[最終話]大切な思い出
私を印象づける要因である外見を失ったことで、私が私であると証明できるのは45%にも満たないものとなってしまった。
俺は私となった。しかし、それでも同一人物だと認識してくれた者はいる。かけがえのない、大切な人達だ。
燦々と照りつける日差しがカーテンの隙間から差し込む。秋風が揺らすカーテンは、まるで夏の名残を追い求める波のようだ。
夏休みは終わり、今は既に九月半ばだ。秋の気配を漂わせる空間が、その教室の中全体に漂う。
相も変わらず波長の平坦な、教科書を読む教師の声だけがただ淡々と教室内に響き渡る。そのお経じみた音読をBGMに私――一ノ瀬 有紀は外の景色を眺めていた。
まるで解放されたかのように清々しく、それでいてどこか安心感を漂わせる暖色の光。まるでそれは、私達を受け入れるかのような気持ちにさせる、楽しげな日差しだった。
今は授業中だというのに、既にこれから自身が辿る帰路のことを思うと、なんだか楽しくなってきていた。明るい日差しの中、解放された気分で歩く私自身を想像する。
ただ、この日は帰る前に一つだけ用事があった。私は教師の目を盗み、こっそりと机の中に隠した手紙の中身を見る。
「放課後、食堂へ来てください。 2-3 ××」と力強い字で書かれた手紙。右下には学年と名前が書かれている。恐らく十月に行われる文化祭の実行委員で一緒だった人の名前だったはずだ。
おおよそ、私が何を言われるのか見当は付く。だが、それに対して私はどう答えるべきか一向に答えが見つからずにいた。
答えの見つからない手紙を再び机の奥へと隠し、教壇の方を見る。相変わらず教師は波長の変わらない、子守歌のような音読を続けていた。
退屈さを紛らわすため、ふと廊下の方をチラリと見やる。余所のクラスの体育の授業が終わったのだろう。体操服を着た男女がガヤガヤと賑やかに廊下を歩くのが目に留まった。体操服に描かれたラインからして、恐らく後輩に当たる人達だろう。その中に、よく見知った女学生の姿が映る。
彼女は船出 道音という名前の、一年生の後輩だ。長い黒髪に赤色のヘアバンドを重ねた、相も変わらず大和撫子という言葉が似合う美しさと健気さと、そして強さを持った女性だ。彼女は私の方をチラリと……というか、がっつり見て、私の方へと手をブンブンと振っていた。悪いことをしていないのに、どこか恥ずかしさと罪悪感を感じ目線を逸らす。だが、完全にスルーするのも嫌だったので、道音の方を横目で見つつ、苦笑いを混じえて会釈を返す。
その私の反応が面白かったのか、クスクスとどこか笑いながら友人の元へと駆け寄っていき、その姿私の視界から消えた。どこかげんなりした様子で私は彼女を見届ける。
教壇上の時計は、十二時十五分を示していた。
いわし雲が空を泳ぐ。燦々と暖かな光が、食堂を暖色に染め上げる。遠くから、吹奏楽部の演奏する音が響き渡っていた。
文化祭も近く、多くの学生が楽しげに集まっている。私はそういった学生の邪魔にならないよう、食堂の角の席に座る。
まだ、件の私を呼び出した男子生徒は来ていないようだ。何もせずぼーっとする気にもなれなかったので、私は持ってきていた文庫本を開く。現実的な、男女間の恋愛を描いた小説だ。両片思いの男女がすれ違いながらも降りしきる雨の中、お互いの本音を探し求める姿が描かれている。
物語もそろそろ佳境に入ろうか、と言う所まで読んだところで「一ノ瀬さん」と私の名前を呼ぶ声がした。
「一ノ瀬さん、ですよね。本当に来てくれてありがとう」
そこにいたのは真っ黒な髪色に真っ直ぐな目をした、好印象な雰囲気を漂わせる男子生徒だった。
「うん、そうだけど」
私は読みかけの本にしおりを挟み、彼の目を真っ直ぐに見る。すると、彼はどこか気圧されたように逡巡する。だがそれもつかの間のことで、覚悟を決めたように大きく息を吸った。
