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耳交換

作者: 村崎羯諦

「ねぇ、私が宮城に出張してる間だけで良いからさ、私たちの耳を片方だけ交換してみない?」


 俺の家でゆっくりくつろいでいたある日のこと、隣に座っていた明日香がいつになく真剣な表情でそう切り出した。どういうこと? と尋ねてみると、俺が出張中に浮気したりしないか心配だから、耳を片方だけ交換して、お互いの生活音を聞けるようにしておきたいのだと、明日香が説明する。


「浮気なんて絶対にしないよ」

「わかってる。わかってるけど、どうしても不安なの」

「俺もそれはわかってるよ。長い付き合いだし。だから、別に出世に響くわけでもないから数ヶ月の出張は断ればって言ってたのにさ、それを押し切ってやるって言ったのは明日香だろ」

「そりゃそうだけどさ、仕事の幅も広がるからどうしても行きたかったの」

「だからって、耳を交換することはないだろ。耳を交換するってことはさ、仕事中の話もプライベートの生活音も、交換した耳を通して全部相手に聞かれちゃうってことなんだぞ。止めた方がいいんじゃないか?」

「今だって毎日同じ職場で働いてるしさ、同じことじゃん。別にやましいことしないならそれくらいいいでしょ? ね、お願い」


 明日香が両手を合わせ、上目遣いで懇願してくる。俺は心の中でため息をつく。このモードに入った明日香は、俺が何を言っても、自分の考えを変えることをしない。心配性で俺にべったりと依存している明日香に、出張はやめた方がいいんじゃないかとやんわり提案した時だって、結局明日香は俺の意見を聞くことなく、出張を決めてしまったのだから。


 俺は諦めの気持ちのまま、渋々耳を交換することを了承した。ありがとう! と明日香が嬉しそうな表情で抱きついてくる。明日香には依存症なところがあって、疑り深い。でも、別になりたくてそうなったわけではなくて、前に付き合っていた彼氏にずっと既婚者であることを隠されていたっていう苦い経験がそうさせてしまったんだと共通の友達から聞いていた。もちろん面倒だなという時はあるけれど、それを込みで好きになった彼女だったから、これくらいはしょうがない。自分に言い聞かせるように俺は心の中でそう呟き、明日香の頭を優しく撫でる。


 そして、明日香が出張で宮城へ旅立つ当日の朝。俺たちは互いの右耳を交換した。彼女を東京駅で見送った後、俺はトイレの鏡で自分の顔を確認してみる。顔の両側についた、大きな左耳と小ぶりな右耳。見た目は確かにアンバランスだったけれど、それが明日香の耳だと思えば愛おしささえ感じる。それから、俺は目を瞑り、明日香に渡した自分の右耳に集中してみる。かすかに、新幹線の中にいる明日香が、パソコンをカタカタと操作する音が聞こえてくる。元気そうで何よりだ。俺は安心して、自分の仕事へと向かった。



*****



「昨日さ、居酒屋で藤岡さんって娘と随分楽しそうに話してたね?」


 電話越しに聞こえてくる明日香の問い詰めるような声に、俺の背筋から冷たい汗が流れる。


「楽しそうに話してたって……たまたま隣のカウンターに座った人と同じ趣味の話で盛り上がったってだけじゃんか。それに、昨日は俺一人じゃなくて、太一が一緒だってことは明日香も知ってるだろ? やましいことなんて何もないよ」

「ふーん。それにしては、声が浮ついてなかった? それに藤岡さんって娘も、健に気がありそうな素振りだったじゃん。私も女だから、それくらいわかるし」


 違うよと力強く否定しつつも、俺はまたかとうんざりした気持ちになる。耳を交換してからというもの、互いの知らなくてもいいことが聞こえるようになり、結局はこんなしょうもない喧嘩が増えてしまった。彼女がここ最近ストレスが溜まっていて、虫の居所が悪いっていうのは知っている。渡した自分の右耳から、向こうの職場で大きな問題が発生したことも、それの対応で毎日くたくたになるまで働いている彼女の苦労も、全部聞こえてくるから。だから、今までもある程度のことは我慢してきた。苛立ちを抑えて、反論一つせず、できるだけ明日香の言うことにそうだねと相槌を打つ。彼女のためだと思って俺はずっとそうしてきた。それでも、我慢の限界だった。こっちの気遣いも知らずに問い詰めてくる彼女の態度に段々怒りのボルテージが上がっていき、とうとう俺は溜まりに溜まった不満をぶつけてしまう。


