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ある葬儀社の男性のお話

マンネリ化した生活に、時折混ざる苦しい出来事。

細かい部分は割愛させて頂いています。ご容赦下さい。

 いつもの事だ、仕事の事だと、冷めた気持ちの自分がいる。

 それも仕方が無い事なのかもしれないのは、多分に参列者の関係もあるのだろう。

 不幸にも亡くなってしまった御人に対して何も言うことは無い。

 100歳近く生きて大往生と言われている人もいれば、80歳前後で病気と戦って亡くなった人もいるし、60歳前後で老後これからだというのにという人もいて、本当に様々な人生の形があるのだと思う。

 でも、ただそれだけだ。

 死人に口なしとはよく言ったもので、表立った悪口こそ無いものの、さほど悲しそうに見えず、どちらかと言えば親戚が集まることの出来る口実の会である気がする。


 故人はどう思っているのだろう。

 そうふと思う事はあっても、いつもの仕事をこなすだけなのだ。

 少し鼻にかけた声を出し、さも悲しげな口調で式の進行をする。

 お決まりの口上を述べ、導師様を呼び、お経を唱えて頂く。

 導師様からのお声がけでお焼香を運び、参列者の間をゴロゴロと行ったり来たりするお焼香のコントロール。

 全て行き渡ると、祭壇へと運び祭壇へ合掌、そして導師様へ合掌。

 お経が終わるのを待ち、説法を聴き、終わると導師様のご退場をアナウンスする。

 これでお通夜の儀が終わり、明日の予定を再度アナウンスして一旦仕事が終わる。次の日の朝、葬儀を執り行い、火葬場へ送り出す、それが終わって帰ってきたら再び繰上げ法要をして終了する。


 これが主な流れで、喪主と施主がいて葬儀委員長がいたりで打ち合わせが大変な仕事であるし、今後も決して無くならない仕事なわけだ。休日は友引の日がメインなので、もう少し休みが欲しいなぁ、と思う事があったり、給料面でもう少し優遇してくれると助かるんだけどなぁ、とちょっぴりの不満はあったりもする。

 そんな惰性が蔓延している日常でも、やはり心が揺さぶられる仕事の時もある。



 深夜の待機電話に連絡が来たのは、雪がボタボタと降り始めたある冬の日だった。

 緊張した声の電話の先の声は、30〜40歳くらいの男性だろか。いつもの様に母親が亡くなってしまったのだろうと軽い気持ちで受付をしようとしたが、どうにも様子がおかしい。

 悲しさと混乱とが入り混じった声で、亡くなった方の詳細を問うと40歳台の妻で、病院から掛けているとの事だ。

 自分よりも若い世代の人間が亡くなるのはやはりそれだけで苦しいものがある。

 受付をして病院まで迎えに行く段取りを組んで一旦電話を切った。搬送係に連絡を入れ、即座に動いて貰う。自分は朝になったら葬儀の打ち合わせで顔を合わせる事になる。正直な所、パニック障害でも起こしていないか心配になる所だ。

 早朝に引き継ぎをした所、自宅は狭すぎて帰られなかったと聞き、もう葬儀場に安置しているらしい。電話口の男性もいるであろう。

 こちらもやや緊張しながら、待機所の部屋へ挨拶と同時に入った。

 やや寝不足かな、と思うくらいで顔色もそこまで悪くはない。話が出来そうで安心した。


 ここまでは良かったのだ。

 男性の両親と子どもが合流し、亡くなった妻側の親族も駆けつけたのだが、当の男性が全てを受け持つ様だ。子どもが未成年であるし、施主を立てる事も出来ないのだから当然だろうとは思うのだが、1人病院で死と向き合ってきた男性の深い悲しみは、自分の感覚では計り知れない所だと思う。両親が横から口を出すが、基本的には男性が決定をする様は大変の一言に尽きる。

 第三者から見てそう思うのに、男性に対して協力する姿勢があまり見られず、こちらとしても葬儀の準備に関して男性へと相談せざるを得ないのだ。


 取り仕切る側としても特殊な事態が迫っているのかもしれない。無意識にそう思ったのか、自然と「周りに頼って休めるときには休んでくださいね」と言葉を投げ掛けていた。

 男性は「大丈夫です」と答えたが、その「大丈夫です」は決して大丈夫ではない事が多いと思う。

 実際、式の打ち合わせ、見積書の作成、協力者への挨拶など喪主に対しての負担は余りにも多い。日本の伝統ではあるが、本当に悲しんで動きたくも無い状態の人間を動かさないといけない事なのだ。


 この伝統もどうにかならないのか考える事が多い。

 ただ、同時に古来からなされている事は、やはり良いとされているから無くならないのも事実ではある。そう納得はしている。


 様々な事を進行していく中で、湯灌の時間が来た。

 基本的には湯灌師へお任せする形だ。側で待機しつつ、棺を運ぶ手はずを取る。

 湯灌の際は常にすすり泣く音が聴こえるものだが、やはり今回はその時間が長く感じた。今まで気丈に振る舞っていた喪主の男性が、顔や手を清めている際に泣き崩れてしまったのだ。定期的になる鈴の音に深い悲しみを感じる嗚咽が混じり、部屋の空気全体を包み込んだのがわかった。

