序章 黒字と赤血
序章 黒字と赤血
深夜二時四十二分。蛍光灯の唸りが天井の目地に沿って震えている。
経理部フロアの空調は止まり、熱だけが溜まって、モニターの青白さが皮膚に刺さった。
瀧戸タクトは、指先の感覚が紙やすりになったみたいに荒れているのを感じながら、もう一度だけ月次の貸借を突き合わせた。赤字。だが、正しい赤だ。
上席が背後で笑った。「タクト君、ここ、調整して。前月繰越の仕訳、もう一行。――“前払費用”。」
数字は嘘をつかない。人が嘘をつく。
タクトはプリンタから吐き出される明細を受け、ホチキスの歯で親指を裂いた。薄い血が、紙の角に吸われる。
「……できません。これは粉飾です」
「粉飾なんて言葉はね、敵が使う言葉だよ」上席は笑顔のまま低く言った。「現実を“整える”。それが君らの仕事だろ」
自分の心音が数字の桁割りみたいに規則正しく、でもどこかで一桁だけずれている。
タクトは印刷物を机に置いた。「ここで赤を黒に化粧しても、来月は血の匂いが濃くなるだけです」
「血の匂い?」上席は首を傾げ、背を伸ばす。「じゃあ、代わりに君の血でこの赤を薄めてくれる?」
冗談の声色。だけど、夜は冗談を悪意の色に染める。
帰り支度をしたのは、その二時間後だった。最終データのバックアップを取り、部門の冷蔵庫に残ったペットボトルの水を一口だけ飲んだ。
エレベーターを降り、ビルの自動ドアを抜けた瞬間、タクトは視界の奥で何かがズレるのを感じた。空の鈍い黒の上に、目に見えない格子が走ったのだ。細い、黒い勘定線のような。
歩道橋の上で足が止まる。鼻腔の内側に鉄の味――鼻血。袖で拭う。路面に落ちた赤が、街灯の光を吸った。
そこから先の記憶は、断片だ。
遠くでけたたましいサイレン。携帯の画面が“緊急地震速報”で埋まる。足元が柔らかい泥に変わったみたいにかくんと沈み、歩道橋が軋む。
ビルの壁面が波打ち、樹脂とガラスがはらはらと落ちる。
落下、破砕。
そして、静寂。
暗闇の底で、タクトは「これは決算か」と思った。
人の生は試算表、死は決算。繰り越すものがなければ、そこで終わる。
ならば――。
水音がした。無重力の水。ぬるい、インクのような液体。
暗闇は、羊膜のような半透明に変わった。タクトの周囲を、黒と金の細い糸が漂っている。あの路上で見えた勘定線だ。線は彼の指先に絡み、細い電気のような痛みを走らせる。
遠くで鐘が鳴った。一打、二打、三打――勘定するような正確さで。
そのたびに、声が降ってきた。女とも男ともつかない、乾いた声。
『魂、確認。名義:瀧戸タクト。前世の貸借、総合計――誤差内。繰越を許可』
声は“説明する”というより、“定義する”。
タクトは口を開いたつもりだったが、指先だけが震えた。
『本世界の基礎定義を記す。――魔法とは、申請(詠唱)と許可(加護)と決済(発動)から成る取引である。取引が成立したときだけ力は世界に記録される。記録なき力は、存在しないとみなす』
取引。会計の言葉だ、とタクトは思った。
羊膜のような膜が破れ、彼の皮膚に冷たい液が密着する。痛みはない。だが、身体はゆっくりと別の仕様で作り直されている――そんな確信だけがあった。
『与えるスキルを選定。適性:微徴』
黒い糸が、皮膚に一本、刺さった。
『《微徴》――定義:半径五メートル内で決済された魔術事象から、効果量の一%を自動徴収する。徴収は所有者の魔法勘定にクレジットとして記録される』
痛みより先に、職業病みたいな反射が働いた。タクトは思考の中で仕訳を切る。
借方:魔法クレジット/貸方:周囲魔術効果(一%)。
――ばかみたいだ。死に際にまで仕訳をしている。
『注意。徴収は税であり、盗みではない。税には**正当性**が必要。正当性が失われたとき、税の効きは落ち、反発が増幅される』
正当性。合意。
タクトは、オフィスで交わされた上席の“冗談”を思い出した。あの赤を、自分の血で薄めろ、と。
ならば、今度は――薄める側じゃない。
羊膜が完全に破れた。体を満たしていた液体がどっと引き、冷たい空気が肺を満たす。タクトは初めての呼吸をした。喉に金砂が擦れるようなむず痒さと、一滴の鉄の味。
