折られたツノ[中編]
翌朝のことだ。
俺――一ノ瀬 有紀はうんと身体を伸ばす。
未だお腹の下辺りに響くような、筋肉が震えるような傷みが完全に抜け落ちた訳ではないが特に動作を妨げるほどでは無い。
身体を起こして軽くストレッチを行うと、思った以上にお腹が空いていることに気がついた。そう言えば、生理が始まってからろくなものを食べていないことに気がついた。
船出 道音が「ちゃんと栄養は摂取しないと、生理が止まっちゃうから気をつけて」と釘を刺していたのを思い出す。
寝間着から支給された私服へと身支度を行い、リビングへ出るとちょうど道音がシリアルを入れた容器に牛乳を注いでいるところだった。
「あ、おはよう。一ノ瀬先輩。体調は大丈夫?」
「うん、心配掛けたな。もう大丈夫だ」
「そっか、それならいいんだけど。二日間ろくにご飯食べてないでしょ、ほら、一緒に食べよ」
そう言って、道音は自分が座っている向かいの方へと同じくシリアルに牛乳を注いでスプーンと共に置いた。
俺は椅子を引き、「いただきます」と両手を合わせる。そして、ゆっくりと啜るように咀嚼する。穀物の甘みと、牛乳のマイルドな風味が合わさって、絶妙なシンフォニーを奏でる。
今までは時間に追われ、バタバタと用意しながら食べていたため食事を味わう、と言うことをしなかった気がする。こうして誰かと一緒に、食事を食べることがこんなに幸せな時間なのかということを俺は知らなかった。
「どう?美味しい?……ってか、シリアルだから味は変わんないか」
道音は茶化すかのように、恥ずかしげに笑う。その姿を見ていると、徐々に胸の奥が温かくなった。
「美味しいよ、すごく美味しい。こんなに美味しい朝食を食べるのは初めてだ」
「え?……ただの市販のシリアルだよ?」
「本心だよ。こんなに誰かと落ち着いて食べることで、こんなに美味しく感じるだなんて知らなかった」
「……そっか、それじゃあ私は先輩の初めてになったわけだ」
「言い方に語弊があるからそれは止めろ……」
彼女の表現に呆れたように言葉を返すと、彼女は声を上げて笑った。それに釣られるように、俺の口角も思わず緩む。
ただ、彼女はひときしり笑った後、急に真面目な顔を作って俺の方を見る。
「そう言えば、昨日言っていた金色のカブトムシ。一ノ瀬先輩と鶴山先輩の二人で見つけに行ったはずのものだよね?」
「ん?ああ、そうだよ」
「それをどうして探しに行きたいの?」
言われてみれば俺は彼女に、自分が女性の肉体へと変化した経緯について話した記憶が無い。荒唐無稽なことを言っていることは分かっていた。
「俺が金色のカブトムシのツノを折った後から、こうなったんだ……だから、もし戻して元の姿に戻れるのなら、って思ってさ……」
「そっか……」
彼女は俺の言葉にどこか思い悩むような顔つきを浮かべた。その表情には何か自分の中に溢れる感情を堪えるような、怒りにも似た陰りさえ感じる。
ただ、それらを全て飲み込むように大きく息を吐いて、それから俺の顔を見た。
「……分かった。先輩がそれで納得するのなら、一緒に付き合うよ」
「ありがとう、最初の理解者が道音で良かった」
「……うん」
彼女は微笑むが、その笑みはどこか薄氷のような儚さを感じさせた。彼女の表情が曇る理由。その真意を俺は知る由もなかった。
☆☆★☆☆
俺が初めて、鶴山 真水と金色のカブトムシを見つけた山へ向かうには、電車を使う必要があった。
道音の住むマンションと、俺や真水の住む家とには電車で何駅も跨がなければならない。
電車の中は同じく夏休みに入ったであろう学生でごった返している。外の熱を帯びた日差しが室内へ混ざり込み、電車の中はむせ返るような暑さが充満している。
当然というか、俺達は座席を奪うことが出来ずドア付近に設置された手すりを掴んで外の景色を眺めるしか無かった。
近くのものほど速く、遠くのものほど遅く、景色と共に通り過ぎていく。なんとなく、その一つ一つをまるで見逃すまいと俺は必死に目で追っていた。
時刻はまだ七時だというのに、既に空に昇って照りつける日。それに反射する草木が金色に輝く。
「先輩、もし、男に戻れたらどうしたい?」
道音も俺と同じように外の景色を眺めていたが、ふと思い立ったように俺を見る。俺は外の景色から目をそらすこと無く質問に答える。
「……真っ先に真水に会いに行きたい。そして、その後お袋と親父も会いに行きたい。そして、俺はここに居るんだって証明するんだ」