 もらい泣きをしているであろうすすり泣きの音が混ざる。喪主の男性の後も参列した親族が清めているが、泣き止む声が途絶える事は無かった。


 湯灌も終わり、棺へご遺体を入れ、その後祭壇へと運ぶ。

 男性は祭壇を見て回りつつ、棺の窓を開け妻の顔をじっと見つめ固まっている。この光景は気が付けば良く見かける場面となる。


 そしてお通夜の時間が近付いてきた。

 親族も続々と集まりつつあるが、普段良く見かけるような談笑をする空気は非常に少ない。皆一様に「信じられない」と口にしているのが印象に残った。ご遺体となった女性は、直前までとても活発で元気な方だったのだろうか。

 その様に親族が集まる中、一人の女性が恐る恐る会場へ入ってくる姿も印象に残っている。

 そして喪主の男性を見た瞬間、目には大粒の涙が溢れ零れ落ちる。新聞のお悔やみ欄を見て半信半疑の状態で来たんだという会話が耳に入ってきた。違っていて欲しいと願いながら来たのだという。全身から悲しみが溢れ出ているのが傍目から見ていてもわかるくらいだ。

 若すぎる死は本当に悔やまれるものだと思っているが、こういった場面を見ると改めて痛感してしまう。


 これがその個人の運命なのかもしれない。それでも可哀想だと一個人として思っても許されるのだろうか。葬儀社に勤めているのだから思う事も許されないものなのか。神や仏が本当に側にいるのならば教えて頂きたいものだ。


 お通夜の儀、それ自体は恙無く終了した。

 それまで特に接点が無かったらしいお寺の導師様なので、説法も遺族へ寄り添うというよりはご説明を重視していたのだろうと思われる。

 明日はまた葬儀があるが、一旦これで自分の役目は終わりに近付いて来た。

 喪主の男性と言葉を交わし、自分は帰宅の準備を始める。

 また明日も長い1日になるのだろう。

 自分の心にも何かしこりのような、喉の奥につかえるものがあるのがわかった。


 葬儀の日。そして、火葬場へ行きお骨となって帰ってくる日。

 早朝から準備に追われる為、自分も慌ただしく家を出なくてはいけない。歳を重ねる毎に、段々と寝起きが悪くなるものだ。……ある一定の年齢を越えると、逆に朝が楽になるのだろうか、とふと思う。

 それは兎も角、会社に着き、今日の流れの確認を改めて他の社員と行い、朝食を食べ終わっている頃を見計らって、喪主の男性の元へ向かう。

 挨拶を済ませ、段取りの確認をする。喪主というのは、本当に忙しいと改めて思う。その忙しさが救いとなっていれば良いと思ってしまうが、それは難しい所だ。

 忙しさを振っているのも自分であるというのが、些か矛盾している。

 受付の人が式場へ着いたので、喪主の男性を呼びに行く。

 流石に疲れの見えてきた表情をしているが、それでも気丈に振る舞いながら対応をしてくれているのは感心してしまう。

 もし自分が同じ立場だとしたらどうだろうか……。


 若くして妻を亡くす。


 言葉では簡単だ。だが、内容はとてつもなく困難な事だろう。実感が湧かないし、実感したくないとこの仕事をしている為なお思う。

 今後、体調を崩さなければ良いのだが……。睡眠不足や精神的なダメージ、肉体的にも悲鳴を上げておかしくない状態の筈だ。周りの人間がフォローしてくれる事を願うものだ。


 さて、葬儀が始まり、またいつもの様に導師様のご入場と読経、お焼香と式を進めていく。

 導師様が退場されれば、後は火葬場へ行く準備とお見送りだ。

 棺に花を入れ、最後のお見送りの準備となる。

 喪主から始まり、順に親族が次々と花を入れていく。その最中、離れがたいのだろう、喪主と子、母親と思われる女性だけは、人目を憚らず涙を流しながら、最後まで髪を撫でたり頬に触れたりしている。

 その母親が思い付いたように、遺髪が欲しいとの要望があった。そのくらいの願いを叶えてあげなくては、こちらの方が心苦しくなってしまう。

 喪主の男性も気が付いていなかったのか、自分の分も欲しいと願い出てくる。

 遺髪を取っている間、棺のすぐ側で佇む親族は誰一人として笑顔など無かった。無言でただじっと待っている。無言が悲しみをより際立たせているかの様だ。

 自分もその空気に当てられたのか、じわりと目に滲むものがあった。式を取り仕切る者としてあるまじき行為なのかもしれない。ただ、自分も一人の人間なので許して欲しいと思う。死別とはかくも悲しいことなのか。


 棺を閉じ、火葬場行きのバスへと積み込む準備をする。

 お見送りをして、後は束の間の休憩を取りながら待機し、後片付けの段取りをつける。

 式場へ帰ってきたら繰上げ法要を済ませ、自宅へ荷物を運び簡易祭壇を作って、今後の説明をしたら葬儀の大半が終わる。


「さ、やっと家に帰られるね。まさか骨になってると思わなかったけどね……」と骨箱を抱えた喪主の男性の愛おしそうに呟いた言葉が印象的だった。


 この仕事をしている限り、様々な状況の葬儀の形を見てきた。

 今回の様なとても痛ましい葬儀は、意外に少ない方だったりもする。主な死因は病気か突然の事故の場合が多い。

 現代は完全な高齢化社会で、やはり順番といったら言葉が悪いけれど、お年を召した方から他界することの方が多い。

 寿命や運命と言われる、人智の介入出来ないものが存在する限り、自分の仕事が無くなることは皆無だろう。

 その時その人に合わせて、故人を偲ぶ親族の心に寄り添った式を取り仕切りたいと、こういった場面で改めて思うものだ。


 心は目に見えない。

 だが、その心を見過ごすような事は無い様に心掛けていこうと思った。

読んでいただいてありがとうございます。

何かを残せていたならば幸いです。

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