目を開けると、天井は高く、黒い格子が石造りのアーチに沿って光っていた。壁にかけられた鐘が、まだ一音だけ余韻を残している。
自分は、仰向けに寝かされている。白衣に似た、でも袖口に朱色の封蝋文様が縫い込まれた服を着た人影が覗き込んだ。尖った耳――エルフだ。
「意識はある? 聞こえる?」
涼しい声に、タクトは頷いた。
「ここは霊産院。転生の手続きと身体の再製を行う施設よ。あなたは落下事故で肉体を喪失、魂は記録神ルグスの元で総勘定を受け、こちらへ**繰越**された――簡単に言えば“生まれ直し”ね」
説明は淡々としているが、言葉は脳にすっと入ってくる。彼女は続けた。
「魔法の仕組みも伝えておくわ。この世界では、力は“記録”されて初めて存在する。皆が詠唱するのは、申請書を口頭で提出しているの。神殿が授与する加護印は許可印。そして、発動は決済。だから、不正な力は記録台帳に載らない。載らない力は、起きていないものと同じ」
タクトの体は、まだ羊膜の名残のような薄い膜に覆われていた。その表面で、細い黒い線がうっすらと脈打っている。勘定線。皮膚の下の血管のように、規則正しく動く。
ちく、と痛み。鼻に手をやると、指先に赤い点。鼻血だ。生まれ直して最初の出血が鼻血というのが、妙に可笑しかった。
「私はリサ・エイリン。監査官よ。あなたの初期手続きと、正当性の保証を担当する。――スキルは《微徴》ね。珍しいわ」
「珍しい?」声が、自分のものなのに少しだけ他人のように聞こえた。
「徴収系。発動した魔術事象から一%だけ徴収する。多くは気づかない。気づいても、生活の足しにもならないと笑う」
笑う。上席の笑い声が、微かに耳の奥で反響する。
リサは目を細くして、続けた。
「でも、発想次第。――魔法は取引、詠唱は申請。申請と決済の間に徴税の挟みどころがある。あなたがそれに気づける人なら、《微徴》は凶器になる」
凶器。タクトは鼻血を指で拭い、ゆっくりと起き上がった。
霊産院の壁には、朱色の差押印が等間隔に掛けられている。
リサはそのうちの一つ、石と金属でできた印章を取り上げ、タクトに渡した。
「これは差押印。差し押さえの意思を記録台帳に刻むための印。まだ使えない。ただの印。でも、記録は“最初の一画”から始まる。持っておきなさい」
印は、ひんやりと冷たかった。掌に置くと、朱の端が皮膚に触れて、じゅと小さな音を立てた。驚いて手を離すと、掌に薄い赤の跡がついている。
痛みは、ほとんどない。ただ、ここに印があるという事実だけが、鮮やかだった。
聖堂の奥で、別の白衣が小さな回復術を試していた。指先で空に図形を描き、静かな詠唱――申請――を口ずさむ。ほの白い光が患者の傷口を照らす。
その瞬間、タクトの皮膚の下の勘定線が、ぴくりと震えた。
――くる。
気付いたら、彼の内側のどこかに一滴の光がぽたりと落ちてきた。一%。喉の奥で、金属貨を舐めたような味がした。
【《微徴》の内部感覚:半径五メートル以内で決済(発動)された魔術事象の効果量の一%が、所有者の魔法勘定にクレジットとして記録される。光の雫として感じられ、のちに他の術の燃料や補助線として消費できる】
ただ知るだけではなく、動く感覚があった。タクトは無意識に、指先で空を撫でた。
借方:自分の勘定/貸方:今の回復術(一%)――そう仕訳を切るように。
患者の傷の光が、ほんの一瞬だけ弱まった。誰も気づかない程度の、一%。
それでも、タクトの内側に落ちた雫は確かに暖かい。使える。
彼は、呼吸を整えた。
「この世界は、赤を黒にする方法を知っている」タクトは呟いた。
リサが眉を上げる。「ええ。けれど、粉飾ではなく、設計でね」
「設計、か」
タクトは印を握った。掌の朱の跡が微かに痛む。痛みは、記号ではない。記録だ。
数字は嘘をつかない。人が嘘をつく。
なら数字に、印をつけてやればいい。嘘をつけないように。
霊産院の扉が風で鳴った。外は朝だった。
鐘が、四打、五打、六打。勘定は進む。
タクトは一歩を踏み出した。
その足元で、黒い勘定格子が、最初の課税域の形をわずかに描いては消えた。