[番外編]僕自身の傷への責任
一ノ瀬 有紀の親友。
鶴山 真水視点の番外編です。
昔、両親が離婚した。不仲だとか、何か浮気だとか、そんなのではないけれど。
お父さんが、突然「一人旅に出たい」なんて言って、あっという間に家を出て行ってしまったんだ。
当然、お母さんは凄く怒っていた。僕も、子供ながらになんて薄情な父親なんだと思ったよ。でも、心のどこかで自由で羨ましいな、とも思ってた。
広辞苑で自由について調べると、「心のままであること、思う通り。自在。古くは勝手気ままの意に用いた」だなんて書いてる。
まさしく、僕……鶴山 真水のお父さんそのものだと思う。
家庭という一つのしがらみを捨てて、自分の本心のまま、勝手気ままに行動する姿は自由のそのものだ。
僕は、心のどこかでその姿に憧れていた。
小学校の頃は、僕は教室の隅の方で黙々と本を読むような、いわゆる日陰者とでも表現するのが適切な人間だった。
みんな運動場に出かけて、わいわいとボール遊びを楽しんでいたけれど、僕はなんだかそういう気分にはなれなかった。というよりも、馴染むための勇気が無かったんだと思う。
そんな僕に手を差し伸べてきた人間がいた。一ノ瀬 有紀だ。彼は、誰も見捨てない少年だった。教室の角でまるで亡霊か何かのように姿を隠していた僕にも平等に手を差し伸べてくれる人だった。
「たまには一緒に遊ぼうぜ!」だなんて、何も打算の無い無邪気な顔で僕の手を引く。その姿がかなり眩しくて。彼は僕にとっての太陽のような存在だった。
そして、彼は友達と遊んでばっかりで、勉強をしている所なんて見たことが無い。話す内容はやれ最近出たゲームがどうとか、このキャラクターが強いとか、この漫画が、とかその辺りに居るやんちゃ坊主と何も変わらなかった。
だけど、彼は毎回テストで何事もないかのように、満点を取るのだ。
この世には残酷ながらにも天才はいるのだろう、と幼いながらにそう思っていたのを覚えている。
しかし、ある日のこと。
丁度その日は雨だった。僕は傘を忘れて、呆然と教室の窓から外を眺めていた。
お母さんは、かなり大きな企業で営業をしているバリバリのキャリアウーマン、ってものでいつもどこかに出張に行っているから、家に帰ってくることは無い。
おじいちゃんは僕が生まれたときには既にお空の果てで、おばあちゃんも足が悪くてそう動けない。だから、僕を迎えに来てくれる人は居なくて、ただ雨が止むのを待つしか無かった。
教室で一人、本を読んでいると突然ガササ、と何かが崩れる音がしてびっくりした。その方向を見たら、机の中に詰め込まれた大量のノートが自重に耐えきれず限界を迎えたのだろう。落ちたノートの内の一冊を手に取ると、「5-2 一ノ瀬 有紀」と書かれていた。
どうせ落書きか何か書いているのだろう。
本人には悪いと思ったが、興味本位が打ち勝ち、こっそりとノートを開くことにした。ただ、そこには予想だにもしなかったものがあった。
びっしりと授業で習った内容を何回も、まるで呪詛か何かのように書き記していたのだ。
筆圧でノートはよれよれに歪み、書くスペースが無くなったのか、所々枠外にも文字を書き殴っている。思わずその部分に触れてしまい、黒いシミをノートに作ってしまった。
その時、「やっべ、忘れ物した!!」と駆け足で有紀が教室に入ってきた。やばい、と身体が硬直する。彼は僕がノートを持っているのに気づき、顔をあっという間に赤くした。
「……返せ!!」と乱暴にノートをひったくられる。
思わずその反動で手が痛んだが、そんなことよりも僕は聞かずには居られなかった。
「ねえ、有紀」
「なんだよ!!」
「……そんなに、こっそりと勉強を頑張ることって、意味あるの?」
「はぁ?……お前には関係ないだろ!!」
有紀は顔を真っ赤にして、逃げるように教室を後にした。
彼には彼なりに譲れないものがあるのだと、今になって思うが、あの時は本当に訳が分からなかった。なんで自分から、自由になったフリをして、不自由に手を染めるのだろう。と思っていた。
