強さと弱さ(後編)
俺は現状寝たきりとなっている鶴山 真水と無言の面会を終えた。
総合病院内に併設された屋上庭園へ訪れ、俺はゆっくりとベンチへ腰掛ける。大空は雲一つ無い快晴で、日差しが燦々と全身を照りつける。
周りの人達から見て俺は一体どのような姿に映るのだろうか、とふと思考が過る。やはり、誰から見ても女性の姿のままなのだろうか。
もし、このまま女性の姿から戻ることが出来ず、ずっとこのままの姿だったらどうなってしまうのだろう……と不安ばかりが過る。
誰も理解できる人間の居ない……まるで海底に沈んだような、この息苦しさから逃げ出したい。
現代医学においても性転換手術というものは存在することは知っていた。だが、俺の身に起きたものは手術など人為的な介入なしに生じたものだ。そして、俺の意思も一切介入はしていない。
目が覚めて今の身体へと変化してから、毎日のように鏡を見る。だが、そこに映るのは男では無くこの女性の姿だ。ふと目を閉じれば男の肉体に戻っているはず、と淡い期待を抱いては失望を繰り返していた。
ふと天を仰ぐと、青々とした夏空に一本の飛行機雲が描かれていた。夏もそろそろ本番だ。
辺りを見渡すと、恐らく俺のように入院して居るであろう高齢の人達が、あちこちで家族と談笑したりしている。学校によっては、既に夏休みに入り、入院している祖父母に会いに行く孫も居るのだろう、と、談笑する家族を見ながら思いを馳せる。
「……家族か」
俺の両親は、俺を一ノ瀬 有紀だと自覚できなかった。この人智を超えた現象を受け入れることが出来ないのだ。俺でさえもまだ受け入れることが出来ないのに、他者がそれを受け入れることが出来るはずがない。
自身の思考に意識を向けている俺は、近づく一人の男性の姿に気付くことが出来なかった。
「なァ、そこの姉ちゃん。今一人?」
他の家族へ声を掛けているのだろうか?と俺は自分が呼ばれていることに気がつかなかった。
しばらくして、その俺を呼んだと思われる男性が更に俺に接近し、正面に立った。
「おいこらてめェ、無視すんなよ!」
ものすごい剣幕で俺を見下ろしてくるその男性は、推定して二十代と行ったところか。金髪のメッシュに染めた髪に、両耳には分厚いピアスを付けていた。半袖長ズボンのラフな格好をした、まあ俗に言う所のチャラ男というような風貌だ。
そう言えば俺の肉体は女性なんだったなあ、と自身の胸元の方を見てぼんやりと自覚する。そして、意図的に気怠げな表情を作り男性の目を見据える。
「……何か用ですか?」
「今一人なら俺と遊ばね?」
とズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、彼は下卑た笑みを俺へと向ける。背筋が凍るような不快さが、全身の肌という肌を這う。
ライオンに睨まれた獲物のような気分だ。ベンチから立ち上がって逃げ出したい気分だったが、自身に取り憑いた萎縮した感情が足の動きを縛る。
全身が震える。唇が震える。それでも俺は、湧き起こる恐怖を押し込める。真っ直ぐにこの男の目を見て、気丈に振る舞って見せた。
「……生憎ですが、私は貴方に興味はありませんので」
と俺が返した瞬間、目の前の男は己のプライドを傷つけられたと言わんばかりに徐々に目元がつり上がっていく。
突如として、俺の腕が強く掴まれる。
「てめェ何様だよ、黙って俺に付いてこれば良いんだよ!」
「――ひっ」俺の口から思わず情けない悲鳴が漏れた。
男性の時の力であれば、このような男の腕力に容易に勝つことが出来たはずだ。だが、今はまるで拘束でもされたかのように引っ張っても、振りほどこうとしても、びくともしなかった。
逃げたいのに、逃げることが出来なくて、胸元から恐怖という感情が全身へと伝搬する。周りを見渡し、目線で助けを求めるが皆同じように萎縮しているのか、俺らの方を見るだけで動く様子は誰も見せようとはしなかった。