これから彼が何を発しようとしているのかは、その様子から見当は付いていた。そして、答え合わせをするかのように、男子生徒は口を開く。
「俺、一ノ瀬さんの事が好きです。あなたを見た時、一目惚れしました」
「……」
「……よろしければ、友達から始めてくださいませんか!」
かつての私ならば、彼の言葉を遮って自分の意見を一方的に自分のことばかりを語って断っていたあろう。だが、それは今になって不誠実な行動だったのだと分かる。
どれだけ、彼が覚悟を持って私に告白しているか。どれだけ、自分の感情に嘘をつかずに向き合っているのか分かる。
だからこそ、私も誠実にそれに答えるべきだ。
「……ごめんなさい。私はまだ、恋愛をする気にはなれないんです」
「それは、一ノ瀬さんの事情が絡むものですか?その、少し前まで男だったって……」
その一言は、どこか私の胸の奥をチクリと刺す。
……私は今回の一件で一躍有名人となってしまった。
それもそうだろう。男性から女性に変化するなんて、本来は天地がひっくり返っても起きないはずの事態だ。
だからこそ、今こうして、彼が私を気遣ってくれているのは分かる。そこに下心が混じっていたとしても、その言葉自体のどこかに本心はあるのだと信じている。
彼の心配する言葉に、私は首を横に振る。
「ううん、違う。私は恋愛よりも、優先したいものがあるだけなんだ」
「……優先したいもの?」
私の言葉を反復するように、彼は首をかしげる。それに対し、わざといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ふふっ、案外目の前の問題とちゃんと向き合うのも悪くないな。って思えたんだよ?もう少し私は、この何かに向き合う自分を大切にしたいだけなんだ」
「向き合う?それは、俺の告白に対しても?」
何かを期待するような男子生徒の言葉に私は頷く。
「うん。ちゃんと君の言葉もしっかりと向き合うことにしてる。昔の私なら、話も聞かずに一方的に振っていたよ。でも、それじゃ私の価値観の押しつけだから、相手にとってはただ最悪な振られ方をしたに過ぎないんだよ」
「……凄く良いことを言ってる風にしてるけど、サラッと俺を振ることは既に確定していた、みたいな……」
「……あっ、それはごめん……」
「謝られると余計傷付くなあ」
素直に謝ってしまった私に対し、男子学生は苦笑いで返した。だが、その様子に振られたことに対する悲しみのような雰囲気は微塵も感じなかった。
「……でも、真っ直ぐに俺の言葉を受け入れてくれる、って言うのは素直に嬉しいものだな。ドン引きされたり、嫌悪感を抱かれるよりかは」
「でしょ?だから、××君も頑張れ!」
私は握った拳から親指を立てて、ウィンクをする。その様子に男子生徒はどこか困惑した表情を浮かべる。
「お、おう……なんだか、一ノ瀬さんってユニークな人だなあ。もう少し真面目な印象あったんだけど」
「真面目要素は確かにあったのは事実だね、少し前まではすごくクールキャラで売ってたし」
「はい、有紀っち、ちょっとストーップ」
私と彼との対話の間の中に割り込んでくる人がいた。その言葉が聞こえたと思った刹那、私の脳天にチョップが振り落とされる。
「あだっ!」
「ごめんなさい、このお馬鹿さん、変なこと言ってなかった?」
「え?え?あ、大丈夫、だよ?」
頭頂部がズキズキと痛み、私は思わず両手で頭を抑え、涙目になりながらその傷害罪の現行犯の方を振り向く。チョップを食らわした本人――船出 道音は私では無く、男子生徒をフォローするように声を掛けた。
男子生徒は困惑した様子で私と道音の方を見る。
……どっちかというと私をフォローしてほしいものだ。
「みーちゃん、あんまり乱暴は良くないと思うんだけど」
私は道音の方を上目遣いで睨む。彼女は私の両頬を力強く摘まみかかった。
「いひゃい」
「調子のりすぎだよー、ゆ、き、せ、ん、ぱ、い?変なキャラ付けで話しないでってこの間も言ったよねー?」
「いいひゃひは」
