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余程、気が動転したのだろう。中年男は若い女との関係を妻や舅に言い繕う前に、自分が普段から言いつけていたことを破った相手を詰ってしまった。
「なっ!なんでここに?外で会う時は他人のふりをしろと、あれほど言っていただろうが!」
突然現れた若い女に向かって言い放った中年男の言葉に対し、傍で聞いていた中年男の妻は顔色を無くし、舅は怒りにより目が血走った。中年男は若い女との関係を露骨に認めた発言を自分がしたことに気付かず、若い女を帰らせようと、その背中をグイグイと押して追い出そうとした。が、若い女は中年男からスルリと身を離すと頬を膨らませ、拗ねた口調で自分が持っているトートバッグから黒い皮の手帳を取り出し、ヒラヒラと手帳を持った手を振り動かして言った。
「えっ、何よ、それ、酷くない!?忘れ物をわざわざ持ってきてあげた可愛い彼女にそんなこと言うなんて、あんまりだと思うわ!私はあなたがいつも片時も手放さない帳簿を私の部屋に忘れていったから、困るだろうと思って持ってきてあげたのに〜!ってかさ、前から思っていたんだけど、今どき手書きで帳簿つけるのっておかしくない?いくら、あなたの秘書や事務員が舅の忠臣で使い勝手が悪いからって、そんな事務作業を町議が自らしているなんて変よ!」
「ばっ!余計なこと言うな!さっさとそれをよこせ!」
「そこの女性が言うように確かにおかしいわね。だって仕事に関わる金銭のやり取りは全て、事務所のパソコンで管理しているはずだもの。……ねぇ、あなた。それは何の帳簿なの?」
中年男が若い女が持っていた帳簿を奪い取ろうとするところに中年の女性が間に入って止めた。
「うっ、煩い!お前は黙っ……。あっ!すみません、お義父さん!これはその……」
自分の妻を詰ろうとした中年男は、妻の父である老齢の男性の冷たい視線に気づき、バツが悪そうに口をつぐんだ。
「私の大事な娘に向かって、さっきからお前お前と……、君はいつからそんなに偉くなったんだい?ところで、その帳簿は何かな?君は至って潔白なのだろう?ならば素直に見せなさい。お嬢さん、それを私に渡してくれるかな?」
忘れ物を届けようとした女は自分の愛人である中年男と老齢の男性の顔を見比べた後、老齢の男性に帳簿を渡そうとした。すると中年男は目を吊り上げ、喚いた。
「それを渡すな!いいか、わかっているのか!お前がそれをそいつに渡したら、お前も俺も、俺の家族全員とそいつと帳簿に名前が載っている人間やその家族も含めた全員が、お前のせいで人生が終わることになるんだぞ!大勢の人間がお前のせいで不幸になるんだ!俺たちの人生がお前の愚かな行いのせいで全部ダメになるんだぞ!お前のせいで……」
中年男の暴言はパァン!という小気味よい音で途絶えた。赤くなった頬を押さえて呆気にとられる中年男に赤くなった手を震わせながら中年の女性が言った。
「何を馬鹿なことを言っているのですか!責任転嫁も甚だし過ぎます!いいですか?よくお聞きなさい。私や娘や父や帳簿に名前が載っている人やその家族全員が不幸になるのは、その女性のせいでは、けしてありません。その帳簿が表に出て私たちが不幸になるとしたら、それは全て悪事を働いたあなたのせいです。だって、そうでしょう?悪事を働いた人間が一番悪いに決まっているのですからね。あなたは自分が悪事を犯したら、どのような結果を皆に招くのかを理解していたのに、そうなっても良いと思ったから悪事を続けた、最低な人間なのよ……」
「違う!そんなことは思っていない!だからこそ俺は皆が不幸にならないように隠してたんだ!この女さえ俺の後を追いかけてこなければっ!この女さえ帳簿を持ってこなければっ!」
「ハァ……。あのね、あなた。大抵の人たちは自分の為だけではなく自分の好きな人の為にも悪い行動は慎むものなのよ。だって自分の好きな人に悪い人間だと思われて嫌われたくはないでしょう?自分のせいで好きな人が他の人たちから嫌われないようにしようと思うのも自然なことでしょう?なのに、あなたときたら悪いことをしておきながら、その責任を人になすりつけるだなんて……。こんな自分さえ良ければ他はどうでも良いと思っている人と結婚したなんて自分が情けないわ。この帳簿は父に預かってもらいます。今は馨や皆の安否を確認することが何よりも大事ですが、それが分かり次第、この帳簿についての調査を必ずしますから、そのつもりでいてください!」
