永遠の時間
今回も生々しい描写します。ごめんなさい。
☆☆★☆☆
そのマンションの外壁はブラウンとホワイトの二色で整えられた、まるで自然に溶け込むような、落ち着いた雰囲気を漂わせる建物だった。
船出 道音がマンション入口に備え付けられた暗証番号を入力し、オートロックを解除する。
すると、待ってましたと言わんばかりに自動ドアに備え付けられたセンサーが緑色に光り、俺達の姿に反応してドアが開く。
ドアが完全に開ききってから、道音は俺――一ノ瀬 有紀の方を見た。
「この番号がオートロックを解除するための暗証番号ね。覚えといてね」
「分かった」今後その動作を行うのは俺自身であることを重々承知している為、特に捻くれた返事をすることも無く素直に頷いた。
エレベーターに乗り込み、道音が四階のボタンを押す。徐々に上昇するエレベーターの気圧の変化を感じる。揺りかごのように左右に揺られる。
その中で俺はどこか落ち着かない気分が抜けずに居た。
様々な不安はどうしても抜けそうに無いのは仕方ないのだが、今一番不安だったのは、これから道音の家に入る覚悟が十分に出来ていないことだ。
まるで敵陣へ向かう偵察兵のような気分だ。身体が震えるのを堪え、大きく息を吸い込む。
その様子を見ながら、「そんなに緊張しなくても」と道音がケラケラと笑う。
明るい効果音を発しながら、エレベーターは目的の階へ停止したことを告げる。ゆっくりと開いたドアから道音が先導するように降り、俺も後に続く。
平日の昼間だからだろうか。マンション内には人気を殆ど感じず、静寂に満ちていた。彼女はそんな様子を気にも留めず、『404』と書かれた部屋の前で止まる。
「着いたよ。ここが私の住んでいる所ね」
「あ、ああ……お邪魔します……」
気分を落ち着かせる為に大きく深呼吸をするが、返って彼女の家の香りが思いっきり鼻腔内へ入り込み、特に悪いことをしたわけでも無いのに罪悪感が押し寄せた。
ただそんなことに一つ一つ動揺していては、今後生活をする上で不便することが目に見えていた為慣れなければならない。
俺は覚悟を決めて、部屋の中に入る。
「……すげぇ綺麗だな」
率直な感想としては、『丁寧に整えられている』の一言に尽きた。主にパステルカラーで纏められたポップな雰囲気。また、それでいて部屋の中は散らかっておらず導線はしっかりと保たれていた。
まるで家具店の展示コーナーを彷彿とさせる整った部屋に感嘆とする。
「あまり余計に散らかしたくないからね。とりあえず先輩が寝れるスペースも用意したから、先に確認しとこっか」
「お?おう、頼む」
道音が先導する形で、廊下へと進む。廊下に面するように配置された扉を開けると、ソファベッドが置かれ、その上にブランケットが置かれていた。
「布団と枕は押し入れの中にあるからね。でも、起きている間は絶対に置きっぱなしにしないで、私が嫌だから」
強い口調で彼女は俺に対し釘を刺す。部屋に対しては相当なこだわりを持っているのだろう。
恩を仇で返すことはしたくない為、俺は素直に「わかった」と返す。ただ、ソファを見ると急激に疲労感を感じた。
先ほどまでは全くそんな疲労感など感じなかったのに、「休める」と思った瞬間、身体から力が抜け落ちる。
「道音……早速でごめん、横にならせて貰っていい……?」
「うん、寝て良いよ。あ、布団敷かなくて大丈夫?」
「だい……じょ、ぶ……」
徐々に意識を覆い隠すように、眠気が全身に回っていく。徐々に力が抜ける。まるでバルブの開かれた風船のように、俺の意識は徐々に萎んでいく。
あれ、俺は……。
「一ノ瀬先輩?……疲れたのかな。まあ無理もないか……」
道音が俺を心配そうな目で見つめている。
「また後で起きるから……」
「ううん、無理しなくて良いよ、ゆっくり今は休もうね」
「うん……」
俺が俺であるという意識を保てていたのはここまでだ。その後はなんとなくぼんやりと、道音の声に何かしら返事をしていた気がするが、あんまりちゃんと覚えていない。
じんわりと痛む腹部の感覚を自覚しながら、俺の意識はシャットダウンした。
☆☆★☆☆
頭が痛む。目眩がする。
鈍い頭でゆっくりと瞼を持ち上げるが、どうにも身体が思うように動かない。
「んぅ……」
身体を起こそうとしたが、まるで身体を押さえつけられたかのように動けず、ベッドにそのまま横たわる。そして、徐々に全身の感覚が戻ってくる。
道音はずっと俺に付き添っていたのだろう。椅子に腰掛け携帯を触っていたが、俺が身体を捩った際に生じた布の擦れる音に気がつき振り返る。
「あ、一ノ瀬先輩おはよう。よく眠ってたね、もうすぐ晩ご飯の時間だから何か作ろっか?」
「……おなか、空いてない……」
吐き気にも似た喉元からこみ上げる不快感が、俺の食欲を減退させていた。その様子を見て、道音は眉をひそめる。
「……大丈夫?」
「いや……お腹がすごく痛くて、気持ち悪い。身体も起こしたいんだけど、お腹痛くてそれどころじゃない。なんだかギュッとお腹の中を握られてるみたいで……」
