TS(後編)
「失礼します」
「ああ、一ノ瀬さんこんにちは。あ、ご両親もどうぞおかけになってください」
柴崎医師が声を掛けると、後ろからパイプ椅子を持った看護師がやってきて、「どうぞ」と両親へと椅子へ腰かけるように勧めた。
両親も会釈しながらその椅子を受け取る。
「さて、あれからお体の調子は如何ですか?」
「いえ、退院してからもどこも痛んだり、とかはしないですね」
「そうですか、それは良かったです。……」
そこで柴崎医師は言葉を切り、どこか目くばせをするように俺――一ノ瀬 有紀を見る。何となく、言いたいことは分かっていた。
「あの、性別違和、のことですよね?俺が女性の体を持ちながら、男性の心を持っているという」
「……はい」
俺がそう問いかけると、彼はどこか躊躇いがちに頷いた。
「一度、今後のことを考えますと一度耳に挟んでおいた方が良い情報かと思いますので、一度説明をと……」
「あ、ちょっと待ってください先生」
お袋が俺と先生との対話の間に割り込んできた。柴崎医師は「どうしましたか?」と首だけをお袋の方へと向ける。
「一ノ瀬 有紀は、今回の事故までは紛れもなく男性だったんです。変化したのは心ではなく、肉体の方なんです」
「……どういうことですか?」
柴崎医師は意味が分からない、というように頭をぼりぼりと掻く。だが、その言葉を冗談とは受け取っていないようで、双眸は真っすぐにお袋へと向けられていた。
「あの崩落事故の前までは、紛れもなく男性として生きたのです。ですが、あの事故以降、理屈は分かりませんが女性の姿へと変化していました。一時期、私達は有紀を息子だと認知できない状態でした。……これが有紀のつい先月の姿です」
そう言ってお袋はスマホを開き、カメラロールの中から俺が映った写真を見せる。そこには、ショッピングモールで真水と道音と、男性の姿の俺が楽しそうに笑う姿が映っていた。そう言えば俺は元々こういう姿だったなあ、とどこか遠い昔の他人を見るような気持ちになる。
彼はその写真と、今の俺とを交互に確認する。俺自身が言えたことではないが、確かに同一人物とはにわかに信じがたいだろう。
「……なるほど、お母さんが仰りたいことはわかりました。ですが、外見上は全く異なるものであり、正直理解の範疇を超えています」
「……俺も、そう思います。俺はこれまで、男性として授かった肉体とともに生きてきました。だから、俺が目覚めた後の検査データに記されていた[女]と記された性別欄の意味が分からなかったのです」
荒唐無稽な話だとは思う。だが、全てが事実なのだから、もし理解されなくても仕方のない内容だとはわかっていた。だが、柴崎医師はそれでも真剣な表情を崩さない。
「なるほど……事情はよく分かりました。……確かに、現代医学においても、未だ解明されていないことは多くあります。今、私達が知っていて当然とされている事象も、遠い過去においては神が引き起こした現象とする説や、そもそもそんなものはあり得ない、と否定さえされることもありました。一ノ瀬さんの身に起きている事象は、確かに荒唐無稽です。ですが、そういうものだと一度受け入れてこそ見えてくる事実もあるのだと私は思います」
「先生……」
……本当に、俺に関わってくれた医師が、柴崎医師でよかったと思う。彼はいつでも俺のしたいこと、やりたいことの意思を尊重してくれた。それが仕事なのだと言えばその通りなのだろうが、彼からは信念にも似た何かを感じていた。
柴崎医師は、黒縁の眼鏡を鼻へと掛けなおし、「一ノ瀬 有紀さん」と改めて声を掛け直す。その声音は俺の覚悟を確かめるかのようだ。
「ところで、一ノ瀬さんは[TS]という言葉はご存じですか?」
「てぃー、えす?」
俺が聞き返したのを否定と受け取ったのか、柴崎医師は言葉を続ける。
「[トランスセクシュアル]の略称です。一ノ瀬 有紀さんは現在、女性の肉体を持ちながら、男性の心を持っている……以前お話ししました[性別違和]に当たる状態です。そして、ホルモンの投与や整形手術などの性別適合手術を受けることにより、心の性別に肉体の性別を近づける事。それをTSと呼んでいます」
「なるほど、つまり手術を受けて、俺の身体が男性のそれになれば、TSと呼べる訳ですね」
「ちょっと待ってください先生」とお袋が話に割って入る。
「私も母親として、ある程度そういったものに関しては調べました。ですが、それは十八歳以上の肉体の成長期を終えた段階でしか受けられないのではないでしょうか。両親の許諾という項目に関しては、もし有紀自身が受け入れるのであれば私達も受け入れる所存ではありますが……」
お袋がそう伝えると、医師は目を軽く見開いた後、頷いた。
