納分の前取りです。源泉徴収――詠唱税の」
自分で言って、笑いそうになった。ふざけている。だが、世界は記録された言葉に従う。
男が怒声を上げ、腕を振りかぶろうとした瞬間、タクトの掌の封蝋がぱちんと弾けた。
男の肩から肘へ、細い黒い勘定線が浮かび、ぴしと小さく切れた音がする。
男の腕が、痺れたように力を失った。延滞だ。遅延利子がスタンになって跳ねた。
周囲がざわめく。すぐに徴魔庁の衛兵が割って入り、状況を飲み込み、男を下がらせた。
列の先で、窓口の司書がタクトに視線を向ける。「あなた、徴魔官の素養がある」
タクトは鼻血を拭い、深く息を吐いた。
世界の空気は冷たく澄み、朝の光は薄い金色だった。
彼は、印を握り直した。
数字は嘘をつかない。人が嘘をつく。
ならば、記録してしまえばいい。嘘が入り込めないように。
そして、徴収する。必要なぶんだけ。延滞には利子を。
列が進む。
タクトは歩いた。
黒字は、血で薄めるものではない。設計で作るものだ。
その確信だけが、揺れなかった