与えられたもの(前編)
一ノ瀬 有紀様
お手紙拝見致しました。
確かに、筆跡は私達のよく知る有紀本人のものであり、内容としても本人と遜色ないものです。
ですが、改めて私達からも謝らせてください。あの土砂崩れがあり、有紀が入院した日。私達は気が動転しており、見た目が変わってしまった有紀を有紀自身だと認めることが出来ませんでした。
そのため、貴方にとても辛い思いをさせてしまった。退院の時まで、貴方を有紀だと認められず、今この手紙を受け取った時点でやっと有紀を有紀だと受け入れてみようと思った次第です。
もし、よろしければ一度実家に帰ってきませんか。積もる話も多いと思いますので、これまで有紀が辿ってきた話をお聞かせください。
よろしくお願い致します。
一ノ瀬 登美子
一ノ瀬 和義 より
「……お袋、親父……」
俺が前に両親へと送った手紙の返信が、そこには記されていた。両親の後悔、覚悟、そして苦渋の決断というのが伝わってくる。
つい手に力が入ってしまい、手紙にシワが付いてしまった。その様子を見た船出 道音は、温かい微笑みを俺へと向けた。
「申し訳ないとは思ったけど、手紙の内容は先に読ませて貰ったよ。本当に、良い両親だね」
「……ああ」
「どうする?先輩。これまで色んな事あったし、一回両親に話をしてみるのも良いのかな、って思うよ」
道音の意見は尤もだと分かっている。ただ、それには一つ心残りが明確に残っていた。
「で、でも、真水と仲直りしなきゃ……」
「だ、か、ら……一回それも含めて両親に相談してみようよ?今の先輩のままだと、もし仲直りしたとしても、また同じ事を繰り返すよ?」
「……」
言い返すことが出来なかった。
――そう言えば、幼い頃に一回だけ、今回ほどでは無いが鶴山 真水と喧嘩したことがあったのを思い出す。
あの頃は、公に勉強していると言うことを知られるのがかっこ悪いと思っていた時だった。机の中に勉強しているノートを誰にも見られないように隠していた。それを真水に見つかり、バレたことから恥ずかしくなって、あいつと距離を取るようになったんだ。
そして、真水にもしかしたら俺が勉強家だって皆にチクられるんじゃないか、皆からそのことでからかわれるようになるんじゃないか、ってしばらく真水のことを警戒するように遠ざけていたんだけど。
どれだけ経っても、俺が勉強を隠れてしているという話を聞くことが無かった。だから、俺はわざと帰る時間を遅らせて、真水と二人になる時間を作ったのだ。「あのノートのことを誰にも言ってないだろうな?」と確認を取るために。
すると、あいつは何を言ってるの、と言わないばかりにキョトンとした顔で「え?う、うん、言ってないよ」だなんて答えるのだ。まるでわざわざ言う必要があるか、と言わんばかりに。
そう思うと、なんだか俺がうだうだと悩んでいたのが馬鹿らしくなって。一応、真水には「二人だけの秘密だ」って言ったけど。本当はそんなことどうでも良かった。
あいつと居ると、俺は自分がありのままの姿で居られる気がした。
でも、今回の喧嘩は前の頃とは違う。俺がまた余計な意地を張ったせいで、真水の心に大きな傷を与えたことは明確だった。
だから、道音の正論に何一つ言い返すことが出来ず、だんまりを決め込むしか無い。
『今の先輩のままだと』……確かに、俺は何か大きな見落としをしているのだろう。ただ、「意地を張っている」以外の大きな何かが、俺を覆っている。
それは女性になっても何一つ変わっていない。それどころか、女性という立場を手段に使い始めている自分がいることが愚かだと思う。
「……分かった」
「うん。家に帰るまでの道は付いていかなくて大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
そして、軽く身支度をしてから道音のマンションから旅立つことにした。とっても、永遠の別れというわけでは無い。ただ、本来帰るべき家にようやく帰ることが出来るだけだ。