「……ねえ、先輩」
「ん?」
改まって俺を呼び掛ける道音に対し、俺は思わず彼女の方を振り向く。彼女は真っ直ぐな目線で俺を見据えている。
「……それって、今の貴方じゃ駄目なことなの?今の貴方は、一ノ瀬 有紀先輩じゃないのかな?」
「どういうことだ……?」
彼女の言葉の意図に、俺は思うことこそ合ったが、それに気がつかないフリをして問いのレシーブを返す。
「一ノ瀬先輩は確かに今は女の子の見た目をしているよ。だけど、些細な仕草や、言葉の選び方は私の知る先輩と何ら変わりない。男に戻ることって、それだけ重要なの?」
「……道音は、メラビアンの法則って知ってるか?」
「何それ?」
「コミュニケーションを取る上で、影響する要素として見た目やしぐさが55%、声の大きさや口調が38%、言葉の内容自体はわずか7%しかない、と言った事を示したものだ。俺が俺だって証明できる要素は、45%……いや、声質も変わっているからもっとだろうな。それ以上の割合が他人のそれへと変化しているんだ。その状況で誰が俺が今まで見知った一ノ瀬 有紀だと認識できる?」
「……」
道音は、何も言い返せなかったのかそれ以上は何も言わなかった。俺から目線を逸らし、再び窓の景色へと目を向ける。それを見届けてから、俺も再び窓の方へと視線を移した。
日差しが俺達の真正面を照りつける。そして、俺達の背に影が落ちた。
☆☆★☆☆
目的地の最寄り駅に着いた俺は、早速山へと向かおうとする。しかし、行き着く人達に思わず目が行ってしまう。
周りを見渡し、その一人一人の姿を見ては、自分の両親がそこにはいないのかと期待してしまう自分がいて、どうにも落ち着かない。
その俺の様子に気がついたのだろう。道音は後ろから俺の肩をぽんと叩いた。
「周りの人が気になるのは分かるよ。知り合いとか居ないかな、とか思ってるんだろうけど、今日はそれが目的じゃ無いでしょ?」
「あ、ああ、そうだな……」
概ね俺の行動の意図が見抜かれていたことに、内心ドキリとした。
だが、確かに道音の言うとおりだ。小さく深呼吸をし、己のやるべき事を改めて自覚する。
「よし、俺は大丈夫だ。それじゃあ行こう」
「……うん」
やがて、目的地である山に到達することは出来たのだが、想定内ではあるが想定外の自体が起きていた。
「あー、すみませんお姉さん方。今ちょっとここは土砂崩れ再発防止のため工事をしてるんですよー。悪いねぇ」
「ああー、いえいえ!お気になさらず……」
「……マジか」
そこは、今回の土砂崩れを受けて再発防止のためだろう。大がかりな土砂崩れ防止予防の工事を行っていた。(聞くところによると擁壁工事、というらしい)
当然というか、そこは工事中のため立ち入り禁止となっていた。というかもはや二度とこの山に立ち入ることは出来ないだろう。
その様子を見る限り、行方不明者として取り扱われている俺を捜索している様子は無い。予想ではあるが、現場責任者の判断によって捜索を断念し早期に工事を開始した、と言う形だろうか。
当事者……というか行方不明者自身である俺としてはやや複雑なところではある。しかし、今後同じような事例を防ぐことが結果としては大事なのだろう、と割り切るより他は無い。
ただ、今現在俺にとっての課題はそこでは無い。
「先輩、それじゃあ他の山道を探すしか無いね……?」
「……そうだな……」
以前見つけた場所での探索が出来なくなったことにより、件の金色のカブトムシを見つけ出す事までの道のりが怪しくなったと言うことが、一番の懸念点だった。
続く
私は、貴方が女性になった事実を受け入れた。貴方しか知る事の無い事実を語ってくれたから、私は貴方が今までとは異なる姿でも受け入れると信じることが出来たんだ。
そして、その姿になったとしても先輩は変わらなかった。ただ、ひたむきに目の前の現実から逃げること無く戦おうとしているのは分かるんだ。目の前の逆境に屈しそうになっても、絶対に折れることは無いって信じさせてくれる先輩が好き。
でも、その反面女性として初めて体験することに恐怖する先輩を見ていると、私が守らなきゃって思うの。今まで沢山私のことを助けてくれたよね。だから、今度は私が貴方のヒーローになるの。
もし困っていたら、絶対に助けてあげる。もし、女性だから、だなんて見下したり、先輩を無下に扱う人が居たら私も一緒に立ち向かうよ。
それだけじゃ駄目なのかな。一ノ瀬先輩。