壱
冬雨九年、花見月の末のこと。
極東に位置する島国、和国・桜花。その国を代々統治してきた天子がおわすは、首都・玉黄にある天子宮。
天子宮の奥地に設けられ、人の出入りが厳格に制限された後宮、花園殿の庭にて、二人の幼き娘が羽根つき遊びをしていた。
共に七歳くらいと思われる。揃いの肩までの黒髪、揃いの白い花が刺繍された着物を着た娘達は、着物の色が桃色と紅色であること以外は鏡写しのようにそっくりで、誰の目から見ても双子であることが分かる。
桃色の着物を着た娘が羽子板を強く打ち付け、紅色の着物を着た娘は打ち返せず、地面に羽根を落としてしまった。
「春霧様、一点です」
彼女達を見守るように傍で控えていた子守りの女性が、弾んだ声でそう口にすると、桃色の着物を着た娘が跳び跳ねて喜んでみせる。こちらの少女が春霧。──今上天子第三神子・春霧である。
羽根を落としてしまった紅色の着物を着た娘は、落ち込むことも、相手を褒め称えることもせず、能面のような顔で静かに春霧が喜ぶ様を眺めていた。──今上天子第四神子・春露。春霧の双子の妹である。
「みはる! 今はどっちが勝っているの?」
はしゃいだ声で春霧が子守りに訊ねれば、みはると呼ばれた子守りはそうですねと言いながら、これまで記録をつけていた紙に視線を落とす。
「春霧様が二点、春露様が八点になります」
「そんなっ! 春露、お前はわたくしの妹なのだから、姉に対し手加減しないと駄目でしょう!」
春霧は羽子板を地面に叩きつけると、春露を指差しながらそう叫んだ。
「……勝負は、正々堂々やらないとって、春霧こないだ言ってた」
「それは、お前がその時はちゃんとやっていなかったから!」
「その前にやった時は手加減しろって」
「ああ言えばこう言う! お前のそういう所、可愛くないわよ!」
「……」
春露は溜め息を吐き、口を閉ざす。妹がこれ以上何も言ってこないと分かると、春霧は満足そうに笑みを浮かべ、着物の裾を気にしながらみはるの元へ駆け寄り、彼女に抱きついた。
「春霧様っ」
「みはる、羽子板には飽きたわ。動いてお腹が空いたから、おやつにしましょうよ」
「おやつ、ですか。まだ時間になっていないので、用意している途中かと思われます」
「そんな! わたくし、今すぐ食べたいのに!」
頬を膨らませる様は愛らしく、みはるは困ったような笑みを浮かべながら、辺りを見回す。
花園殿のどの建物よりも高く、最新の建築技術を用いて頑丈に造られた塀。それを隠すように、庭にはいくつもの樹木と花が植えられている。木々の中には桜の木もあり、慎ましやかに花を咲かせていた。
「みはる! 何を見ているの!」
「いえ、何か実が成っていないものかと思いまして」
「……食べないわよ! そんな、汚い!」
「ですよね。食べさせたら私が罰せられますし」
天子とは、建国の神の血を引く現人神であり、その神が妃嬪との間に作った子供は、当然ながら神の子──神子である。
そんな神子に、そこら辺に生えている木の実を食べさせるなど、首が飛んでもおかしくない愚行だ。
冗談でも口にすべきことではないが、彼女達の傍で、息を殺して警備をしている者から睨まれるだけで、特に咎められたりはしなかった。
春霧はみはるから身体を離し、彼女の右手を両手で掴んで引っ張り始める。
「春霧様、何を」
「料理処に直接行って、今すぐおやつを用意するように言うのよ」
「それなら、私一人で行きますので、春霧様は春露様と一緒にお部屋で待っていてください」
「わたくしも行くわ! たまには料理している所を見たいもの!」
「神子様の立ち入りは許可されておりませんよ」
「それでも行くの! わたくしが行きたいから!」
「春霧様ったら」
春霧とみはるが話す傍で、春露はただ静かに彼女達の様子を眺めているだけ。
いつものことだ。
姉が我が儘を口にし、子守りはそれを窘めつつも、最終的には折れる。妹はその光景を見つめるばかり。よく疲れないものだとほんの少しだけ感心しながら、同じようなことをしたいとは全く思わない。
きっと、本来自分が得るはずだった活気を根こそぎ、母の肚の中で奪っていったから、春霧はああで、自分はこうなのだろうと、幼心にそんなことを考えていた。
考えていたから、すぐに反応できなかった。
「───相変わらず、元気なお嬢さんですね」
柔らかな女性の声が春露の背中に届き、彼女はゆっくりと振り返った。
さて、そこには、敷物を抱えた女性と、何か四角いものを風呂敷に包んで抱えた女性と、そんな二人を後ろに従えた──美しい、おそらくこの場の誰よりも美しい女性が立っていた。
艶やかな黒髪は見事に結い上げられ、咲き誇る桜柄の着物の上から薄い緑の羽織りに袖を通した女性は、声と変わらぬ柔和な笑みを浮かべて、春露達を見つめていた。