「本当にありがとう。色々と世話になった」
俺が深々と礼をして頭を上げる。すると、道音はどこか不満そうに頬を膨らませていた。
そして、そのまま俺の額へとデコピンを喰らわせた。
「いだっ!!……な、何するんだよ」
「先輩も大概、悪い癖持ってるよね。他人からの評価を気にしてばっかりで。……あんまり周りの評価に流されちゃ駄目だよ」
その言葉は、いつか道音に送った言葉そのものだった。
そうか、俺も真水や道音に、どう思われているか。そればかり考えて行動をしていたんだな、と思う。いつの間にかその言葉はブーメランのように深々と俺自身の心へと突き刺さる。
「……そうだな。それじゃあ、行ってくるよ」
「うん、気をつけてね」
☆☆☆★☆
見慣れた駅のはずなのに、どこか懐かしさを感じる。
見慣れた住宅街のはずなのに、まるで真新しさを感じる。
見慣れた公道のはずなのに、全て新しい店に入れ替わったかのような新鮮さを感じる。
そうか、俺は久々に実家に帰ってきたんだよな、と徐々に実感し始めた。わずか一週間足らずの事なのに、まるで遠い昔のように感じる。
本当に両親は俺を迎え入れてくれるのだろうか。この一ノ瀬 有紀という思考を持った、テセウスの船と化した女性の姿を持つ俺を。
恐る恐る、インターホンを押す。ピンポーンと心地よい高音が、辺り一帯に反響する。やがて向こうからバタバタと足音が近づき、そしてドアの鍵が開かれた。
ドアの先に立っていたのは、お袋だった。俺の姿を見た瞬間、突如として目に涙が溢れ出す。そして、靴の踵を潰しているのも構わず俺の元へと駆けつけ、そして強く抱きしめられた。
「有紀……!!本当に、有紀なんだよね……ごめん、ごめん、本当に辛い思いをさせてごめんね……!!」
「……お袋」
俺は、棒立ちのまま母親の抱擁を受け入れていた。心の奥底から何か熱いものがこみ上げる。気がつけば、俺の両目にも涙が滲んでいた。
当たり前だと思っていたその温もりが、本当は当たり前じゃ無かった。散々自分の存在を否定されているようで、自分とは何かを常に問い続けてきたけれど。
俺という不安定な存在を、この温もりが認めてくれるような気がしていた。今はこれで、これだけでいいのだと。
玄関の奥から、ゆっくりと親父の姿も見える。どこか、目元がやつれてクマができていた。
「有紀……お前は、有紀なんだよな?」
「ああ、俺だよ。親父……ただいま」
その俺の言葉を聞いた親父は、目頭を摘まむように上を向く。隠しきれない涙が親父の頬から流れ始めていた。
「そうか……この間は、本当に悪かったな……大丈夫だ。お前は、間違いなく俺たちの子だ……」
「……親父……」
そこに、男だとか、女だとか関係は無かった。ただ一人、俺はようやく、一ノ瀬 有紀として認められた気がした。
積もる話は沢山合った。
けれど、俺はまず、この家の空間に帰ってきたことが嬉しくて、思わずソファに飛び込んだ。
「久々に帰ってきたー!!」
ソファに顔を埋めながら、足をバタバタとさせる。その様子は子供のそれを彷彿とさせるが、両親の前で何も今更隠すものでも無かった。
今まで抑圧されていた何かを思いきり解放するかのように、俺は思いっきり感情を放出させる。
「有紀、なんか幼くなったみたいだね」
「まあ良いじゃないか母さん。折角家に戻れて嬉しいんだろう」
「まあ、それもそうね」
お袋は俺の様子を見て、温かい眼差しで優しく微笑む。その様子に調子を良くした俺は、無邪気にソファの上でゴロゴロと転がった。
その様子を見て、母親は目をつり上がらせる。
「あ、有紀!まだ手を洗ってないでしょ!ゴロゴロするのも良いけど早く手を洗っちゃいなさい」
「えぇー、もう少しだけソファの感触を堪能させてー」
「駄目、ソファが汚くなるでしょ?ほら、後でいくらでもくつろげるんだから」
「はぁい……」