ふと手を見たら、移った字が僕の手を汚していた。
この日は結局雨は降り止まなくて、濡れるのを諦めて走って帰った。
その次の日から、どこか有紀の僕に対する態度が、どこかよそよそしいものになっていた。何気ない興味本位が彼を傷つけてしまったのだと思うと、申し訳ない気持ちになった。
それがしばらく続いたある日。また放課後でたまたま、僕と有紀しか居ない時間があった。
あの日のことを謝るのなら今しか無いと思って、僕は有紀に話し掛けようとする。だが、それより先に有紀が僕へと話し掛けてきた。
「なあ、真水。……お前あのノートのこと誰にも言ってないだろうな?」
「え?う、うん、言ってないよ」
「じゃあ良いんだけど。……俺とお前だけの秘密な?絶対誰にも言うなよ」
二人だけの秘密。その言葉に、まるで極秘任務でもうけたスパイのような気持ちになって、思わず心躍ったのを覚えている。
「うん、有紀が頑張り屋さんなのは秘密にしておくよ!」
「ばか、声でけえって!!」
あの日から、僕と有紀は、仲直りするどころかより親しい仲へとなっていた。多分だけど、有紀も自分の弱いところを気にせず見せることの出来る相手を探していたのかも知れない……あくまでも僕の予想だけど。
時々一緒に馬鹿みたいに遊んで、馬鹿みたいに怒られて、そんな毎日が楽しかった。
ただ、長く付き合うにつれて徐々に分かってきたことだけど。有紀は努力家なのは分かるが、それ以上にかなり彼は心配性だった。
中学校の頃は有紀に誘われて一緒にバレー部に入った。彼は勿論というか、運動神経が抜群だったためあっという間にエース級まで上り詰めたのだが、ことあるごとに、
「なあ真水、今のシュート真っ直ぐ飛んでたよな?」
「ここの練習コースってもう少し効率よく出来るだろうか?」
「なあ、最近船出っていう後輩があんまり元気が無いみたいなんだけど。俺に対して苦手意識を持ってるみたいでさ。こっそり事情を探ってくれないか?」
「俺、ちゃんと先輩出来てるんだろうか……」
等々、不安を吐露することが多かった。自分の努力の方向性が正しいのか、自分が目指している方向はぶれていないか、定期的に確認をしているようだった。
その有紀の様子を見る度、彼は外面だけの自由で生きている気がしていた。ただ他人からの目線だけを気にして、自分自身のことには殆ど興味を持とうとしない。きっと、それを僕が指摘したとして、彼は認めることは無いだろうと思っていたし、彼はそれでも自分の行く道を変えようとはしないと言うことは分かっていたから何も言わなかった。
だから、船出 道音さんが有紀を好いてくれている、と知った時は正直自分のことのように嬉しかった。少しでも、彼の心の壁を壊すことが出来ればいいな、と思っていたからだ。
だが、結局彼女のそんな思いも虚しく、有紀は「恋愛に興味が無い」とバッサリと断った。それ以降も諦めることも無く、彼を好いてくれているのが唯一の救いなんだけどね。
……有紀はよく、「興味が無い」という言葉を口癖のように言う。恋愛に、見知らぬ他人に、ほとんど関心を持たず、自分が正しいと思うことにしか焦点を合わせない。その何かに追われた生き方をしている彼を尊敬はしていたが、どこか不安も感じていた。
だから、僕は有紀に自由に楽しむと言うことをどうにか体験させようと模索していた。そんな時に見つけたのが「金色のカブトムシ」の記事だ。
馬鹿みたいなオカルト、というかネタの域を出ないような話だったけど、僕は「これは丁度良いな」と思っていた。だから、あの日僕は彼を誘ったんだ。少しでも、息抜きを覚えることが出来たら、って。
でも結局、その僕の願いは叶うことは無かった。
あの土砂崩れの一件だ。
土砂崩れに巻き込まれているときは、痛いとか苦しいとか、ごちゃごちゃして何が何だか分からない世界のまま、意識がブラックアウトした。
