かたつむり
私は昔、結香の部屋に泊まったことがあった。
家出をした初日は、リトルボイスで夜を明かしたのだけれど、そのあと一週間ほどは、結香の部屋に居付いていた。一緒にリトルボイスにいた達也は、明るくなる前にこっそり家に入って何食わぬ顔で今日一日を始めてみせるよ、と豪語して三時頃に店を出ていった。
達也が店を出ていったあと、マスターも、また昼に店を開けにくるからそれまでよろしく、出てくようだったら、鍵、いつものところに置いといて、と言って家に帰っていった。そのときに、寝袋と、冬から入れっ放しになっていたというコートを車の中から持ってきてくれた。私はコートを羽織って寝るから、結香は寝袋で寝て、と言ったけれど(マスターのコートにくるまってみたかった、というのもあったのだが)、結局私が寝袋を使うことになって、結香と私はそれぞれ喫茶店のテーブルの上に横になった。電気を消すと店内は真っ暗になって、店の外からの明かりがぼんやりと天井や壁に影を作った。
すごく疲れていたけれど、慣れない場所と、固いテーブルの上に寝ていたからなのか、私はなかなか寝つけなくて、寝袋の中で何度も身体の向きを変えた。車通りの多い通りに面しているからか、こんな時間でも数台車が通って、その度に天井の影がくっきり明るくなった。
「眠れない?」
隣のテーブルから結香の声がした。
私は、ごそ、と寝袋をいわせて身体の向きを変えたけれど、座席のシートで遮られていて、隣のテーブルは見えなかった。ぼんやりと暗いシートの輪郭を見つめながら、私は、うん、と言葉を返した。そうしたら、椅子の向こうでも身体の向きを変えるような音がして、結香が小さい声でゆっくり歌いはじめた。
でんでんむしむし かたつむり
おまえのあたまは どこにある
つのだせ やりだせ
あたま だせ
「なんで『かたつむり』なのよ」
私は天井を見上げながらくっくっと笑って言った。
「えー? 子守唄っぽくない? 私、今まで子守唄を歌うシチュエーションのとき、って、『かたつむり』歌ってたよ、いつも」
楽しそうに結香から言葉が返ってきた。
でんでんむしむし かたつむり
おまえのめだまは どこにある
つのだせ やりだせ
めだま だせ
今度は途中から私も一緒に歌った。結香がふふ、と笑ったのがわかった。私は相変わらず、くっくっと笑っていた。
リトルボイスに泊まった次の日、朝早く起こされた私は、結香に連れられて寝呆けながら電車に乗っていた。硬いテーブルという環境に加え、生理が始まって少なからず不調になっている身体に、やっと睡眠力のほうが打ち勝ってきたところを結香に起こされたのだ。渡された切符を確かめもせずに、早朝の電車に揺られて、眠りの淵を行ったり来たりしていた。眠りに落ちそうになっているあいだじゅう、私はずっと結香にもたれかかっていた。とても眠くて目を閉じていたので、顔を見ることはなかったけれど、結香に触れている部分が私をとても安心させてくれた。
大学にほど近い場所にある学生寮についたとき、もう少し寝る? と訊かれた。私が、寝る、と、まだ半分寝ているような声で意思表現すると、じゃ、おいで、と寮の中に連れていかれた。
結香の部屋には、ベッドと机と簡単なテーブルだけが置いてあった。
結香はテーブルの上を少し片付けたあと、その中にあった薬の袋からいくつかの薬を選り分けて、狭い部屋の中に無理矢理設置されたような、キッチンというよりも流し台と表現したほうがよさそうなスペースで、それをのみ込んだ。
「くすり?」
私はただなんとはなしに訊いていた。
「うん……、片頭痛がひどくてね」
「そうなんだ……あぁ」
流し台の前にいる結香に向かって答えながらついあくびが出てしまった。
「寝るなら、いいよ、使って」
結香はベッドを指さしながら言った。私は、いいの? と訊いてからベッドに腰かけた。大学生の一人ぐらし、ってどんな感じなんだろう。私も三年後にはこういう部屋で一人で寝起きするようになっているのだろうか。将来なりたいものもやりたい勉強も何も決まっていない私には、いまいち実感が沸かなかった。
「ねえ、結香は文学部に行ってるんだよね」
「うん、そうだけど?」
どうしたの? というような顔をした。その顔がとてもきれいで、私はいつものようにみとれてしまった。
「どうして文学部に行こうと思ったの?」