お袋に言われるがまま、俺は大人しく洗面台に立って手を洗う。なんだか、その一連のやりとりすら愛おしく感じていた。
洗面台で手と顔を洗って、タオルで顔を拭う。そこには、変わらずも女性としての俺自身が映っている。
「……おかえり、自分」
見慣れた鏡に映る、見慣れない女性の姿。日常の欠片に映る非日常を、俺は心のどこかで受け入れ始めていた。
リビングへ戻ると、そこには当たり前の日常が広がっていた。母親がキッチンに立って、父親がソファでくつろぎながらテレビを付けながら新聞を読んでいる。
それは今まで何気なく見てきた光景だった。生まれてきてからずっと、毎朝、毎日見てきた光景だったのに、もはや遠い昔見た思い出の再現のようだった。
俺は、追憶を辿るように、親父の横へと座る。親父はなんてことの無いようにチラリと俺を一瞥し、再び新聞へと目を移した。
「なあ親父……俺結構大変だったんだぜ」
「だろうなあ。母さんを見てると女性って大変だよなあ、って思うことばかりだぞ?よく工事に来た業者からは女だからって舐められるから基本俺が対応したりな。あ、あと変な押し売りも母さんしか居ない時が多い」
「……やっぱり女性って不便なことも多いんだな」
「俺はよく仕事で居ないことが多いからな、母さんには散々不便を掛けた。だがな?そんな俺にずっと母さんが付いてきてくれたことには感謝してるんだ」
「親父……」
ふとキッチンの方に立つ母親を見ると、わざとらしく目を逸らした。しかし、その口角は上がっており、どこか幸せそうだった。
俺は次にお袋に声を掛ける。
「お袋は……、親父と結婚して良かったって事あるか?」
「え?私?そうねぇ……やっぱり、誠実に向き合ってくれる、ってことかねぇ。私を女性だから守らなきゃいけない、とかそういうのじゃないんだよ。私を一個人だって尊重して、私のやりたいこと、貫きたい意志を叶えるように動いてくれる」
「意思の尊重?」
「そう。私個人の意思を尊重してくれるの。それが完璧に理解してくれている訳ではないと思うけど、理解しようとしてくれる。それだけで良いのよ」
どこか、その両親の言葉が胸の奥深くへ刺さるのを感じた。俺は今まで、自分は一方的に与える側で、他人を完全に理解しようと動いてきたことがあっただろうか。
今まで男性として、何かを与えることが大切なのだと思っていた。ただ、俺は他人を守る力があればそれでいいのだと。だが、女性の身体となり、力で他人を守る能力を失った時、俺は自分の価値を完全に失ったものだと思っていた。
力の無い自分になんて価値はないのだと、そう心から思い込んでいた。
だけど、そんな俺のことを信じてくれる人はいた。
船出 道音。
鶴山 真水。
そして、お袋、親父。
自分を信じてくれる人の存在が、どれほど貴重な存在なのか。俺は痛いほど思い知ったのだった。
「なあ、お袋、親父」
「どうしたの、有紀?」
お袋は俺の方をまじまじと見る。ただ、俺を信じてくれる人に、俺が今まで歩んできた経路を聞いて欲しかった。
「後で俺が女性になってからどんな道を辿ってきたのか、話がしたい」
☆☆☆★☆
「そう言えば、捜索願ってどうしたんだ?」
俺が首をかしげると、お袋は笑って答える。
「ああ、あれねぇ。おまわりさんとこ行って、本人見つかったから大丈夫だって言って取り下げて貰ったよ。最初お父さんが言ったんだけど、捜索願出した本人じゃ無いと駄目なんだってねえ」
お袋はあっけらかんとして笑う。何気なく語っているが、その一連の経緯の中にはかなりの葛藤があったのだろう、と心の片隅で感じていた。
「……それって、いつやってきたの?」
「ああ、有紀からの手紙が届いて直ぐだよ。何度も見てきた筆跡だからねえ、今更間違いようがないしね」
「……そうか」
「それより、有紀って女の子になっちゃってから色々大変だったんじゃ無いの?」
「そうなんだ、色々と積もる話が多くて、だからこそ聞いて欲しいんだ」
続く
最終話も近いですが、もうしばらくお付き合い願います。