不具
そのまま一行の方へ歩いてきたジェイルは、特に怪訝な顔を隠そうとしないサーシャの視線から顔を背けるように素早くザックを拾い上げる。
「──すまない。すぐに追いつく」
ラーズ達に目を合わせないまま、ジェイルは言う。
「──何か計算違いがあったってことか?おれは、強けりゃ細かいことはどうでもいいけどな。というか隊員として欲しすぎるが…おい、チビちゃん、一旦一緒に来な」
「わたしか?」
ラーズは、さしたる動揺もなくアリアを呼ぶ。その落ち着いた様子は、先程馬車の中での騒動の時とは違い、リーダーとしての懐の深さを感じさせるものだった。
若さゆえのムラはあれど、猛者を束ねる者の資質は確実に持っているようだ。
アリアはその呼び名が気に入ったようで、機嫌良さげに微笑みながらラーズの近くまで歩み寄る。
「陽が落ちるまでそんなに間もない。最初の予定通り、次の地点でキャンプを張る。早く来てくれよ」
ラーズはそう告げ、一行は出発した。
「とは言え…」
ヒューズが大きなため息と共に洩らす。
「アリアちゃんには悪いけど、あたしもう無理だよ。ちょっとおかしいじゃんアイツ。バーサーカーだよバーサーカー」
弓の名手とは言え、パーティの最年少である二十一歳のサーシャが、このような口調になるのも無理はなかった。
「めちゃくちゃ強いのには文句はないけどさ、あのメスの鎧竜、あそこまでされるほど悪いことした?さすがにやりすぎじゃない?」
「サーシャ…!」
珍しく強い口調で遮ったのは、普段は飄々(ひょうひょう)としているヒューズだ。
彼は目配せをしてサーシャの目線を、先程から黙ったままのルチルの方へと向かせる。
「あ…ごめん、そんなつもりじゃ…」
「昔の話だ。もう余り思い出せることでも…ないしな」
サーシャの焦燥に、ルチルは感情を押し殺して答える。
その瞳は、一行の進行方向の虚空の一点を見つめている。
「忘れられてりゃ、あんな怖え目でさっきの鎧竜どもを見ることはないだろうよ」
ラーズも前を向いたまま、ぶっきらぼうに言う。
「──そうか、あの種に特別な恨みがあるのか、ブラウンエルフのルチル」
突如会話に加わったのは、黙って同行していたアリアだ。
その表情は、先程までの柔らかな少女のものではなく、見た目の年齢とはかけ離れた、こちらを見透かすような雰囲気があった。
皆が少々面食らう中、彼女は意に介さず続ける。
「なるほどな、ここまで酷い怨みとなると…──あの種に大切な誰かを、殺されたな?」
唐突で無遠慮。
その一言に、一行の歩みもピタリと止まってしまう。
ラーズ隊の面々だけが知っているであろうルチルの内面への深い踏み込みに、若きリーダーは、またも頭に血が上りかけてしまう。
「このクソガ…!」
「ラーズ、構わない。この子はおそらく、そんなつもりでは言ってない」
ラーズの激昂を冷静に抑えつつ、それと反するある種の心の勢いに任せて、彼女は告げる。
「そもそも私がラーズ達に同行しているのは、オルディウム発生の起源と、その原因を探る研究の為だ。そして、そもそもの動機は、アリア。あなたの言う通り、私の家族みんながオルディウムに、鎧竜の亜種に殺されたからだ」
「やはり、そうか」
アリアが少しだけ俯きながら言う。肩甲骨の下端辺りまで届く、艶のある銀髪が顔にかかり、その表情を伺うことは出来ない。
「──酷い殺され方だった。父さんはアトラスではそこそこ名の知れた術師だったのに。だから、そこらのオルディウムなんかに遅れを取るはずがなかった。
でもそいつは、見た目は同じでも、火炎術式が効かない変異種だったんだ。父さんも母さんも、まだ小さかった妹も、みんな、達磨にされて腸からっ…!」
