折れたツノ(後編)
朝のまばゆい日差しに目を細めながら、ゆっくりと目を覚ます。
「……晴れてしまったか」
幸か不幸か、外は雲一つ無い快晴に包まれていた。まるで昨日の大雨が嘘のようだ。置き時計を見ると、デジタル文字で七時十二分を示している。
一階から、「有紀ー、起きてるー?今日は真水君来るんでしょー」と母親が俺を呼び出す声がして、渋々布団から起き上がる。
恐らく山道を歩くことになるから最低限肌を守る身だしなみにした方が良いだろう、と思い長そで・長ズボンのスポーツウェアに着替える。久々に身に纏ったが、肌触りが良く身体も動かしやすい。
そのスポーツウェアを着込んだ状態で一階のリビングに降りていく。すると、既に母親がトーストを円皿に置き、朝ご飯の支度を済ませてくれていた。
「ほら、早く食べちゃいなさい」
とダイニングテーブルに座った俺の前にトーストの乗った丸皿と温めた牛乳を置く。俺は「いただきます」と手を合わせパンを食べ始めた。香ばしい匂いが口の中に充満する。
ふと真水からメッセージは届いているだろうか、とスマホの電源を付ける。あいつからは「8時くらいに迎えに行く!」とメッセージが届いていた。
その時間なら余裕で間に合いそうだ、と思い俺はスマホをポケットに戻す。そして、そのままもそもそとパンを食べることに集中することにする。冷めたら美味しくないし……。
朝の準備も終わり、一息を付いているとインターホンのチャイム音が聞こえた。身体を起こし、インターホンに取り付けられたモニターを確認する。そこには、真水の姿があった……が。
その身なりは半袖半ズボンに肩から提げた網カゴに網という、昭和の子供かと思うような風貌をしていたのでまだぼんやりとしていた思考が完全に覚醒した。
「おいおいおいおい……!」
俺は慌てて玄関へと駆け出し、ドアを開けた。そこには、純真無垢な表情で笑みを浮かべた真水がいた。
「おはよー」
「おま……さすがにその服はどうなんだよ」
そう絶句しながら問いかけると、彼は照れくさそうに笑みを零す。
「へへ、せっかくだから正念入れたいしさ……?」
「入れどころ間違ってんだろ……まあいいけどさ」
もはやツッコむのも馬鹿馬鹿しいので、俺は玄関先に向かって「行ってくる」と声を掛ける。「気をつけていってくるのよー」という返事を背に受けつつ、真水と共に近隣の山へと向かう。
金色のカブトムシだなんて、そんな非現実的存在が居るはずなんてない。俺は最初からそう信じて止まなかった。
真水が言っていた山道へと到着した。だが、昨日大雨が降ったこともあり、地面は泥濘み、青臭い不快さを感じる臭いが辺り一面から漂う。
正直なところ、雨に濡れた草木の匂いはどこか嫌悪感を感じるから、山道はそれほど好きではない。だが、そんなことを真水は気にも留めず、網をぶんぶん振り回しながら山道へと入ろうとして――、網を木にぶつけていた。
その勢いで葉先に溜まった雨粒が垂れ落ち、真水は一気にその雨粒を頭から被った。
山道に到着して早々に全身をびしょびしょに濡らした真水は、真顔で俺の方を見る。
「……」
「……」
「……いくかぁ」
「おう、滑らないように気をつけろよ」
そう言って先を進む真水の背中にはどこか哀愁が漂っていた。本当に大丈夫だろうか、こいつは。
夏も真っ盛りになろうという時期で、雲一つ無い大空には鳥の鳴き声が、木々からは蝉の鳴き声が響き渡る。
雨露に濡れた草木を木漏れ日がオレンジ色に照らす。より一層輝きを増したそれは、森の中を神秘的な雰囲気に照らしていた。
俺と真水は、時々地面の泥濘みに足を取られることこそあったが、案外道中は順調なものだった。
