性別違和(後編)
俺、一ノ瀬 有紀は退院する際に必要な衣類については船出 道音のものを借りた。サイズが合うかどうか、という懸念事項はあったがどうやら今の体格は道音とかなり近くなっているらしく、特に袖口や脇辺りが動かしにくいと思うことも無かった。
以前着ていたジャージも、ボロボロで使い物にならないため病院で廃棄するため、本当に持って帰る荷物というものがない。
強いて言えば、俺が病院から持ち出すのは1通の手紙と、次回の外来受診票くらいだ。
俺は、迎えに来ると言っていた道音を待ちながらベッドに腰かけ、くつろいでいた。
もはや、カーテンを閉めておく必要も無いか、と思いカーテンを開けた状態で待っていると道音よりも先に、「失礼します」と柴崎医師が入ってきた。カーテンをしていないことに一瞬戸惑いを見せたが、すぐに表情は落ち着いたそれへと戻り、いつものように頭皮を軽く掻く。
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
「あ、はい。お陰様で。お世話になりました」
「いえいえ、無事退院できて良かったです。引き続き、ご友人の方はこちらの方で回復に向けて治療を進めていきます.何かあればご連絡させて頂きますね」
「有り難うございます。あの、ところで鶴山さんの両親って面会に来ましたか?」
「いえ、どうやらお仕事の方が忙しいようです。連絡は付きましたが、しばらくは面会に来ることが厳しいそうで……」
「そうですか……分かりました、有り難うございます」
俺はその回答を聞きながら、正直予想通りだ……と思っていた。彼――鶴山 真水は幼い頃、父親との離婚を経験しており、母親の女手一つで育てられてきた。その母親も、真水を養うべくキャリアウーマンとして働いているらしく、実質彼はほとんど一人で生活をしてきたようなものだった。
一応、作り置きなどが置かれており、衣食住に関しての問題は無かったそうだが、それでも内に秘めた孤独は想像を絶するものだろう。
そんな彼の実情が今の俺と似通ったものがあるな、と思う。
「あ、それと一つお聞きしたいことがあります」
「あ、はい。何でしょうか?」
改まって柴崎医師が俺に向かって問いかけるものだから、何か問題でもあったのだろうかと姿勢を堅くした。彼は一瞬何かを躊躇するように目線を左右に揺らしたが、やがて真っ直ぐ俺の目を見る。
「……一ノ瀬 有紀さんは、『性別違和』という言葉をご存じですか?」
「性別……いわ?」初めて聞く単語だ。その言葉の反芻が、否定と認識されたのだろう。医師は説明を続けた。
「身体の性別と、心の性別が一致しないことです。一番始めにお会いした時、検査データの用紙を見て『性別が違うんじゃないか』というお話をされたこと、また以前にご友人と病室で揉めたときの内容をたまたま聞いていた看護師からの報告でそちらの可能性があると思いまして……。どちらかと言えば、ひと昔前の表現である『性同一性障害』という単語の方が理解できますか?」
性同一性障害。その単語を聞いて、「確かに客観的に見ればそうなるのか」と心のどこかで納得するものがあった。
「……確かに、今は見た目こそ女性ですが、『俺』の心は男性です」
医師の言うことは最もだった。何故なら、事故以前までは俺は男性の肉体だったのだから。
生まれつき、自身の身体に違和感を持ったまま成長する人というのは存在する事は知っている。だが、俺のこの肉体と精神の不一致は後天的なもので、本来は起こり得ない事象から生じたものだ。
「もし、ご興味があるようでしたら、『性別適合手術』などの紹介をさせて頂こうと思いますが、如何なさいますか?性別適合手術は十八歳からしか行えない為現在はこういう方法がある、との旨の説明のみとなりますが……」
「性別適合手術……」