──春更衣・朱華桜子。
春霧と春露の父である、今上天子・冬雨の側室の一人にして、後宮の誰よりも寵愛されている妃である。
「……っ」
しばし、言葉も忘れて、春露は彼女に見惚れた。
同性であっても容赦なく魅了してくる美しさ。それはいっそ、毒とも言える。
「そんなにお腹が空いているのなら、少し、私のおやつを分けて差し上げましょうか?」
風呂敷を抱えた女性、もとい、朱華春更衣の侍女が、風呂敷を見せつけるように一歩前に出た。
「桜餅ですの。私、桜餅に目がなくてですね。どうせなら桜でも眺めながら桜餅を頂こうと思いまして、ご一緒にどうですか?」
「春更衣様……」
朱華春更衣からの申し出に、みはるが何か口にしようとしたその瞬間、「ふざけるな!」と叫ぶ声が彼女の言葉を遮った。
次いで、荒々しく砂利を踏む音がしたかと思えば、春霧が春露の前に──春露と朱華春更衣の間に立つ。春霧の顔は朱華春更衣に向けられ、春露からは見えないが、どんな顔をしているのかは想像できた。
春霧は、朱華春更衣が大っ嫌いだ。
「石女の施しなどいらないわ! 花見なら狭い部屋の中ですることね!」
「……春霧様ったら」
うっすらと形の良い眉根を寄せ、帯に差していた扇子を手に取ると、朱華春更衣は手早く扇子を広げ、口許を隠した。
見事な枝下桜が描かれた扇子は、天の部分と骨や要の辺りが濃い緑となっている。その格好といい、桜餅がよっぽど好きなのだろう。
「石女だなんて、どちらで覚えた言葉ですの? 貴女のような可愛らしいお嬢さんの口から出て良い言葉ではありませんわ。そんな言葉を耳に入れるなど、そこにいらっしゃる子守りはうっかりが過ぎますわね。別の方に変えてはいかが?」
「うるさいっ! みはるは悪くないわっ!」
「では、うっかりをしたのは貴女のお母様かしら。いけませんね。自分の気性の激しさを遺伝させるだけでなく、嫌な言葉を子供の耳に入れるなど」
「よくも、母上の悪口を……!」
春霧がその小さな拳を握り締め、朱華春更衣の元へ駆け出そうとするが、その前に走り出したみはるが彼女を抱き締めると、口早に告げた。
「朱華春更衣様! せっかくのご厚意まことにありがたいのですが、そろそろ神子様達のおやつの時間につき、冬ノ舎に戻らせていただきます!」
「そう。夕食が入らなくなるほど食べては駄目ですよ」
「ちょっと、みはる!」
いけません、いけません春霧様と、うわ言のように呟きながら、みはるは彼女達の住まいである冬ノ宮に向かって走っていく。
春露と羽根つき道具を置いて。
「置いていかれてしまいましたね」
朱華春更衣に話し掛けられると、春露は彼女に向けて頭を下げた。
「春霧がごめんなさい」
「子供の言うことです、気にしませんわ。それに……もう、言われ慣れました」
そう口にした朱華春更衣だが、その伏せた目が、寄せた眉根が、春霧の言葉を不快に思ったことを暗に告げてくる。
そんな姿をじっと見ていると、つい、春露はこんな言葉を口にしていた。
「春更衣様は、石女じゃない」
「……え?」
「赤ちゃん、生んでる。一人だけ、生んでる。おっきくなった姿はみえないけれど、確かに、生んでいるから、石女じゃない」
「……」
「父上と会った後、お薬を飲んでいるみたいだけど、体調が悪いの?」
朱華春更衣の侍女達は、一人は困惑した顔をし、一人は気味悪そうに春露を見つめる。彼女達の視線が目に入っていないのか、春露の表情は変わらぬまま、真顔で朱華春更衣を見ていた。
今上天子の寵妃でありながら、朱華春更衣は天子との間に子供を一度も儲けていない。閨に呼ばれる頻度を考えればあり得ぬことで、石女でないと言うのなら、それは……。
「春露様」
柔和な笑みを浮かべたまま、朱華春更衣は静かに彼女の名前を呼ぶ。
「どなたかに、私の話を聞きましたの?」
「ううん、みえただけ。春更衣様の綺麗な目をみていたら、そういう光景がみえたの」
「……そうですの。……そう」
朱華春更衣は扇子を閉じて帯に差し、春露の傍へ近寄る。そして優しく頭を撫でながら、語り掛けた。
「みえたものを話したくなる気持ちは分かりますが、あまりみだりに口にしてはいけませんよ。人によってはそれは、不快に思ってしまいます」
「春霧や母上に、よく怒られる。でも、つい、口から出てきちゃうの」
「そういう時は、この可愛らしい両手で、口を押さえてみましょう。身体に覚えさせるのです、言ってはいけないと。繰り返していけばきっと、むやみに言わなくなりますよ」
「……やってみる」
春露はもう一度頭を下げて、羽根つき道具をまとめると、住まいである冬ノ宮へと戻っていった。
この数日後に、朱華桜子春更衣は処刑される。