怖い、助けて、嫌だ。嫌だ。嫌だ。
気がつけば目頭が熱くなり、熱いものが俺の頬を伝う。
これから自分の身に降りかかると考えられる惨状を自覚したくなくて、思わず目を強く瞑る。
「何してるんですか!!」
凜とした声が、俺の近くで、俺の腕を握った男性に向けて放たれた。ギュッと瞑った目をゆっくりと開ける。涙でにじんだ視界の先、揺れるストレートの黒髪が目に映る。頭にはヘアバンドを付けた、大和撫子のような風貌をした少女。
俺は彼女の横顔に見覚えがあった。
「あ?今俺とこいつは良いとこなんだよ。部外者が邪魔すんな?それともお前が遊んでくれるっての?」
と下卑た笑みを浮かべ舌なめずりをしながら、その不埒な男は女性の方をジロジロと見る。だが、その視線にも彼女は怯むことはなく真っ直ぐにその男の目を見ている。
「泣いてるでしょ、この子?貴方のことが気持ち悪くて気持ち悪くって堪らないって感じだけど。これのどこが良いところなの?」
「……っ、何様だてめェ!!」
突如として男は激昂し、女性の顔面目がけて殴りかかる。彼女はそれでも毅然とした表情を崩さない。
男の放つ右ストレートを身体をさらりと避ける。そして、身を翻すようにし、その空を切った腕を両腕で掴み、全身を使ってそれを捻る。
「っあ……!!」
激痛に顔を歪め、男は少女の腕を振り払う。
苦痛に表情を歪めた男は、腕を押さえながら憎らしげに少女の方を睨み付ける。
「女の子に暴力振るう男は嫌われるよ?」
余裕綽々と男を見下す少女。男は更に苛立った様子で彼女を敵意の籠もった双眸で眇めた。
二人の間に張り詰めた雰囲気が立ちこめる。しかし、その間にトラブルを聞きつけたであろう警備員がバタバタと走ってくるのが見えた。
「おいお前!!何をやって居るんだ!!」
「……チッ、クソが」
悪態をついたその男は、逃げようとするが無様にも警備員に捕らえられていた。「てめェ何すんだよ!痛ェだろうがクソ!お前なんかぶっ殺してやる!!」などと喚いていたが、警備員に連れられ、その声は徐々にフェードアウトした。
へたりとベンチに座り込んで立つことの出来ない俺の隣に、その少女――船出 道音は座りハンカチを差し出した。
「……怖かったね。大丈夫?」
「……っ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心の中にある何かが壊れ、一気に溢れるものを留められなかった。
「……あの、俺……こわ、かった、っ……」
「うん」
「助け 、てくれ……て、ありがとっ……」
「うん、もう大丈夫だからね。よしよし」
俺の心というダムから涙が、感情が滝のようにこぼれ落ちる。恐怖と安心と、寂しさと、懐かしさと、様々な感情が入り交じったそれが、涙という形になって病衣を、アスファルトを、濡らしていく。
怖かった、辛かった、どうしようも出来なかった。ただ、それ以上に、俺が完全に女性の肉体になってしまったことを自覚することが辛かった。
あの日見た夢の内容をふと思い出す。環境的に強いキャラクターを使って、自分は強いのだと思っていた頃の夢だ。
俺は男性という操作キャラクターを使っていたから、強く居られた。俺が男のままだったら、先ほどの男をいなすことも容易であっただろう。
だが、女性というキャラクターを操作する今の俺にその力は無かった。ただ、どうすることも出来ず怯え、泣いているだけ。なのに、船出は俺のために真っ向から屈すること無く、立ち向かってくれた。
この日、彼女の本当の強さというものを知った気がした。
そんなことを思いながらも、結局俺はただ泣き崩れ、顔中を涙と鼻水とよだれで彼女から貰ったハンカチをグズグズに汚す。だが彼女はそんなことを気にも留めず、ただ黙って、俺の背中をさすってくれた。
続く
すごく強いヒロインってキャラが立つから好き