「わたし? うーん、本を読むのが好きだったからだなぁ。それだけだよ」
結香はにっこりと笑って答えると、ひと呼吸おいて続けた。「あんまりね、そういうのは悩まないでいいと思うんだ。ただ、自分のすきなこととか得意なこととかを見ればいいんじゃないかな」
「好きなこと……」
「そう、すきなこと」
結香の笑った顔はとてもきれいで、私は、抱きしめられてみたい、と思った。「私も、もうちょっと眠りたいから、つめてもらえる?」
両手で私を奥に追いやるしぐさ仕種をして、私たちは狭いベッドに、ふたりで横になった。
「誰でも、自分じゃない自分になりたい……、今の自分は本当の自分じゃないんだ、って思ってるんじゃないかな。そういう人たちがいるからこそ……、ううん、人にそういう感情があるからこそ、文学というものが発展してきたんだと思うの……。そして、文学だけじゃなくて……、映画やゲームなんか、にも、広がっていっているんだと思う……。すべての物語の存在意義、っていうのは、そこにあると思うし、そこからはじまったんじゃないか、と、思って、る」
仰向けに目を瞑っている結香の言葉は、だんだんとゆっくりになっていった。私は布団の中で結香の手を捜して、そっと触ってみた。とても熱かった。結香はすぐにそれに気づいて、私の手に指をからませてきた。
すぐそばにある結香の顔を見ると、すでにねむりのかけらが感じられて、そんななかから私を見て笑いかけてくれる結香は、とてもきれいで、やっぱり私は、抱きしめられてみたい、と思った。
結香は、いちど開けた目をまた閉じてから、そおっと私の手をにぎった。そのにぎりかたが、なぜか私を不安にさせた。まるで、これ以上ちからが入らない、といったように。
「手、あったかい」
「うん、眠いから……。手先とか、熱もっちゃうよね」
結香はそう言って、目を瞑ったまま笑った。私たちは布団の中で、ずっと手を繋いでいた。
規則正しい結香の寝息を聞きながら、私は眠りに引きずられていった。
寝返りを打とうとして目がさめた。きのうからずっと洗っていない顔が気持ち悪くて、結香の身体をまたいでベッドを下り、ぱちゃぱちゃと音をたてて勝手に顔を洗った。
結香は、目をさます気配がまったくなくて、すこし口をあけたまま無防備に眠りつづけていた。
私は、床に座ると部屋を見回してみた。本棚、すこしの本、カセットテープ、食器、ごみ箱、ベッド、そこに寝ている結香、ラジカセ、窓。カーテンをひいてある窓から日の光が漏れていて、外を覗きたいな、と思って立とうとしたとき、テーブルの上に乗っている薬の袋に目が止まった。
私は、もういちど結香を見た。すうすうと寝息をたてているその姿は、どこか不自然だった。もしかしたら、さっきの薬……。結香はわざわざ薬を飲みにここに帰ってきたんだとしたら……。私はそこまで思いいたると、テーブルの上に手を伸ばした。
袋の中にはいくつかの薬が入っていて、私は、そのうちのひとつを手にとった。白くてまるい錠剤で、銀色のシートに、緑色で0.5と印刷されている。私は、二錠ぶんを、ぱき、と折って、それを自分のポケットに入れた。
しばらく私は、ベッドに眠っている結香のことをほーっと見ていた。やっぱり結香はとてもきれいな顔をしている。そのまま固めてしまって、ずっと持っていたい。抱きしめられてみたい。
結香の顔に近づいていって、まじまじと見つめた。私になにも考えることがなくなったとき、不意に私と結香のくちびるが合った。
その瞬間、私は、自分がしたことが信じられなくて、とっさに顔を離した。
「あやめ」
結香が目を瞑ったまま、そっと私の名前を呼んだ。私は、結香が言葉を発したことに、すごくどきどきした。気づかれていたのか、それとも私のせいでいま起きてしまったのか。結香は私のしたことには気づいているのか。
「おいで」
結香は目を瞑りながら、とてもやさしい顔をして、でもすこし眠たげに私のことを呼ぶと、両手で私の頭を抱えて、自分の胸に押しつけるようにした。髪を撫でてくれている結香の手を感じて、どきどきがおさまらなかった。
そのまま、ベッドサイドから、寝ている結香の胸に顔をあずけて、一緒に『かたつむり』を歌った。身体をとおして直接私の頭に響いてくる結香の声にとてもほっとして、私はまた眠りに落ちていった。