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テセウスの船(後編)

船出 道音(ふなで みちね)はカフェ店内に配置されたペーパーナプキンをこれでもかというくらい使って、ようやく落ち着いたようだ。

顔面はペーパーナプキンで擦ったからか、目元がかなり赤くなっていた。

深く深呼吸をして、道音はほとんど温くなってしまった紅茶を口へ運ぶ。それを真似るように俺――一ノ瀬 有紀(いちのせ ゆき)もコーヒーを口へと運んだ。生温く、じんわりとした苦みが口の中へ広がる。

「……落ち着いたか?」

「……うん……あ、はい」

「いや、別に今は敬語じゃ無くても良い。今の俺は()()()()()だからな」

おどけたように俺は自身の腕を持ち上げる。細く、しなやかな腕が電灯に反射した。

彼女は俺の姿をまじまじと見る。

「……本当に、一ノ瀬先輩なんです……あ、なんだね。にわかに信じがたいですが……」

敬語とタメ口の入り交じるぎこちない口調で、彼女は再び確認をする。

正直、俺も自身が一ノ瀬 有紀だと証明できるものが自身の経験と記憶しかないので、そう改めて問いかけられると「本当に俺は一ノ瀬 有紀だろうか?」と疑問が湧き起こる。見た目も、容姿も、性別も。

何もかもが今までの俺を構成していた要素じゃなくなっているのだ。まるで()()()()()()のように。

……だが、現状は俺は今言葉を考え、そして発している。そのため『我思う、故に我あり』という理論で乗り切るしかない。

「……そう言われると自身が無くなるが、現に今思考しているのは紛れもない一ノ瀬 有紀だ」

「そうで……、なんだね。分かった、私は貴方を一ノ瀬先輩として信じるよ」

その言葉一つで、心に翼が生えたかのように軽くなった。

今まで俺を理解していくれる人が居ないことがこんなに自分を苦しめていたのだ、と。

「……ありがとう。道音が後輩で本当に良かったよ」

「えへへ」

彼女の頬がゆるりと崩れた。その笑顔は満開に咲いた花のようだ。先ほどまでの不安と欺瞞に満ちた表情はどこへやら、と言った様子だがその彼女の顔を見ていると自然と俺の表情筋の緊張も緩む。

一体、どれくらい振りに笑えたのかは分からなかった。

彼女は、俺にとってのたった一つの希望の糸だ。


☆★☆☆☆


そして、彼女は満足げな表情で、病院を後にした。それを見送ってから、現在唯一の俺自身の住処と言える病室へ戻る。そして、ベッドの端に飛び乗るように座った。軽くなった俺の身体が、まるでお手玉でもするかのように弾む。

弾んだ勢いのまま、俺は後方へ倒れ込んだ。全身を柔らかなマットレスが覆い込む。

そのまま沈むように、俺は自身の思考の海に潜り込む。

……此処を出る時は鬱蒼とした、陰鬱とした空間のように感じられたが、今は明るく白い、希望に満ちたものに見えた。自身を理解してくれる人が居るだけでこんなにも心が軽くなるのだと、俺は初めて知った。

それと共に、今まで俺はどれほど充実した環境で育ってきたものだと改めて再認識せざるを得なかった。

信頼できる友人に恵まれ、自身を慕ってくれる後輩がいる。今まで当たり前のように思っていたけれど、その当たり前はいつ、どんな形で崩壊するかなんて考えたことは無かった。

真水が目を覚ましたら、真っ先に会いに行こう。彼も、もしかすると俺を俺だと認められないかも知れないけど、それでも俺は彼に会いに行きたい。

それが俺が出来る唯一の恩返しだから。

この日まで、俺を遮る障害は何もなくなったのだと思っていた。


次の日の朝。

俺は突き刺すような日差しに、ゆっくりと意識を覚醒させる。

ぼーっと外を眺めている最中、ふと人影にカーテンが揺れたことに気が付いた。

「失礼します」

ポヤポヤとおぼろげな俺の意識の中に、カーテンの奥からもはや聞き慣れた中年男性の声が入り込む。俺はすぐさまマットレスから身体をバネの如く起こす。

「あ、はい!どうぞ」

そう言うと、カーテンがゆっくりと開いていく。もはや見慣れたバーコードの頭皮に、黒縁の眼鏡を掛けた、やつれた風貌の白衣を着た柴崎医師が姿を現す。

「一ノ瀬さん、具合はいかがですか?」

「はい、特になんともないです。傷もほとんど消えてきて、身体もかなり動かせるようになりました」

「そうですか、それは良かったです」

「ただ、昨日はまみ……鶴山さんのところへ面会に行ってきました」

「……」

柴崎医師は俺の言葉に口を紡いだ。何も言えず黙り込むというよりかは、俺が次に発する言葉を待っている……と言ったところだろう。俺の目を真っ直ぐに見る。

「あの、あいつはどれくらいで意識が戻るんですか?」

「……それは、その人の状態に依るところが大きいです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ただ、向こうの看護師から話を聞いたと思いますが、鶴山さんは脳や心臓に障害を負った痕跡が無いことから意識が戻る可能性は高いと思われます。私は医師という立場上、確実に戻る……とは断言することが出来ませんが」

「……分かりました。ありがとうございます」

医師から告げられた事実は、不安を完全に払拭できるものでは無かった。だが、知らないのと知っているのとでは気の持ちようが全く違う。

微かな可能性があるのなら、俺はまだ希望を抱き続けられた。

「それと一ノ瀬さん」と柴崎医師は俺の思考を遮るように通る声で呼びかける。

「一ノ瀬さんの状態は非常に安定しています。状態で言えば、退()()()()()()()、ですが……」

そこで柴崎医師は言葉を切る。続けて何を言おうとしているのかは、おおよそ想像が付いた。

俺が入院当日から目を逸らし続けていた問題。だけど、目を逸らすことも出来ない話だった。

「現状、一ノ瀬さんのご両親が、一ノ瀬さんをお子さんであると受け入れられていない状態です。ある種のPTSD等に似通った精神的ショックによるものか、一ノ瀬さんご自身の家庭内事情が絡むのかは私どもでは分かりません。ですが、このままでは一ノ瀬 有紀さんは帰る先が無い状態です。入院費と致しましては、自然災害によるものであるためこちらで市の方へ手続をさせて頂く為発生しませんが……。私どももなるべく支援致しますが、そちらの方向の解決に向けて一ノ瀬さんご自身でも行動して頂きますようよろしくお願い致します」

「……分かりました」

もはや、向き合うことは避けられないのだろう。

俺自身も.俺の両親も。この未だ不可解な、異なる性へと変化する現象から。


続く

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