確かに、男性の肉体に戻る方法としては適切なのかも知れない。だが、今はこの不可解な現象を解決する優先度の方が高いように思われた。
「いえ、今は大丈夫です。また今度、お話を聞かせてください」
「分かりました。差し出がましいことでしたね。申し訳ございません。それでは、まもなくお迎えが来られると思いますので私は失礼致します」
「ご心配有り難うございます。それでは、また外来の日によろしくお願いいたします」
「はい。失礼致します」
そう言って、柴崎医師は部屋を後にした。
それから間もなくして、道音がひょこっと顔を覗かせた。
「失礼しまーす、一ノ瀬先輩、退院おめでとうございますっ。じゃあ、行くよ!」
「お前は元気だなあ」
「それだけが取り柄ですから!忘れ物は無い?」
「忘れるものが無いかな」
冗談めかして俺は言葉を返す。道音は楽しそうな表情をして、俺の隣をクルクルと動き回る。その姿はとても俺の複雑な心境とかけ離れた様子で、とても楽しそうだ。
「性別適合手術……か」
ポツリと言葉を漏らすと、その言葉は彼女の耳に届いたらしくキョトンとした顔で俺の顔をのぞき込む。
「……ん?どうしたの?」
「いや、何でも無いよ。じゃあ行こうか」
俺はベッドから立ち上がり、病院を後にした。
道音と肩を並べて、病棟内を歩いて行く。
「そう言えば、学校はどうしてるんだ?まだ夏休みに入ってないはずだろ」
「学校に行って面会に行くお許し貰ってるからね。まあ定期テストも終わって、授業もあんまり無いから大丈夫だ……ってさ」
「まあ、それならいいか……」
この身体になってから、初めて病院から外へ出る。正直なところ、自分は外の世界でちゃんと女性としての生活を全うできるだろうか、という不安が過っていた。
だが、その反面元の肉体へ戻れる可能性に淡い期待を抱いている俺自身が心のどこかにいて、「きっとすぐに男性の身体に戻れる」と思っていた。
少しお腹が疼くのを堪えながら、俺は道音の家へ向かうことにする。
……だが、その前にやっておくことがあった。
「あ、そうだ。その前に手紙を出して行きたい」
「手紙?」
「そう、退院したって実家に送っておくよ。あと、悪い。手紙返答先に道音の住所借りた……」
「わかった、それは大丈夫だよ!……確かにまた病院に来て入れ違いになる可能性があるもんね」
「そう。だから帰り道にポストあったら寄りたい」
「分かった」
俺が用意した手紙の中にはこう書き記した。
拝啓 一ノ瀬 登美子様 一ノ瀬 和義様
こんにちは。一ノ瀬 有紀です。お久しぶり、の方が良いのかな。
携帯は土砂崩れに巻き込まれたときにどこかに行ってしまったらしく、今は持っていないため手紙で連絡させて頂きます。
事故当日に会った「一ノ瀬 有紀」と名乗った女性本人のことをお覚えですか。今手紙を送っているのはその女性自身からです。
原因は分かりませんが、俺は崩落事故に巻き込まれた後、何故かこのような肉体に変化していました。だから、信じられないのも無理はなく、今も事故現場から見つかるのでは無いだろうか、と不安にまみれながら待っているのだと思います。
でも、俺はここに居ます。親父とお袋が育ててくれた、一ノ瀬 有紀という十七歳男性の心を持った人間はここに居るのです。
今は後輩である船出 道音様の自宅でお世話になっています。また、よろしければ手紙の返信をお願い致します。
敬具
これが無事に届いて欲しい。そして、この手紙の言葉を信じて欲しい。そう願いながら、俺はポストに投函したのだった。
「お待たせ。それじゃあ案内をお願いするよ」
「分かった!先輩を自宅に招くのは初めてだね」
「本当にだな、正直不安ばかりが過るが……」
「大丈夫だって!ほら、深呼吸深呼吸……」
お腹が疼く。その違和感にもう少し注意を払うべきだった。
続く