これまで感じたことの無い痛みと不快感に、俺は何かの病気だろうか、事故の後遺症か、等と不穏な可能性が脳裏を過る。
だが、道音は何かを悟ったのだろう。「……ちょっと待ってて」と急いで部屋を後にした。
恐らく何か俺の助けになる行動を取ってくれているのは分かるが、誰かがいなくなることすらとても寂しく感じる。誰も助けてくれないんじゃないか、寂しい、辛い、怖い。
「嫌だ、置いて行かないで……みちねぇ……」
自分でもこれまで感じたことの無いほどの孤独感にどれほどの時間苛まれたのだろう。それは時間で言えばさほど長い時間では無かったかも知れない。けれど、俺にとってはまるで5億年ボタンを押したときのような、永遠の時間にさえ感じた。
時間は存在せず、ただアニメのようにフレーム単位の世界が存在するだけ……というような話が脳裏を過る。まるで俺のこの感覚は、その世界に放り込まれたような感覚さえした。
しばらくして、廊下をバタバタと駆ける足音が聞こえ、ようやく俺の世界に再び時間が流れ出した。
道音はトレーの上に湯たんぽとコップに入った水と錠剤を乗せていた。
「一ノ瀬先輩、まずはこの湯たんぽをお腹に当てておいてください。痛み止めは飲めそうですか?」
「……飲む……」
俺は包装が既に剥がされているベージュ色の錠剤を手に取り、水と一緒に飲み込む。ややピリッと舌に響くような苦みを感じながらも喉の奥へと流れ込んだ。
そして道音が差し出した湯たんぽをお腹へと当てる。じんわりとお腹が温まり、緊張が気持ちほぐれた気がする。
「……ありがとう、これって、何……?」
俺は自身に起きた現象の正体がつかめず、何かに縋るように道音へと尋ねる。
「一ノ瀬先輩は、[生理]が始まったんだよ」
「生理……?」
聞いたことはあるが、あんまりイメージは出来ていなかった。分かるのは、血が出ることや、生理で女子が体育の授業を休んだりしているイメージしか無い。
俺が現象の正体が分からずぐるぐると思考していると、道音は言葉を続ける。
「要は、女性が妊娠しなかった際に生じる生理現象のことだよ。そういえば先輩、この家についてから凄く眠たそうにしてたでしょ?今になって考えればあれって月経前症候群だったのかなあ」
「なにそれ……?」
「生理前になるとメンタルが不安定になったりする症状のこと。今になって思えば、女の子になった先輩の言動に心当たりがある気もするなぁ……」
何処か納得したようにうんうんと頷く道音。俺は彼女の言うところの「心当たり」が分からないが、女性にしか分からないものがあるのだろう。
しかし、生理とはこんなにしんどいものなのか。
「道音は……すごいなあ。よくこんなのを抱えて生活できるなあ」
「え?」
率直な感想だった。男性のままでは体験できなかった現象だったからだ。正直体育で休んでいる女子なんて「大袈裟だろう」と思っていたくらいで、まさかこれほどまでに生活に影響の出るものとは思っていなかった。
今まで女性の感覚を理解せずにいい加減な態度をしていた己自身を恥じる自分がいた。
「ごめん、まさか生理がこれほどしんどいとは知らなかった……」
「まあ、男の人は分からないよね……実際、女性アスリートでも生理周期と大会が重なって成績が振るわない、なんて話もあるし生理ってのはそれだけ大変なんだよ」
「うん……」
「とりあえず、ある程度動けるようになったらナプキンを使おっか。私ので良かったら使ってね」
「わ、わかった……」
そう道音から提案されてから一時間くらい経った。痛み止めの効果が徐々に現れてきたのだろう。完全に消失したわけでは無いが、多少の動作であればある程度動けるようになった。道音からナプキンを受け取り、トイレへ向かう。
それを本来あったはずのものが無くなったところへ装着した。
やがて、徐々に身体の下の方に何かが滴っていく感覚がする。それをパットで吸収しているのだろうが、どうにもそれが擦れる度に言語化のしにくい不快感に襲われた。
その未体験の感覚の一つ一つに困惑しつつ、俺は部屋へと戻る。
「……グジュグジュで気持ち悪い……」
俺が率直な感想を述べると、道音は眉をひそめ、同情のような、憐れむような、そんな苦笑いを浮かべる。
「一ノ瀬先輩は結構重い方かもねえ……後で食べれたらおかゆとか温かいものでも作るよ」
「ありがとう……」
そう言った後、俺はベッドに身体を投げ出したが、その勢いで少しベッドがズレる。
それに気づいた道音が「あ!!こら、ズラすな!!」と目くじらを立てていたが今の俺にはそれを気にする余裕は無かった。
横になり、俺はゆっくりと目を閉じる。沈む思考の中で、自身が今置かれた現状を振り返る。
『妊娠しなかった際に生じる生理現象』か……。もはや生殖器という生物の根底から自身の姿が変わってしまったのだと自覚する。
まるで、元からそうだったかと言うかのように俺の肉体は、女性のそれへと変化しているのだとベッドの上で苦痛に耐えながら考えていた。
続く