「──もういい、無理するな」
ルチルの俄かに昂ぶる感情に、ラーズはルチルの肩に手を置き、それ以上の発露を制止する。
「そんな訳だからねぇ、お嬢ちゃん。理由は知らないがあんまり人の心に踏み込むのは、感心しないね」
十字槍を杖代わりに体重を預けながら、ヒューズがアリアを諭す。
しかし当の本人は、それが聞こえていないかのように続ける。
「生きるというのはなんとも、悲しいものだな──まあ、あいつの過去も、相当なものでな」
「……」
深呼吸し、落ち着きを取り戻したルチルは、黙ってアリアの言葉を聞く。
「こう見えてわたしは、結構長く生きているんだが、未だに人の心がよくわからない。だから、こんな事を頼むのもおかしな話だが、よければあいつに良くしてやってくれ……どことなく、似ているしな…」
にこりと穏やかに微笑みながらそう言うアリアの今の表情は、少し大人びた十代の少女にしか見えない。
「そうか──アリア、君も亜人種という訳か」
先述の通り、亜人種は厄災後に発生した人類によく似た種族で、その大半は人類と共生している。
しかし、限られた国、地域でしか生活していない種族も珍しくはなく、アリアはそのいずれかの、外見は人に非常によく似た、しかし肉体の成長は人類と比較して著しく遅い、白髪赤眼の種族なのだと、ルチルは解釈した様子だった。
「サーシャ。確かにあの人は怖い。あんなに強くて怖い人、私は見たことがない。でも、馬車の一件で、過度に挑発されても一線は越えなかったこと、私たちよりも付き合いが遥かに長い、亜人種の女の子がここまで信頼していること。それを考えたら作戦の為にも、もう一度お互いに腹を割って話す必要があると思う。また私が行こう。みんな予定通りキャンプの地点で待っていてくれ」
「未熟と言うしかない、すまなかった」
数百メートル先の山の麓の辺りをぼーっと眺めながら、背後から近づく気配を察したジェイルは、ルチルに背中を向けたままで言う。
先程と変わらずその半身は、青い血に塗れていたが、纏っている殺気が皆無の為、オルディウムと戦ったことのない者からすれば、イタズラで青の塗料をぶちまけられたマヌケな大男にしか見えないだろう。
ルチルはそのまま会話出来る距離まで近づいてから、少し申し訳なさそうに言う。
「実は、あなたの過去に辛い事があったと、聞いてしまった。さっきのもそれに関係が…?」
「……アリア、余計なことを…」
ジェイルは溜息を吐きながら呟く。
「誤解せずに聞いて欲しいんだが、あの子は言いふらしたのではなくて…」
「理解している。あいつなりに自分を励まそうとしてくれたんだろう。実際、君が来てくれたからな」
ジェイルは一呼吸置いてから、独り言のように小さく続ける。
「…制御が難しくなって来ている…」
「…?」
「いや…こちらの話だ」
「──聞いてしまったから言うわけではないけれど…実は、私も…」
それに被せるように、ルチルが自らの凄惨な過去を曝け出そうとするのを雰囲気で察したジェイルは、それを手で制する。
「あー、すまない。少し待って欲しい。気持ちは本当に有難いが、いくらなんでもお互い、初対面の相手に安易に聞かせていい話題ではないと思う。それに、こちらが迷惑をかけている現状では、その気遣いが逆に心苦しくなってしまうだけだ」
ジェイルは、種族としての性質を考えても、特に真っ直ぐなルチルの目を見ながら、ほんの一瞬、感慨深げな表情を見せた。
「しかし、お互いにこの話の続きはこの任務が終わった後、また縁があれば気の済むまでしよう」
ルチルは、自らの歩み寄りを拒絶されたと思い、悲しげな瞳をしていたが、そうではないと分かったことであからさまに安心したようだった。