僕はそれからしばらく、真っ暗な部屋をずっと歩いているような、空白の時間の中に居た。誰も居なくて、何の音も届かない、虚無の部屋だ。何処を歩いても誰にも出会うことは無くて、誰も僕を見つけられない。
僕はここに居るよ!!と大声で叫ぼうとしても、口が動くだけでその声帯から声は出なかった。
そんな悪夢がどれくらい続いただろう。
気がつけば、僕の意識は病院の中に帰ってきた。腕から血管を介して冷たい液が流れ込んでくる感覚、呼吸をする度に肺をこじ開けるように一気に空気が流れ込む感覚、また身体のあちこちに感じる異物感。
それらの情報が一望の中に流れ込む。看護師は、僕の目が開いたのを認識して、直ぐに僕の方へと声を掛ける。
「鶴山さん、聞こえますか?」
「……!」
声を出そうとするのだが、思うように声が出せない。ただ目線のみしか動かすことが出来ず、状況判断が出来ない。
横たわった僕の視線では殆ど天井しか見えず、まるで悪霊が取り憑いたような不快感が身体の中をぐるぐると巡る。
看護師はバタバタと僕を置いて部屋を後にした。その後しばらくして、医師が僕の元へとやってきた。
「鶴山さん、分かりますか?あなたは土砂崩れに巻き込まれて、今は病院に居ます。そして、肺や肝臓に穴が開いているため管を通して身体の中に溜まった血液などを取り出している状態です。一時期は生命に危険が及んでいる状態でしたが、徐々に状態は安定してきています。順調な経過を辿れば、身体に入った管も抜くことが出来るでしょう」
などと矢継ぎ早に、医師より説明がされた。僕は今の自分の状態よりも気がかりなことがあった。
十分に機能していない声帯を無理矢理駆使して、声をひねり出す。
「ぼ、くの、ほか……に、だ、れかお、とこの、ひと、いま、せんでした……か……」
そう尋ねると、医師は首を横に振る。
「あの土砂崩れにより救助されたのは、鶴山さんを除いては、女性一人が救助されています。以前あなたの元へと面会に来ていた様子ですが……」
「……」
僕の他に救助されたのは、女性一人。その人が僕にどのような関係があって、面会に来たのかは分からないが恐ろしい考えが脳裏を過る。
一ノ瀬 有紀はまだ救助されていない。
その事を考えると身体の中を、おぞましい蟲が這うような不快感がこみ上げてきた。薄ら寒い恐怖が、背筋を伝う。
恐怖が、絶望が、そして後悔が僕の思考を覆っていく。
僕があの時、「金色のカブトムシを探しに行こう」だなんて言わなければ……。そう思うと、何故僕だけ救助されたのだと思わずには居られなかった。
そして、その日の内に呼吸状態が安定しているとのことから、人工呼吸器を外され経鼻での酸素流量に変更となった。
久々に口元が解放された感覚にどこかすっきりしたものを感じた。今後は食事とリハビリを徐々に再開して、元の生活へ戻れるようにしていくとのことだ。
大切な友達を喪った今、僕の何処に元の生活があるのだろうか、と思わずには居られなかった。そして、もう一つ。僕には元の生活へ戻れないのだろうと思う要因があった。
「鶴山さんは、脊髄を損傷したことにより、足が動かしにくくなっているようです。リハビリ次第では歩けるようになることもありますが、当面は自身で歩行することは困難でしょう」
と医師は淡々と言った。向こうからすれば、ただ事実を伝えるだけかも知れないが、度重なるショックの重なる僕にとってはその脳内を掻き乱すような情報を処理しきれなかった。
堪えきれない感情は、やがて涙へと転換された。如何することも出来ない辛さが、涙になり布団を濡らしていく。
そんな僕の所へと、誰かが近づく足音が聞こえた。僕は、思わずその方向へと振り向く。
「鶴山先輩……?」
「……船出さん」
そこには、船出 道音さんが立っていた。彼女は心配そうな、心苦しそうな表情で僕を見る。
「大丈夫、ですか?」
「あ……あはは、恥ずかしいところを見られちゃったね、ごめん。大丈夫……」
「大丈夫じゃ無いですよね?何でそんなに強がるんですか?先輩と言い、全く……」
彼女は呆れたように、小さくため息をつく。
……『先輩といい』……?