地元の新聞やケーブルテレビの記者達は、バレー部の中学生たちがゲリラ豪雨による崖崩れ事故に巻き込まれたかもしれないという情報の真偽を確かめに来ただけだったのに、思ってもいないところから現役町議の愛人や怪しい帳簿の登場に、たちまち記者魂が刺激された。
しかし、この場で発覚した新事実について、あれこれを町議に追求するのは、子どもたちの安否を気遣う人たちに対し、あまりにも無作法だと自覚していた記者たちは、自分たちが勤めている会社の上司に連絡を入れて、手の空いている記者に町議の疑惑について調べるようにと頼むため、職員室を出て、自らの携帯電話を取り出したが、まだ通信障害により携帯電話が使えない状態だったので、やむなく記者たちは廊下を走っていって、中学校の正門を出て直ぐ傍にある電話ボックスへと向かっていった。
雷雨の中、中学校の正門を出て直ぐ傍にある電話ボックスに列を作った記者達は、雨音に紛れてペチャリ、ペチャリとサンダルを鳴らしながら歩き、中学校の正門を通ろうとしている誰かがいるのに気が付いた。
遅れてやってきた保護者かと思った記者たちは誰の親だろうかと注目したが、しかし子を心配している親とは思えないほど浮かれた男の笑い声が混じった独り言が傘の向こう側から聞こえてきたので、記者達は直ぐに男への関心を失ってしまい、男が話す独り言にも耳をすまさなかった。
「ヘッヘッヘ……どうやら俺にも、やっと運が向いてきたようだな。学校行事で子どもが死んだら、いくら位の金が入るんだろう?きっと相当な額の賠償金が手に入るに違いない。へへ、本当に香は親孝行な娘だったよ。あいつは俺の子じゃなかったから1ミリも可愛いとは思わなかったが、子連れだと同情も引けたし、何でかわからんが、あいつは借金取り達に受けが良くて、中には俺に家と職まで充てがって、真面目になれと説教してくる野郎もいたものな。中学を卒業したら昼夜働かせて金を稼がせようと思って今まで捨てずに手元に置いていたが、まさか、まだ子どものあいつを気に入って、借金の代わりにあいつを一晩寄越せと言ってくる変態野郎まで出てくるとは思わなかった。まぁ、さすがに変態に一晩付き合わされたあいつと直ぐに顔を合わせづらくて飲み屋で朝まで粘ってたら、香の中学校の生徒たちの乗ったバスが不明のニュースだろ?……あいつは熱が出ても学校を休まない奴だから、きっと、あのプリントの大会にも行ったに違いない。ウヒヒ……賠償金があれば全部の借金を返せるし、死んでくれた香には礼を言……ッ!?何だ、これ?急に足が動かなく……うわぁ、体が!?おい、これは何だ?えっ、本当に何だ、これ!?か、体が、俺の体が沈っ!誰か助け……」
電話ボックスの順番待ちをしていた記者たちは男の叫び声が正門の向こう側から聞こえた気がして、何人かが正門まで行って男がいるか見回してみたが、そこには誰もいなかった。
「はぁ、いつになったら順番が回ってくるのやら。……ったく、何でいざという時に携帯電話が使えないんだよ!これじゃ携帯してる意味ないじゃん!」
「ああ、そうだよなぁ。普段は携帯電話が便利過ぎて、もう固定電話なんて必要ないんじゃないかと思っていたけど、こういう非常時に使える電話がないのは困ることになるよなぁ」
普段はライバル同士ではあるが、雨の中で待たされているのは同じだという連帯感から、そんな世間話をしながら記者たちが待っていると、中学校に残っていた記者が傘もささずに走ってやってきた。
「お〜い!今、やっと連絡が入ったー!マイクロバスは崖崩れに遭ってない!生徒たちは全員無事だー!」
「何だって!?」
電話ボックスに列を作っていた記者たちは傘を放り出し、一目散で中学校へと走っていった。記者の最後の一人が校舎に入っていくと同時に雨の勢いは収まっていき、マイクロバスが中学校に戻ってきたときには、空は梅雨の終わりを告げる太陽が綺羅綺羅しく輝き、虹が映る水溜りの傍には豪雨でどこかから流されてきたらしいサンダルの片方だけが転がっていた。