与えられたもの(後編)
それから、俺――一ノ瀬 有紀は両親へ俺が家を出てから起きたこと全てを話した。
その言葉の一つ一つを、両親は黙って聞いてくれた。
今までの経緯を話すにつれ、徐々に俺は自分の中で改めて今まで辿ってきた道のりを思い返していた。
俺が女性となることで、色々な人に世話になることが多かった。最初は誰も俺のことを信じてもらえず、不安だった。
必死に積み上げたものがたったカブトムシのツノを折っただけで、こんな簡単に崩れ落ちるなんて、思いもしなかったんだ。それからはどうすることも出来ず、ただ日々の不安に怯えるだけだった。俺はこれからどう生きていけばいいのだろう、どうすれば自分は報われるのだろう、とずっと不安だった。
今まで得た力や知識なんて何の役にも立たなくて、結局俺は無力だったんだ。俺が振るってきた力は、肝心なときに何の意味も見いだせなかったんだ。
あの日、屋上庭園で不良に絡まれて、俺はどうすることも出来ず泣くしか出来なくて。そんな時。
『……怖かったね。大丈夫?』
船出 道音が差し出した手のひらを思い出す。あの時、俺は力とか、知識とか、そんなものに頼らない強さがあることを知った。
自分一人じゃどうしようも無い困難は、いつか、やがて襲いかかる。その時差し伸べてくれる手があることが、どれだけ幸せなのか。一人で生きてきた俺には決して分かることは無かっただろう。
そうだ、俺はずっと俺一人の力で生きてきたと思っていた。他人に興味を示さなかったのもそれが関係しているかも知れない。だって、他人の力が無くても俺一人でどうにかなってしまうから。
彼女は俺の荒唐無稽な、現実離れした話でさえも信じてくれた。それどころか、俺の不安が募りに募って、遂に堪えきれず爆発したときでさえ、彼女は俺を受け入れてくれたのだ。
『だって、私はあなたの専門家でいたいんだから』
……専門家、か。変わった表現方法だとは思う。だが、間違っているとは思わない。
好きと、理解はかなり似ていると思う。どれだけ相手のことを知りたいか、どれだけ相手のことを十分に理解できるのか。そして、どれだけ事実を受け入れることが出来るのか。
俺が理解できていないだけで沢山の葛藤があったのだろう。その時でさえも、俺は俺自身のことしか見えていなかった。
だが、彼女は俺のことを沢山気遣ってくれた。あろうことか、「私の家を使っていい」とまで受け入れてくれたのだ。
男性の思考回路を持つ俺を受け入れるのには、ただ心配だから、という理由だけで出来るのだろうか。
……今になって思えば相当な葛藤や覚悟もあったと思う。それでも、彼女は対等であることを止めなかった。
生理で苦しんだときでさえ、彼女は俺の苦痛が軽減するようにあれやこれやと工夫をして、対処をしてくれた。その事にも感謝の気持ちはあったけれど、俺は正直「女性の身体なんてろくな事が無い」とさえ心のどこかで思っていた。
明言はしなかったが、男性に戻りたいと思った経緯の一つでもあった。真水に女性の姿で会いたくない、というのも事実だ。だが、それ以上に俺は女性でいることに苦痛さえ感じていたのだ。
しかし、ツノが無くても懸命に戦うカブトムシを見た時のことだ。
もはやメスと変わらない姿で、オスのカブトムシに立ち向かうその姿は、男子だとか女子だとか、そう言うものが関係ないのだと言っている気がした。
その日から俺は、何か大切なことを考えなければいけない気がした。自分の性別にこだわる前に、自分が何かに気付かなければならないのではないか。と。
しかし、結局それに俺は気付くことは出来なかった。
唯一無二の親友である、鶴山 真水の心を俺は男女の関係という呪いで縛ろうとしたんだ。
俺は、女性という姿を道具として使おうとしたんだ。
その行動の末路は、結局真水が大切にしていた親友としての俺自身を喪う、というものだった。