「第一先輩が女性になった時点で皆困惑してるんだから、そこにイメチェンまで混ぜちゃ駄目でしょうがー……」
「ひょへんははい」
「……そして、そこの君」
「え!?あ、はい!?」
突如私と道音の言葉のキャッチボールをしている最中に暴投を投げ込まれた男子生徒は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
彼女は、優しく微笑む。だが、明らかに作り笑顔だと分かるものであり、どこか威圧感を放っていた。
「……今日、見た、有紀っちの姿は忘れるように」
「あ……はい……じゃあ、失礼します……一ノ瀬さん。頑張ってね……」
道音のその凄みのある声音に怯えと、……なんだか哀れむような目線を向けながらその男子生徒はそそくさとその場を離れていく。
あ、行かないで、助けて。
そんな悲しげな願いもどこへやら、男子生徒は食堂から姿を消した。
「有紀っちさあ」
「ひゃい」
私は相も変わらず、道音に両頬を摘ままれたままお説教を喰らっていた。
「あれだけクールな先輩は何処にいっちゃったの」
「ひゃっへ、はひへひふふほはほふはっへほほっへ……」
「何言ってるのか分かんないや」
「ひほひ」
ここでようやく両頬が解放され、私はヒリヒリと痛む両頬を両手で揉みほぐす。
「絶対ほっぺ伸びた……」
「全くもう……いつから先輩はこうなっちゃったの」
「いや、だってさあ、聞いて?みーちゃん。私はもう自分を取り繕う必要がなくなったんだよ?だから、これは私の素なんだよ」
「こんな素なら知らない方が良かったかも」
「そんなあ」
わざとらしく肩を落として落ち込んだ姿を見せると、近くから「ぶふっ」と吹き出す声が聞こえた。
びっくりしてその声がした方向へ振り向くと、車椅子に座りながらくすくすと笑う鶴山 真水が居た。
「……ん?あれ?真水、いつの間にそこに居たの?」
「いや、船出さんが連れてきてくれてね、遠巻きに見てたんだけど……いやあ、面白いものを見た。……だから、有紀さんも頑張れ!!なぁーんて……」
真水は私の真似をするように、下手くそなウィンクをして親指を立てる。おちょくられたことが恥ずかしくて、私は思わず顔が赤くなる。
「真水ー!!てめぇだけは許さねえー!!私の渾身のフォローを茶化すんじゃねえー!!」
「ぶっ、あははははっ!!いやあ、ホントに面白いよ有紀は、最高の友達だよ」真水が隠しもせず、声を上げて笑う。
「こんなことで最高の友達と理由付けされても嬉しくない……」
げんなりと項垂れた私に、真水は「あ、そう言えば」と突然何かを思い立ったような顔をした。
「有紀が告白されてるのを見て思い出した。そう言えば、有紀にこれを渡そうと思って」
そう言って真水は、ポケットからカブトムシのツノを取り出した。いつか私が折った金色のカブトムシのツノではない。ただの茶色の、その辺りにいるであろうカブトムシのツノだ。
「……何これ」
「いつか、僕と有紀が喧嘩した時に落とした、紛れもない金色のカブトムシのツノだよ」
「いや、茶色いんだけど……」
「僕だってわかんないよ、酸化でもしたんじゃないかな?」
「酸化って……」
「有紀、これ要る?」
「……え、要らない……」
「だよね、分かった」
そう言ったかと思うと、真水はゴミ箱目がけてそのツノを思いっきり放り投げた。見事にそれはゴミ箱の中に軽快な音を立てながら入った。……ホールインワンだ。
「……てか何で私が告白されたのを見て思い出すんだよ……もっと、こう、なんか感動的な要因で思い出そうよ……」
げんなりした様子で呟くように言うと、真水は「あははっ」と再び声を上げて笑った。
「だって、金色のカブトムシの話をした日も、同じように食堂で告白されてたじゃん?」
「思い出すきっかけがなんか嫌だ……いや、まあ確かにそうなんだけどね……」
どうにも完全に否定の出来ない事実を突きつけられ、どう反応するべきか戸惑った。
