転生(後編)
「鶴山 真水さんの面会ですね?少々お待ちください」
俺――一ノ瀬 有紀は真水が入院している病棟へと到着した。彼と再び会えることは嬉しいはずなのに、どこか会いたくない、逃げ出したいと思う自分もいる。
でも、この背筋を這うような恐ろしさ、後悔を乗り越えなければ俺は決してこれから先も逃げ続けるのだろう。だからこそ、目を逸らすわけには行かない。
看護師は真水を呼ぶべく、やや小走りで俺の視界から瞬く間に消えた。
だが、それもつかの間のことで、看護師は俺の元へと再び戻ってきた。
「申し訳ございません。鶴山さんは今は屋上庭園の方でゆっくりしたい、と仰られたのでそちらに居るそうです」
「あ、はい。わかりました。ありがとうございます」
心のどこかでホッとする自分がいた。覚悟の時間を引き延ばすことが出来たのだと、微かにそう感じている自分がいる。それを知った時、ああなんて自分は弱い人間なのだろうと思う。
強い人間だと、まるで機械的な人間だとさえ思っていた俺自身は、こんなにも人間的で弱い人間だったのだと自覚せざるを得なかった。
☆☆☆☆★
ここに来るのは三度目だ。
一回目は、女性となった俺が誰にも認められず、これから先の方針すら見いだせず、呆然としていた時。
二回目は、俺が退院先を見つけることが出来ず、船出 道音の提案に迷うように逃げ出した避難先として。
そして、今。俺は意地を張って傷つけた真水と向き合うため、ここにいる。
こうして振り返ると、俺にとっての屋上庭園は葛藤と戦うための場所だった。一人ではどうすることも出来ない問題に何度も直面した。
そして、その時はいつも道音が助けてくれた。
そして、どんな俺であっても真水は受け入れてくれた。だからこそ、俺はあいつらから受け取ったものに答えを返すべきだろう。
訪れた屋上庭園には、昼食前だからか殆ど人は居なかった。大抵の人は既に病棟へと戻っているのだろう。
ただ一人を除いて。
「……真水……」
車椅子に座った真水は、ただ黄昏れるように、空を眺めていた。その表情からは、ただどこか深い悲しみのようなものだけが伝わってきた。
その表情に、再び俺の胸は苦しくなる。逃げ出したくなって、目を逸らしたくなって、怖くて、足が震えて。……もう逃げ出したって誰も文句を言わないんじゃないかって。
――だからこそ、俺は逃げない。今逃げてしまったら、きっと俺は二度と真水に胸を張って友達だと言えなくなるからだ。
ゴクリと生唾を飲み込み、ゆっくりと彼との距離を縮めていく。
すると、真水も俺の存在に気がついたようだ。表情は強ばり、視線は左右へと泳ぐ。
「有紀……二度と顔を見たくない、って言ったよね……」
「……ああ、言ったな」
「僕は、親友としての君を喪いたくない。その意味も分かるよね?」
「そうだな、お前の俺に対する認識を、異性として塗り替えようとした」
「だったら、なんで……!なんで、僕にまた会いに来たの……!!」
「……」
真水の言うことは尤もだ。彼が俺を親友として、信頼を置いていることを知りながら、その信頼関係に自らヒビを入れるような事をした。
気がつけば真水は、溢れんばかりの涙を流していた。声は涙に震え、その手は怒りを堪えるように強く握りしめられている。
その彼の姿を、俺は真正面から逃げずに見つめ続ける。
「何か、何か言ってよ……。君は何で、僕に会いに来たんだって言ってるんだ!!」
悲痛にも似た叫びが彼が放つ言葉の一つ一つから溢れ出す。
もう、逃げることは出来ない。
「……悪かった。俺は、お前を守らなきゃ。ずっとそう思っていた。困難に直面したお前をどうすれば救い出せるのか。そればかり考えていた」
「……それでキスしようとしたの!?僕の心が君から離れないように縛るため!!ただ僕達の関係を男と女という形に置き換えるため!!」
「……そうだ」
「そんなの、って……あんまり、だよ……僕は君に、そういうものを望んでいないのに」
「ごめん」
「……謝る、くらいなら、最初からそんなこと、してほしく、なかった……」
真水はほとんど掠れた声で、涙と共に言葉を嗚咽を漏らす。