「船出さん、待って!!有紀は生きてるの!?一体、どうしてい……ぅ……!!」
まだ呼吸機能も万全では無いと言うことも忘れ、僕は思わず声を荒げてしまった。急に気管が詰まったように息苦しくなり、モニターからは酸素飽和度が低下したアラームが鳴り響く。
看護師が慌てた様子でやってきて、ゆっくりと深呼吸をするように、と促され僕はそれに従う。しばらくすると、息苦しさは徐々に消えた。
不安そうに僕を見つめる船出さんに向けて、なるべく落ち着くことを意識しながら言葉を続ける。
「っ……はぁ。ごめん。有紀はまだ土砂崩れから見つかってない、って聞いたけど……」
「はい。落ち着いて聞いてくださいね?確かに、男の、一ノ瀬 有紀先輩は見つかっていません。そして、これから先も、見つかることは無いと思います」
「……どういうこと?」何故わざわざ性別を強調するのだろう。彼は誰がどう見ても、男性だ。
彼女も、「まあ百聞は一見にしかず、だよね」と何処か自己完結したようにポケットからスマホを取り出す。そして、カメラロールから一枚の写真を僕へと突きつけた。
そこに写っていたのは、栗色のセミロングの可憐な少女だった。ぐっすりと身体を丸めて眠っているようだが、その姿はまるでアイドルの写真のように様になっている。
だが、それがなんだというのだろう。
「……これ、どこかのアイドルの写真か何か?見せる画像間違えてない?」
彼女は一度スマホの画面を確認してから、もう一度僕へと向き直る。
「間違えてないですよ。だって、これは一ノ瀬先輩なんですから」
「……は?」
何を言っているのか分からず、僕は素っ頓狂な声を上げた。先ほどの一件が無ければ、僕はこのタイミングで呼吸困難になっていただろう。
彼女の言葉は理解できる。彼女の示した画像の内容も分かる。
ただ、それでも何を言っているのか分からない。
「あのさ、さすがの僕も怒るよ?悪ふざけが過ぎる……」
船出さんは僕をからかっているのだろうか、と思うとふつふつと湧き起こるような怒りを微かに自身の内に感じ取る。だが、船出さんは至って表情を崩さず僕を見つめ続けた。
その表情を見て、決してからかっているわけでは無いのだと悟る。
「……本当なんだね?」
「はい。ただ、先輩は自分が女性の姿になっていることを鶴山先輩に知られることを望んでいないようなのです」
「だったら、何で見せちゃったの?」
「一ノ瀬先輩は、鶴山先輩に自分を認識してもらえない、ということに酷く怯えています。そのためだけに男性に戻りたいと悩むほどに。だから、これは私のわがままなんです」
「……」
船出さんは、深々と僕に頭を下げた。
「お願いします、鶴山先輩。なるべく自然に、一ノ瀬先輩の事を一ノ瀬先輩だって認めてあげてくれないでしょうか……」
「……つまり、僕に嘘の加担をしろ、ということだね……」
「……はい」
彼女は、誤魔化すこと無く目を見て答える。その双眸には涙が光に照らされていた。
彼女の提案を受け入れれば、きっと有紀は傷つかず、嘘の世界で心の安寧を保てるのだろう。だが、本当にそれが正しいのだろうか、正義との狭間で葛藤する自分がいた。
彼の心が自由であるために、僕は己を傷つける。なんて彼女は残酷な提案を示したのだろうか。
だが、僕も彼女も、共に一ノ瀬 有紀の事を想う気持ちは同じなのだ。だから。
「……わかった」
僕は、僕自身の傷への責任を負うのだ。
また、船出さんが帰ってから何時間か経った後のことだ。
しばらくしてお母さんも仕事が一段落したのか、面会に来た。慌てた様子で髪の毛もまともにセッティングしていない状態でだ。
目元は涙で潤み、走ってきたのか呼吸は酷く乱れている。時折会うお母さんは、いつも格好良くメイクをしている姿しか見なかったものだから、僕からしてもそう見ることの無い母の姿だった。
「真水!!ごめんね!!仕事でずっと会えなくて、寂しかったよね、ごめんね、ごめんね……!!」
僕の顔を見るなり、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくり僕の元へと飛び込んできた。ふんわりと香水の匂いの中に、僕は母の匂いを感じ取っていた。
香水よりも化粧品の匂いよりも、どこか安心できる匂いがそこにはあった。お母さんは僕に抱きつくように身体を埋め、嗚咽を漏らす。
「先生に聞いた……!真水、足に力が入りにくくなったんだって……!ごめん、本当にごめん。もっと一緒に居れば良かった。もっと仕事の時間を減らしてでも真水と一緒に居る時間を作るべきだったのに、こんなことになるまで気がつかなくてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