階段状に配置された石段を乗り越え、簡易的に作られた木橋を渡り、坂道は木にくくりつけられたロープを支えに登っていく。
そろそろ山頂も近いかと思われるところで、俺達は一息ついていた。
今日は雨は降らないだろうか、とスマホで天気予報を見ている俺の視界の傍らで、真水の様子に違和感を感じた。
彼は目を見開き一点を見つめていることに気がつき、俺は声を掛ける。
「どうした?」
「……いた」
「何が?」
「金色のカブトムシが……」
……こいつは疲れすぎてカナブンと見間違えてるんじゃないか?と疑問が湧き起こったが、一応こいつの目線に合わせて同じ方向を見てみる。
確かに、そこには全身を黄金の色に輝かせたカブトムシが木の樹液をすすっていた。
幻覚かと思い目をこすってみるが、確かにそこには見間違うこと無い、金色のカブトムシだった。
「まじか……」
「……今捕まえるから、音立てないでね?」
そう真水はシーッと人差し指を立て、ゆっくりとカブトムシのいる木に近づいていく。網を構え、目線はカブトムシから放さない。
ガサガサと彼の足元の雑草が揺れる。その刹那はまるで、一瞬のようで、かなり長い時間のようにも感じた。
「っ……!」
真水は息を呑むような言葉を発しつつ、素早く網をそのカブトムシへと振り下ろす。見事にカブトムシを取り囲むように網で覆い被さったそれを見て、真水はガッツポーズをした。
「やった!!」
さすがに俺も想定外の事態に真水へと駆け寄る。
「まさか存在するとは……すげぇ、俺も見たい」
「待って、今カゴにい、れ……」
そう急いでカゴの蓋を開けようとした瞬間だった。
大きな地響きのような音が、足音から聞こえた。俺と真水は驚き目を合わせる。
突如、嫌な予感、説明できない程の不安が湧き起こる。直ぐにその場を離れるべきだ、と俺達はアイジェスチャーを交わした。だが、先に生じたのは地滑り。足元の安定性が急に損なわれ、俺達は為す術無くその地滑りに踊らされるしか無かった。
「うわっ……」
「真水!!掴まれ!!」
俺は咄嗟に真水に向かって手を伸ばす。だが、届かない手。崩れゆく足元。滑落する俺達。――何か、こいつに繋がる何かを掴まなければ、とバタバタと手を泳がせながら真水の持っていた網を掴んだ。
そこに入っていた金色のカブトムシのツノをどうやら俺は掴んでしまっていたらしい。
ボキリ。
と地滑りの勢いのままカブトムシのツノを折ってしまった。だが、今の状況下ではそれをやらかしたとも感じることは出来なかった。タキサイキア現象が働き、思考が加速する中ゆっくりと滑落するのを受け入れることだけが今の俺に出来ることだった。
昨日大雨が降っていなければ、地滑りは起きなかった。
そもそも、真水の誘いに乗らなければ、このようなことには成らなかった。
滑落する中、冷静にそう考えながら、俺は自らの身体を墜ちゆく大地に任せるしか無かった。
★☆☆☆☆
「おい!!ここだ、誰か手伝ってくれ!!」
遠くから、うっすらと声が聞こえる。
「大丈夫か!!おい!!しっかりしろ!!」
ああ、聞こえる。
だから、俺を、真水を。助けてやってくれないか……。
思考は冴えているが、目を開けることは出来ない。醒めない夢を見ているかのようだ。
「およそ十代の男女それぞれ一名ずつ!!救助急いで!!」
……”男女”?そんなはずはない。
今山に居たのは、俺と真水だけのはずだ。もしかして、誰か土砂崩れに巻き込まれた人が居たというのか?
なら、真水は、一体……。
頼む。生きていてくれ……。
そこで俺の意識というチャンネルの電源は落ちた。
続く
余談ですが、カブトムシを捕まえる時は基本的に夜間帯の方が良いそうです。
昼間でも捕まえる事は可能そうですが、僕はそもそも虫が苦手なので行きたくはありません(切実)