道音は今まで何度も俺にヒントを与えていたんだと思う。俺にないものを、必死に与えようとしていた。なのに。
そんなどうしようもない俺に最後のヒントとしてくれた、一通の手紙。
最後まで、両親は俺の話す無いように口を挟まなかった。全てを話し終えたとき、お袋はゆっくりと口を開く。
「有紀。カブトムシの強さって、ツノの長さだけで決まると思う?」
「……え?どういうことだ?」
お袋は、言葉を続けた。ゆっくりと、諭すように。
「確かに、長いツノを持つこと、相手の身体にツノを差し込むのも強さの一つだよ。でも、色々な視点で見て。堅い甲殻、木にしっかりとしがみ付く足。そして、自分よりも巨大な体を持っている相手にも怖じ気づかない胆力。ただ、強さって一つの面だけで決まらないんだよ」
「強さは、一つの要素だけでは決まらない……」
「そう。色々と有紀を助けてくれた、船出さん?だっけ。その子も有紀が持たない強さを一杯持ってると思う。私も女だから分かるよ、彼女は本当に有紀のことが大好きだから、有紀に辛い思いをしてほしくないんだよ」
「……」
そう言ってお袋はちらりと親父の方を見る。親父はどこかばつの悪い顔で明後日の方を見ていた。
「お父さんも、正直頼りないところはあるよ。それでもこの日まで一緒に居たのは、それだけ頼れるところがあったから。有紀は家に居る姿しか知らないだろうけど、お父さんはお父さんで知らない強さを持っているんだ。そして、それを見出すのは私にしか出来ないの」
「か、母さん……なんだか恥ずかしいからやめろよ」
親父は焦った様子で母親を制止する。だが、お袋はまるで聞いては居なかった。
「有紀がそれに気がつけなかったのは私がそれを十分に伝えられていなかったからよね。それはごめんなさい。だから、分かっている言葉かもしれないけど、改めて言わせて」
お袋は俺の目を真剣に見る。なんだか、息が詰まりそうな気分にさえ思うが、俺はその目を逸らすことが出来なかった。
続く言葉を、絶対に聞きのがすまいと、神経が研ぎ澄まされる。周りの環境音が遠ざかる。そんな中、母親の言葉は俺の心へ染み渡る。
「有紀。あなたは一人で生きているんじゃない。みんなの支えがあって、一ノ瀬 有紀は生きているの」
☆☆☆☆★
その日の晩。俺は自室のベッドの上で大の字になり天井を眺めていた。
お袋の言葉が、脳裏に反響する。全身の、手の先まで十分に染み渡る。
――一人で生きているんじゃない、か。そう言えば、俺はいつも自分自身で何かを解決しようとしていた。脳裏に強迫性自己依存、という言葉が思い出される。
自分自身で何でも解決をしようとすることを表す言葉だ。何となくインターネット上に流れてきた単語だったが、それはどこか俺の記憶から抜け落ちることは無かった。俺に当てはまるんじゃないか、と心の内で思っていたからなのだろう。
解決能力は確かに重要だ。しかし、それと同じく、他人を頼る力ももっと大切だったのだ。
俺は他人を理解しようとはしていなかった。俺は俺自身のためだけに選択し、行動していたのだ。そこに他者理解というものが必要だとは思わなかった。
自分一人が強くあれば良い。強く、ただ俺自身の問題も全て自分で解決するのだと。
でも、現実はそう上手くはいかなかった。結局、俺は女性になってから起きた問題解決は全て周りの人の力があったから解決できたことばかりで。俺は一体、今の身体で何を与えられたのだろうか、とどこか劣等感にも似た感情があった。
そんな俺にとって、お袋からの言葉はとても心に染みるものがあった。
ふと、ぐるりと自分の部屋を見渡す。道音の部屋ほど整理整頓はされていないが、それなりに導線が確保された俺の部屋だ。
「俺は、皆から与えられたもので今ここに居るんだ……。皆から支えられて、助けられて、俺は今、一ノ瀬 有紀はここにいるんだって感じることが出来ているんだな……」
どこか、俺が求めていた大切なものが見えた気がした。
続く