「だったら、こっちも言わせてもらうけどさ。毎日遅くまで一緒に仕事してる松島って男はどうなんだよ」

「松島君は関係ないじゃん。一緒のプロジェクトに配属されてる後輩だよ」

「いや、そいつは明日香のこと狙ってるよ。休み時間に馴れ馴れしく話しかけてくるしさ、可愛いですねとか浮ついた褒め言葉を言ってくるじゃん。で、明日香も年下の男から好意を向けられて、まんざらでもないって感じだろ」

「そ、そんなことないって」

「この前食事に誘われた時もさ、きっぱり断るんじゃなくて、ちょっと気があるような返し方してたじゃないか!」

「それは職場の人だから、波風たてないようにって思って……。だったら、言わせてもらうけどさ、先週浅木さんに無理やり連れて行かれたって言ってたキャバクラ、今でも許してないからね」


 そしてとうとう、今まで経験したことのないような大喧嘩が始まった。こっちが一つ指摘すれば、あちらはまた別のことを蒸し返してくる。それに逆上してさらに違うことを引っ張り出して相手を詰める。それの繰り返し。互いの生活を知り尽くしているからこそ、相手を糾弾するネタには事欠かなかった。


「なんでそんなに明日香は疑り深いんだよ。俺のことを信用してないわけ?」

「だって……健って自分のこととか私にああして欲しいとか何も言ってくれないんだもん。何考えてるか喋ってくれないと、変なこと想像して、不安になっちゃうよ」

「それは明日香に何を言っても無駄だってわかってるからだよ。こっちが何言っても明日香は真面目に受け取ろうとしないだろ」

「何それ。私が悪いって言いたいの?」


 そして、もう口論のネタもつきかけた頃だった。俺は投げやりな気持ちのまま、衝動的にこう言ってしまう。


「もうわかった。これ以上は付き合ってられないよ。別れよう」


 明日香が黙り込む。そして、長い長い沈黙の後、彼女は小さな声でわかったと呟いた。明日香のそのかすれるような声に俺は冷静さを取り戻す。それでも。自分の小さなプライドのせいで、俺は自分の発言をどうしても取り消すことができなかった。


「私の耳、返してね。私も健の耳を明日にでもゆうパックか何かで送り返すから」

「……わかった。俺も返すよ。クール便で送った方がいいのかな?」

「そのくらい自分で考えてよ!」


 明日香が金切声をあげ、電話を切った。ツーツーという音を聞きながら、俺は自分のしでかしたことの重大さを思い知る。一人ぼっちの部屋で、俺は天井を見上げた。頭の中で、明日香と過ごした日々が走馬灯のように駆け巡って、消えていく。喧嘩やたくさんあったけれど、それでも今思い出すのは楽しかったことばかり。最初はきちんと気持ちを伝えあって、お互いのことを理解しようとしていた。だけど、いつからか俺は明日香にどこか遠慮して、自分の気持ちを言わないようになっていった。仕事が大変でひどい失恋を経験した彼女に気を遣って、いやひょっとしたら頑固者だって勝手に思い込んで、いつの間にか諦めていたのかもしれない。


「別れるのなんて嫌だよ」


 遠い宮城のワンルームで、明日香が小さな声でつぶやいた。それから、明日香のすすり泣きが聞こえてくる。俺に聞かれないように必死に声を押し殺そうとして、それでも漏れ出てしまう彼女の嗚咽が俺の胸をかきむしる。


「もう一回、電話かけていい?」


 俺は誰もいない部屋の中で独り言をつぶやいた。俺の顔の右側にくっついた、彼女の小さな右耳に聞こえるように。彼女がうんと返事をする声が聞こえてきて、俺はもう一度彼女に電話をかけた。


「さっきはごめん。言いすぎた」

「ううん、私の方こそごめん。健は前に付き合ってた人とは違うってわかってるのに、どうしても信用できなくて」

「大丈夫。それはこっちも十分わかってるから」

「耳はちゃんと元に戻そっか。別れたいって言ってるわけじゃないよ。ただ、私も自分のわがままばっかを健に押し付けて、駄目だなって思ったの」

「いや、俺の方もさ変に気を使って、自分の考えとかをあんまり伝えようとしてなかったのかもしれない。ごめんな」

「お互いの耳を持ち合っててもさ、意味がなかったというか、むしろ逆効果だったね」


 俺たちはぽつりぽつりとお互いの気持ちを話し合う。これからも仲良く過ごせるように、もっとお互いのことを理解できるように、些細なことからお互いにゆずれないことまで、全部。


「これからきちんと自分の考えてることとかを明日香に伝えるようにする」


 会話の最後、俺は電話越しに明日香にそう宣言する。ありがとう。明日香が涙声でそうつぶやく。


「私もこれまでのこと反省するね」


 どんなふうに? と俺は尋ねる。それから、明日香は小さく息を吸い、俺に対してこのように宣言する。


「これからはきちんと、健の言うことに聞く耳を持つようにするね」

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