「……よく調べていらっしゃいますね。確かに、現在一ノ瀬 有紀さんは十七歳であり、性別適合手術の該当年齢ではありません。ですから、もし本人が希望するのであれば予め段取りだけでも組ませて頂こうと思った次第です」
そこで柴崎医師は小さく咳払いをして、じっと俺の目を見る。
今、現在の俺が望む答えを待っているのだろう。
「さて、貴方は今後男性の肉体を取り戻すことを望みますか?それとも、女性の姿を受け入れますか?もちろん、今ここで話した内容で全てが決まってしまうわけではありません。今後考えが変わるかも知れません。ですが、今一ノ瀬 有紀さんがどう思うか。その見解だけでも教えて頂きたいです」
非科学的現象によって、俺の肉体は男性から女性のそれへと変化した。
まるで、それは水のようだった。常に変化を続け、不可逆的で戻ることは基本出来ないのだ。
ふとヘラクレイトスの川と言う言葉が思い出される。「川は常に流れているため、二度と同じ川の水に入ることは出来ない」と言うものだ。
俺の周りを取り巻く変化全てを体現したような言葉だな、と思う。俺は男性の姿を失い、真水は健脚を失い、道音は最愛の男性を失い、そして両親は男性の俺という存在を失った。
だが、それと引き換えに得られたものもある。それもまた、一つの変化と言えるものだろう。
流れる川に逆らって俺は元の肉体へと戻ることを望むのか。それとも、川の赴くままの動きに従って、生きていくのか。
もちろん心模様も変化するのだから、今ここで全てが決まるわけでは無いだろう。
……だが今現在、この川の流れに留まっている時点での、俺の心は決まっていた。
「俺は――」
☆☆☆☆★
鶴山 真水の退院時間が近づいたため、俺は彼が入院していた病棟へと足を運ぶ。
そこには既に船出 道音と真水が一緒に俺を待っていた。道音は俺の姿を確認すると、俺の元へと駆け出してきた。
「せんぱぁーーーーい!!」
「うぎゅ」
道音は両腕を開いたかと思うと、その勢いのまま思いっきり抱きついてきた。
いつものように引き剥がそうと思ったが、女性の肉体では彼女の抱きつく力に勝つことが出来ず、大人しく、彼女の温かく柔らかな身体に身を委ねることにした。
その姿を見て、鶴山 真水は「ぶふっ」といつものように吹き出す。
「相変わらず仲良しだね、微笑ましいよ」
「真水、笑ってないで解いてくれないかな!?俺ちょっと苦しいんだけど……」
助けを請うように真水の方を見るが、彼はおどけたように笑った。
「そうやすやすと女の子に触れるのは抵抗があるからね、まだ僕の足も動かないことだし、温かく見守っておくよ」
「こんな時だけ女性扱いするの止めろ!?はなせぇー!みちねー!!」
「今の力量なら私の方が上なんだよ?ほら、頑張って剥がしてみて?」
「うぐぐぐぐぐ……っはあ……、無理、勝てない……」
観念したように項垂れると、道音は満足したのか俺を拘束していた両腕を解いた。
「先輩も先生からのお話は終わった?てか元気そのものなのに、一体何を話したの?」
「あー……先生から、手術すれば男の肉体に戻れるけどどうするか、って聞かれた」
素直に聞かれた内容を答えると、二人の表情が少し緊迫したそれに変化した。やはり、気にしないようにしているのだろうが俺の選択には関心があるのだろう。
「有紀はどうするの?やっぱり、男の姿に戻りたい?」
真水は静かに、俺の目を見て問いかける。
俺は彼の問いかけに首を横に振った。
「いや、今はこのままでいい、って答えたよ。男性の姿のままだったら見えない景色が色々見えてきたんだ。お前らがいる有り難さも、こうならなきゃ気付くことも出来なかったしな。最初こそ女性になったことを恨みもしたが、今は感謝してる」
「有紀……」
「……一ノ瀬先輩……」
二人が半ば泣きそうな目で俺を見る。なんだか、それを見ていると、「こいつらが俺と一緒に居てくれて良かった」と思えてきた。
気がつけば、頬から何度目かの温かい涙が零れていることに気がついた。
「あ、先輩、泣いてる……?」
「ば、馬鹿やろ、これは……えっと、てか道音も真水だって……」
「だって……!だって、先輩がそんな事を想ってくれてるなんて思うと、幸せで……!!」
「うん、本当に、僕も君達と出会えて良かったよ……」
「……ああ、本当に、俺はお前らと出会えて幸せだよ」
★★★★★
真水の座っている車椅子を俺がつきながら、道音と並んで歩く。
期間にすれば二週間ほどの短い入院期間だっただろう。だけど、その二週間は俺の人生を大きく変化させた二週間で、とても長く感じた。
そういえば、と思い立ち真水の頭上辺りから声を掛ける。
「真水、そう言えば学校の授業はどうするんだ?車椅子だと階段昇れないだろ」
