どんな姿であったとしても(前編)
金色のカブトムシを見つけたものの、結局ツノを戻さず帰ってきた翌朝のことだ。
俺は、今日も彼女が用意したシリアルと牛乳を頬張っていた。昨日は賑やかな雰囲気こそ感じていたが、今日は何処か、張り詰めたような雰囲気を感じていた。
敵対しているというかは、ポーカーのようにお互いどのような手札を示すべきか伺っているような空気が俺――一ノ瀬 有紀と船出 道音の間に流れている。
その空気の中、道音はポツリと、独り言のように尋ねた。
「先輩は……昨日、本当にカブトムシへツノを戻さなかったことを後悔してない?男に戻れたかも、って」
「なんだよ、結局俺らは納得して帰ってきたんだろ」
思わずぶっきらぼうに返す。心のどこかでは、あのままツノを戻していれば俺は男に戻れていたはずなのに、と恨めしく思う自分がいるからだ。その怒りを道音に八つ当たりしている自分がいることに気がつき、微かに罪悪感を覚えた。
「……悪い、後悔していないと言えば嘘になる」
「……そっか、私が余計なことを言ったから?」
「いや、違う。ただ男だとか、女だとか、そんなことで悩んでいるよりも、俺には何かもっと大切なことを見つけなければいけない気がしてな……」
「大切なこと?」
道音は首をかしげる。
俺の言いたいことが曖昧でわかりにくいのだろう。
屋外では俺の心境を具現化したかのように陽炎がゆらゆらと揺れていた。
ふと、理解者が居らず、俺は本当に一ノ瀬 有紀なのだろうか、と自身のアイデンティティさえ揺らいでいた頃を思い出す。男性としての姿を喪った俺は本当に、一ノ瀬 有紀なのだろうか。そんな事ばかり思っていた。
だが、いつの間にか船出 道音という理解者を得たことにより、俺はいつの間にか自分を一ノ瀬 有紀だと胸を張って言えるようになっていた。彼女は俺を男性だとか女性だとか、そんな枠組みで区別せずただ俺を、俺個人として対等に接してくれる。
ありのままの俺を認めてくれる人が居る以上、性別にこだわる必要があるのだろうか、と自問自答をするようになっていた。
彼女の目をしっかりと見つめる。すると、彼女はどこか視線が左右に揺れ、思わず苦笑して目をそらす。
「え、なあに」
「いや、道音も俺の大切な人の一人だな、と思ってさ」
「……それって告はk」
「そういうのじゃないけどさ?」
「えぇー……、まあ、どんな形でも先輩が私を大切に思ってくれているのは分かってるから、いいか……」
道音はわざとらしく、子供みたいに不貞腐れる。その様子の一つ一つが、可笑しく、そしてこの時間がかけがえのないものなんだな、と思わせてくれる。
そして、この時間の中に足りないやつがもう一人居る。
――鶴山 真水だ。
真水は一体、女性へと変わった俺を見てどう思うだろうか。俺を俺だと認識できず否定するのだろうか。それとも、異性としての距離感に戸惑い、もはや二度と直ることの無い溝を生み出してしまうのだろうか。はたまた、俺を変わらず親友だと言ってくれるのだろうか。
それを確かめる為にも、俺は真水に会いに行かなければならなかった。
もはや、見た目など些細な問題だ。俺は、あいつに自分が一ノ瀬 有紀だと証明しなければならない。
「うん、やっと覚悟は出来た。俺は女性の姿として、真水に会いに行く」
一ノ瀬 有紀の意思表示に、道音は待ってました、と言わぬばかりに頷く。
「……分かった。それじゃあ、行こっか」
☆☆☆★☆
かなり長い時間病院から離れていた気がするが、日数で言えば、ほとんど二日だか三日だかの話だ。それでも、かなり遠い昔のように感じた。
病院内では、看護師が、医師が、忙しなくバタバタと動き回っていた。俺達は、彼ら、彼女らの姿を横目で見やりながら歩みを進めていく。
「相変わらず、忙しそうだな……」
「さすが、総合病院と言った様子だよね……」
「あ、集中治療室の看板が見えてきたな……よし」
「先に私が入るよ。先輩は心の準備が要るでしょ」
「わ、わかった」
集中治療室の看板が見え、俺は再び湧き起こる不安な気持ちを堪えているのを察したのか、道音からそう提案された。正直有り難い申し出に、俺は素直に賛同する。
室内へ入るとそこでも看護師が忙しなく動き回っている。ただし、以前よりも真水の所へと向かう頻度は減っているような、そんな気がした。
その様子を遠巻きに見ていると、看護師の内の一人が俺達の元へと駆け寄る。以前、初めて真水の様子を見に来た時に対応してくれた看護師だ。
「あ、鶴山さんのお知り合いの方ですね。意識が戻られたというお話は聞いていますか?」
看護師は、道音では無く俺の方を見る。……前に、道音一人で面会をしたからか、と心のどこかで納得している自分がいた。
「はい。ちょうどみちね……船出さんからお話をお聞きして、面会に来た次第です。状態はどうですか?」