その私を見ながら、真水は優しく微笑む。
「でも、本当に有紀は成長したよね」
「……そう?」
「うん。なんとなく、自由になった。そんな気がするよ」
「それは私も思うなあ。有紀っち、いっつも何か難しい顔ばっかりしてたのに、最近は特に楽しそうだもん。見てるこっちが幸せになっちゃう」
「うーん……?二人が言うのならそうなのかなあ?」
二人が何故そのような感想を抱くのか、私自身は自覚していないため思わず首をかしげる。
「うん、きっとそうだよ。あ、そうだ有紀、船出さん?ちょっと、僕から提案があるんだけど」
何かを思い出したように真水はポケットからスマホを取り出す。そして短く操作をしたと思ったら、その画面を私達へと見せつける。
そこには、『文化祭にプロのカメラマンがやって来る!大切な思い出を、大切な人と残したい貴方へ!』という文面が踊っていた。
「これさ、学校公式の情報から見つけたんだけどね、一緒に撮りに行かない?せっかく面白そうな話があるんだから、行かなきゃ損だよ」
☆☆☆☆☆
ここに、「カブトムシ」と書かれた三つの箱がある。だが、それは決して共通のカブトムシでは無い。
幼虫かも知れないし、模造品かも知れないし、そもそも普通の個体ではないかも知れない。
一ノ瀬 有紀。
鶴山 真水。
船出 道音。
三人はそれぞれ、異なるカブトムシの箱を持っていた。そして、お互いそれぞれがどのようなカブトムシを持っているのか、分からない。
このカブトムシの箱は、言い換えれば「苦痛」と置き換えられるものだ。
鶴山 真水は、自身のやりたいことを行えなくなる自由を失った苦痛を。
船出 道音は、自身を守ってくれたヒーローであった最愛の人を喪った苦痛を。
そして、一ノ瀬 有紀は、自分が自分だと証明できなくなることへの苦痛を抱いていた。
彼らは決して、同じく苦痛を抱えていたわけでは無い。同じ苦しみを理解できるわけでは無い。それでも、理解できなくても、少しでも歩み寄ろうとしていた。
少しでもお互いを理解しようと懸命に戦い抜いた彼らの人生は、これから先も、きっと輝く。
まるで、太陽のように、金色に。
金色のカブトムシ[完]
これにて、[金色のカブトムシ]本編は終わりです。
本当に、今まで見て頂いて有り難うございました。
本編は完結しましたが、エピローグと一ノ瀬 有紀の番外編を更新した後、改めて本作品を完結と致します。
その後は僕が必要と考えれば当作品を書き上げようと思った経緯について話せたらな、と思っています。
十万字を上回る長編となりましたが、本当にここまで読んで頂いた方には感謝の言葉しかありません。
この作品は僕一人では完成し得ませんでした。discord内でプロット相談に乗ってくださった方々、また、作中の不安を吐露した上で理解してくださった方々、そして、いいねやブックマークを押してくださった方々、感想をくださった方、そうした全ての人達のおかげで、「金色のカブトムシ」は成り立ったのです。
一ノ瀬 有紀は、ある意味では自己投影をしているとも言えます。
僕自身、今まで創作は一人でするものだ。一人で作り上げて、誰かに認めて貰うものだ。そう考えている部分がありました。でも、決してそうでは無くて、読んでくれる人、評価してくれる人。そういう目に見えない繋がりがあって初めて、創作は一つの作品として大成するんだ。そう気付かせてくれたのは、紛れもない皆様のおかげです。全ての人達に感謝の気持ちを込めて、締めの言葉とさせて頂きます。
相談に乗ってくださった方々。読んでくださった方々。評価をしてくださった方々。皆様の事が大好きです。本当に、僕は幸せ者です。本当にありがとうございました。
ただ、最後に一つ。僕からのわがままを言わせてください。
作品情報の欄をタップ(あるいはクリック)し、あらすじをもう一度、改めて読んでください。
それで、「金色のカブトムシ」は完全に完結します。
砂石 一獄より。