「ああ、それは学校に頼み込んでしばらくは保健室登校という形にするよ。授業はタブレット端末だけ持って行って、保健室からオンラインで授業を受けようかなって」
「なるほどな、じゃあ俺が持って行くよ」
「……ありがとう。でも有紀の方がもっと大変じゃ無いの?諸々の手続とか、というか周りの人達絶対困惑するでしょ」
真水の質問はごもっともだ。というか、俺もそれに関してはずっと考えていた。
「あー……まあ、大変だろうな。周りから受け入れられるって自信は無いし。でも、お前らは俺だって分かってくれてるだろ?それだけで今は良いよ」
「先輩、なんだか恥ずかしいことを堂々と言うようになったね……あはは」
道音はどこか照れくさそうにそっぽを向く。その耳は少し赤くなっているようにみえた。
その様子を見て、俺はわざとらしく意地悪に口を歪める。
「だって、俺はお前らのことが大好きなんだぞ?そりゃあ堂々と言わなきゃ損だろ」
「やぁーーめぇーーてぇーー!!」
「有紀、流石にそれは堂々としすぎ……」
真水もどこか気まずそうに頬を掻く。
「真水も照れてるのか?なあ、キスするか?」
「それ次やろうとしたら絶交だからね……」
「あ、その話私ももっと問い詰めたい!!一ノ瀬先輩、その話をじっくり聞かせて!!あわよくば私にもキスして!」
「いや何でだよ」
道音は切羽詰まった表情で俺に突っかかる。俺が答えることも出来ずしどろもどろしていると、真水は「あははっ」と声を上げて笑う。
「聞いて、船出さん?有紀ね?僕が有紀に余計な心配を掛けたくない、みたいなことを言って遠ざけようとしたら突然キスしようとしたんだよ。めっちゃ自分のルックスに自信あるじゃん」
「うっせ、美少女からのキスだぞ?国宝ものだろ」
「それ自分で言っちゃうの駄目でしょ……」
「先輩、さすがにその言葉は他では言わないでね?」
調子に乗って発した言葉に、二人から俺を諫めるような言葉が掛けられる。
どこか図星を突かれたように気まずくなった俺は、話題を逸らすことにした。
「……あー、帰ったら夏休みの宿題途中までしかやってないから、終わらせないとなあ」
「あ、話逸らした」
「うっせ!てか、真水も帰ったら宿題終わらせるぞ?状況的に一番宿題に手を付けられてないのお前なんだから」
「……まあ、それは否定できないなあ。確かに丁度良いから一緒に僕の家でやろっか」
「あ、じゃあ先輩、私も行って良いですか?分からない問題多くて」
「道音は同学年の友達居るだろ……」
「先輩から直々に勉強教えて貰うからこそ価値があるんですぅ、……と言うわけでけってーい!」
「おいおい……まあいいけどな、てかさ」
そう言えば、と思い立ったものがある。
「一人称ってさ、俺から私に変えるべきだと思う?」
「え?どっちでも良くない?自由でしょ」
「私はそのギャップがよりそそられるからそのままでも良いと思います!」
「あ、じゃあ一人称私に変えよっと」
「なんで!?」
「そこは有紀の好きにしたらいいと思うよ、どっちでもあんまり気にしないし」
「まあ、そっか。しっくり来なかったら戻したら良いだけだもんな」
「そういうこと」
「えぇー、なんだか嫌だあ、私の推しの先輩が……いだっ」
ぶつぶつと文句を言う道音の額へでこぴんを喰らわせると、思わずびっくりしたのも合わさって彼女が仰け反った。
「何するんですかあ!?」
「……もう、私は他人の評価には流されないからな?」
「……ちぇー」
道音はわざとらしく頬を膨らませていたが、すぐにその表情は柔らかな笑顔へと変わる。
真水はどこか肩を震わせて笑っていた。
ようやく、俺……いや、私達の夏休みが始まった気がした。
――次回、最終回。
「あ、先輩ちょっとこっち向いて」
「道音、どうした?」
「ほっぺのところメイク崩れてる。さっき泣いて濡れたときに崩れたんじゃないの?」
「え、マジ?」
「ほんとほんと。ファンデーション何使ってるの?」
「いや、よく分からんかったからとりあえず安いもの買った」
「だめだよ、メイク道具はある程度いいの買わないと崩れやすいよ?また今度見に行こ?」
「わ、わかった……」
「有紀も勉強すること一杯あるね……?」
「あ、じゃあ鶴山先輩も一緒に勉強しましょう!」
「え、いや僕は男だから大丈夫」
「お前、一人だけ他人事みたいに逃げるのは駄目だぞ。私達は三人で一つだからな?」
「いやいやいやいや、これは女性側の問題であって男の僕には関係ないことで」
「じゃあお前も金色のカブトムシのツノ折ってくるか?探すの手伝うからさ」
「なんでそう言う話になるの!?……わ、わかったよ、一緒に行くよ……」
「じゃあまた予定表作るからまた打ち込んどいてね!」
「はぁい……」
「真水も知っといた方が良いと思うぞ、女性心の勉強の一環だ」
「必要ないと思うけどなあ……」
「おい」
「ごめんって」