「なるほど、そうだったんですね。鶴山さんは、肺の傷も小さくなり、ドレーンからの排液も減少した為、つい先日医師の指示にてドレーンを抜去しました。また、酸素化も安定している為、今はフリーで対応しています。経過と致しましても、かなり安定はしています」
正直、看護師から説明された単語を全て理解することはできなかったが、概ね状態は快方に向かっている。ということで解釈して良いのだろう。
「わかりました。ありがとうございます」
「先刻までは、鶴山さんはお母さんと面会されていたようでした.丁度入れ違いで帰ってしまったようですが……」
「え、真水のお母さんが!?」
俺は思いもしなかった看護師の言葉に思わず目を丸くした。その様子に看護師はぎょっとして俺の方を見る。
「え、あ、はい。……あまり、こちらから話の内容まで喋るのはプライバシーの侵害に当たるので、ご本人からお話を聞かれるのが良いと思われます」
「そうですね、色々とありがとうございます」
俺は真水の視界に入りにくいよう、真水が寝ているベッドの後ろからこっそりと様子をうかがっていた。道音は真水の前に立ち、笑顔で彼の前に姿を現す。
「こんにちは、鶴山先輩!また様子を見に来ましたが、調子はどうですか?」
「ああ、船出さん。いつもありがとうね?……でも、今日も有紀は来てないの?本当に重症とかじゃ無いんだよね?」
真水はどこかそわそわと、身体の置き所に悩むかのように身を捩る。何よりもまず俺の安否を伺うところが真水らしいなと思う。
彼は、以前と比べると身体の周りに備え付けられた機械などが少なくなっており、比較的コンパクトに収まっていた。強いて言えば、彼の左腕から伸びた点滴のラインが見えるくらいだ。
道音はどこか気まずそうに、ちらりと目を俺の方へと向ける。
「あぁー……えっと、ちょーっと、訳ありでして……」
さすがにそろそろ言い訳できないな、と思い俺は彼の前へと姿を現す。
「……真水、久しぶり」
俺が姿を現した瞬間。真水に流れる時間が止まった。まるで、時止めの魔法にでも掛かったかのようにピタリと表情が止まる。
「……え、どういうこと、これ?」
再び時間の流れ出した真水は訳がわからないと言わんばかりに、忙しないようで、俺と道音を交互に見る。
まあ、そりゃそんなリアクションになるよなあ、と割り切ってこそいたが、やはり心の奥に鋭いナイフが突き刺さったかのように痛む。だが、もう目を逸らすことはしたくなかった。
「俺が誰か分かるか?」
「その口調と、雰囲気は一ノ瀬 有紀で間違いないね。でも、僕の知る一ノ瀬 有紀は男の身体だったはずだよ……それが何で?」
「……!!」
真水はなんてことの無いように、俺が一ノ瀬 有紀当人だと答えた。その様子に驚きを隠せず、俺は思わず後ずさりをする。
「え?有紀じゃないの?」真水はきょとんと、何か間違っただろうか、と言った様子で首をかしげる。
「いや、合ってるけどさ……なんでそんな直ぐ答えられたんだ?」
「なんで……って、言われてもなあ。なんか分かっちゃうんだよね、僕も分かんないや。あははっ」
いい加減な様子で彼は笑う。だが、今まで俺が説得しなければ俺が俺だと認識できない人ばかりだった為、ある種の感動さえ覚えていた。
ひときしり真水は笑った後、急に真面目な顔を作って俺の方を見る。
「……うん、本当に、どうして女の子になってるの?」
それは俺が知りたい。そう答えたいのをグッと堪えて、俺は口を開く。
「……わからない。あの日土砂崩れに巻き込まれて、何かに縋るように俺は必死に手を伸ばした。咄嗟に掴んだのが件の金色のカブトムシのツノでさ、どうやらその時にツノを折ってしまったんだよな。原理は分からないけど、それがきっかけでこうなったんだと思う」
そう言って俺はポケットから折れたカブトムシのツノを取り出す。金色に光るそれは、蛍光灯に反射し、目映いばかりの光を放っていた。
真水は興味深そうにそれをマジマジと見つめる。そして、感嘆の声を上げた。
「へぇー……そんなことがあったなんてね……まるで呪いか魔法みたいだね」
「俺もそう思う。こんなことって現実であり得るんだな。というか、何度も確認するが、真水は俺が実は一ノ瀬 有紀を騙る別人なんじゃないか、という可能性を疑わないのか?」
あまりにもナチュラルに俺を一ノ瀬 有紀だと認識して話すものだから、気になってそう問いかける。
すると、真水は「ぶふっ」と急に吹き出した。
「おい!?」
俺が諫めるのも厭わず、真水は笑いを堪えることができず爆笑した。何が可笑しいのかと困惑する俺を余所に、真水は「はぁー……」と大きく息を吐く。
「その口調と、自信満々な感じで行動する人間は僕は、一ノ瀬 有紀以外に知らないからね……はぁー……おもしろっ」
「……本当に、俺はお前が幼馴染みで良かったよ」
半ば皮肉も込めてそう呟く。だが真水はなんてことの無いように「そりゃどうもー」と返す。実際何も思っていないのだろうが。
続く