「……お母さん、僕こそごめんね」
気がつけば、僕の視界はぼやけていた。それが涙によるものだと気がつくまで時間が掛かってしまった。
「真水は悪くないのよ、原因はお母さんが」
「ううん、僕も悪かったんだ。ずっと、僕が我慢をすれば済む話だと思っていたから。一人で解決しようとしていたから。本当は寂しいんだって、最初から伝えたら良かったんだ……」
「……真水にそう思わせてしまったのは、やっぱりお母さんね。大丈夫、仕事は辞めて家に居るようにするから」
母のその言葉に僕は、思わず目を見開いた。
「えっ、今まで頑張ってきたんでしょ?自分の描きたい未来を自由に描けるこの仕事に誇りを持ってるんだ、っていつも言っていたじゃん!?それが何で……」
「いいえ、真水。何かを守る為には自由を捨てることも大事なの。私は、自由のために家庭を疎かにしていた……」
「……」
「蓄えはたくさんある。それにこのご時世ならテレワークとか、フリーで活動することも出来る。生活に支障は出ないようにする、だから私は真水と一緒に居たいの……!!」
「……母さん」
母の切実なその言葉に僕は胸打たれていた。その決断は、母からすれば苦渋のものだったはずだ。
その言葉は嬉しかったけれど、自由を求めてきた僕にとってはどこか悲しくもあった。僕の足が機能しなくなることによって、誰かが自分の人生を制限せざるを得なくなる、と言うことを心苦しく感じる。
僕を守る為に自由を捨てる。不自由になった僕の手となり、足となるため、母自らも自身を不自由の身へと墜ちるというのか。
それが、例え母親だったとしても、僕はそれが心のどこかで許せずに居た。
★★★★★
今日はまた、船出さんが面会に訪れていた。
ただ、今日は何処か落ち着かないというか、不自然までに明るい笑みを浮かべていた。
どこかに目配せするように、ちらりと僕とは異なる方向を見ていた。
誰を見ているのか、おおよそ見当は付いていた。……そうか、そこに有紀が居るんだね。女性の身体へと変わった一ノ瀬 有紀が。
「こんにちは、鶴山先輩!また様子を見に来ましたが、様子はどうですか?」
「ああ、船出さん。いつもありがとうね?……でも、今日も有紀は来てないの?本当に重症とかじゃ無いんだよね?」
わざとらしく、有紀の話を振ってみる。ほんとうはそこに居るはずなんだと分かっている。けれど、あえて口には出さない。
案の定、彼女は目線を僕とは違うところへと向けた。恐らくそこに居る有紀に対しどうしようか、と目配せをしているのだろう。
「あぁー……えっと、ちょーっと、訳ありでして……」……知ってる。
そして、その僕達の話をしている最中に、割って入る一人の少女がいた。
栗色のセミロングの、写真で見た可憐な少女。きっと、彼女……いや、彼が。
「……真水、久しぶり」
どこか後ろめたい表情をした少女は、どこか怯えるような表情で僕を見つめる。足は竦み、今にも逃げ出しそうな儚さを感じた。
――本当に、心配性なのは変わらないな、と僕は心のどこかで感じていた。見た目は変わらなくても、本質は全く変わっていない。
「……え、どういうこと、これ?」
僕はあくまでも、彼女が一ノ瀬 有紀だという事を知らないという設定で演技を続ける。その演技を続ける度、有紀の表情は悲しげに歪む。
今にも泣き出しそうな表情のまま、覚悟を決めたように僕の目上目遣いでもするように見つめる。
これがただの名前も知らない少女ならドキリとしていたかも知れないけれど。
今、目の前に居るのは。
「俺が誰か分かるか?」
知ってるよ。船出さんから教えられていたから。
「その口調と、雰囲気は一ノ瀬 有紀で間違いないね。でも、僕の知る一ノ瀬 有紀は男の身体だったはずだよ……それが何で?」
僕は、彼の心を縛らないために、僕自身に嘘をついた。
その言葉一つ一つに、嘘が積み重なる。それがとても息苦しく感じて、とても辛かった。
ただそれに有紀が気付かないように、疑われないように、そして傷つかないように。それだけの為に僕はひたすらに苦しむのだ。
そして、僕は会話の中で一つ彼に尋ねなければならなかった。ずっと、誰かの為に懸命に努力して、自分自身を不自由にしてきた、彼自身に。
「一つ聞きたいんだけどさ、有紀は……女性になって、自由になった?それとも、不自由になった?」
そうは問いかけるけど、心のどこかできっと彼は自分が苦しむ選択を進んで選ぶのだろう、と分かっていた。
誰かのために自ら不自由に身を落とす。それが、彼の生き方なのだから。
番外編 終わり