その彼の慟哭を、俺は黙って見ていることしか出来なかった。
いつしか、俺は頬に温かいものが流れていることに気がついた。それが涙だと気がついたのは、しばらく経った後だった。
「……俺は、お前のことを理解したつもりでいたんだ」
「……うん」
「真水は自分に課せられた困難を乗り越えられないから、俺が手を貸さないと駄目なんだって思ってた」
「……そっか」
「お前さ、前に俺に言ったよな。俺が女性になって、自由になったのか。それとも不自由になったのかって」
「言ったよ、君はいつまで経っても、自由のふりをした不自由な生き方しかしていなかったから」
空を見ると、そこには二羽の鳥が空を舞っていた。一羽が先導するように羽ばたき、もう一羽がその後に続くように羽ばたいていた。
「……真水の言うとおりだよ。俺は、常に強くあらなきゃ、常に相手を導く存在で居なきゃ、って思ってた。……だけど、ようやく分かったよ。俺自身だって、真水や道音。そして、その他の誰も彼もに助けられて生きていたんだ。自分が導かなければならない、って思い込んで行動を選択するのは確かに、行動を縛るという意味で不自由って言っても間違いはねえよな」
「うん、君はそういう所があるよね。自分の目的の為に進んで不自由に身を落とそうとするんだ」
「そうだな……俺は目的のためなら手段は選ばない。決してそれは悪いことでは無いんだろうが、その手段を間違えていたんだ。効率を重視しすぎて、本当に大切なものを見失っていた。その結果、俺は不自由に身を落としたんだよ」
「……今は違うの?」
真水は何か期待するように、俺を見る。俺は大きく深呼吸をした。
「……俺は、お前や道音がいないと、前に進むことが出来ない。俺が自由になるためには、お前も欠かせないんだ。どんな姿でも関係ない。俺が欲しいのは、お前らが居るという安心感なんだ」
「ありがとうね……僕は、その本心が聞きたかった」
ようやく、真水の堅くなっていた表情が砕けた気がした。
☆☆☆☆★
真水の座る車椅子を突いて、俺は病棟への帰路を辿る。慌ただしく動き回る医師や看護師の間を、俺たちはゆっくりと進んでいた。
その最中、何か思うことがあったのか彼は俺の方を横目で見やる。
「有紀、なんだか強くなったね」
「……?そうか?」
「何というか、生まれ変わったというか。いわゆる、転生みたいな感じかな」
「……転生?」
「そ、転生。生まれ変わりを通じて成長することだ……って話もあるみたいなんだけどね。まさしく今の有紀みたいだなあって思って。女性の姿へ生まれ変わって。沢山嫌な思いもして、それでも周りの助けを受けて乗り越えてさ」
確かに、そういう意味では俺は転生した――というか転性はしているのだが――、とでも言えるのかもしれない。
俺たちがそんな話をしている中、見知った男性の姿が視界の端へと映る。真水もそれに気がついたようで、声を掛けた。
「あ、柴崎先生。こんにちは」
「ああ、これは鶴山さん……と一ノ瀬さんですね。こんにちは、あれから体調はどうですか?」
そこに居たのは、柴崎医師であった。相変わらず額をボリボリと掻きながら、俺たちの方をジロジロと見比べていた。
業務上仕方の無いことなのだろうが、どうにもむずかゆい感触がする。
「いえ、特に身体の方は問題ないですね。あ、そうだ。最近ようやく両親と和解できましたよ」
以前から何度も両親との関係性の件で、柴崎医師には気に掛けて貰っていたため念のため報告する。すると彼は目を軽く見開いた。
「そうですか……!それは良かったです。では、次回受診の時に一度ご両親も交えて今後の話を致しましょうか」
「今後、の話ですか?」
俺は柴崎医師と真水を交互に見比べる。真水は話に割って入ることが出来ず、ただ呆然と柴崎医師の方を見ていた。
柴崎医師は頷き、言葉を続けた。
「一度、ご家族様にも治療の経緯は改めてお話しして置いた方が良いかと思いますので。そして、よろしければ丁度良い機会かと思いますので、一ノ瀬さんに生じている性別違和についてもお話しできたら、と」
続く