「よかった。ジェイルが協力してくれれば、この任務も被害なしで終われそうな気がするよ」
揃って目的のポイントへ歩き出しながら、ルチルが嬉しそうに言う。
「…ああ、そうするつもりだ」
それに対しジェイルは、この作戦中に見せたことのないような、憎悪に満ちた表情でそう返答した。
しかし、真っ直ぐ目的地の方を見ながら歩いているルチルは、それに気が付く事はなかった。
標的
二人がキャンプ地点に到着した時、ジェイルにとっては少々、頭の痛い事態へと発展していた。
「面白え、おチビちゃん!確かに、剣を振るう時にほんの少し、右に振りにくいと思っていたそういうことか。重心が乱れてるってことか」
「そうだな。ラーズは鍛錬時に恐らく得意な型だけしがちなのではないか?故に、筋肉量にも相当左右差が発生しているから注意だな。それで脊柱にも負担が掛かってる。右脚も、踏み込み時の負荷で関節と腱が傷付いてるし、鍛錬のし過ぎで回復が追い付いてない。定期的に湯治でも行って休んだ方がいいぞ」
「次はおれだ、お嬢ちゃん。この槍…とあるルートで譲り受けた業物なんだが、実は時々、紙一重で相性が合わないんじゃないかと感じる時がある。確かに、素晴らしい槍なんだが、現状より上を目指すなら、替えた方がいいんだろうか…」
「ヒューズは武芸全般が達者と見える。でもな、肝心な槍の鍛錬、本当に突き詰めていると言えるか?なまじ武術全般を修めてしまっているが故に、違和感と向き合わずに他の鍛錬に逃げる癖があると思う。身体に合う合わないじゃなく、一流を超えたいならもっとヒューズがその槍と向き合うことだ。この十字槍なら、応えてくれる」
「…アリアちゃん本当、先生みたいだね……あたしはね、本当はもっと強い弓を引きたいんだけど、師匠にはこの弓が骨格と筋力の限界って言われちゃってて、それがすごく悩みで…あ、帰ってきた」
アリアが何かの講師のごとく、少女の見掛けには相当に不似合いな内容の講釈を、得意気に垂れているところだった。
ラーズは少し離れたところで早速、大剣を抜刀して虚空に向かって斬りつけているし、ヒューズはおもむろにその場で座禅を組み、神妙な面持ちで何やらぶつぶつ独り言を漏らしながら、槍を見つめている。
「アリア」
「サーシャ、それならばいい方法がある。ここアトラスから遥か西のデパス王国は知っているな?その東隣の小国ケルゼアの軍技術部が、ロストアームズの中では相当クラシックな部類に入るが、遺跡から発掘された弓の複製に成功してな」
「…アリア」
「関所を抜ける際に、隣国の情報共有と、軍部の不手際をサッと解決してやったおかげで司令部に招かれて設計図を見せてもらった。化合弓という代物でな」
「…」
「敢えて偏心させた2つの滑車の働きによって、例え引き手が同じでも、安定性や矢の初速が著しく向上すると聞く。ゼルは弓が下手くそでやらんから現物はないが、安心しろ。設計図は私の頭にしっかり入ってる。この任務が済んだらアトラス城下町のランドール武器工房で作らせよう。あそこの頭領は頭が柔らかいからきっと名品が出来るぞ」
「…すまないルチル。川で汚れを流してくる」
ジェイルが、埒が明かないとザックを素早く地面に降ろし、再び一行に背を向けたその時。
「あっ、ゼル。待ちわびたぞ。私も行くからな」
何事もなかったような顔でアリアが言った。
辺りはもうすっかり夕暮れだ。一行が馬車から降り立ったのが午後1時過ぎだったから、おおよそ4時間は経っていることになる。
ジェイル達がいるのは、キャンプ地点から徒歩5分程度の河原。
すぐ近くの手頃な大きさの岩に双剣を立て掛け、外套を取り外し、山岳地帯特有の尖った冷たさの清流で大まかに洗い流してから、全身の大部分を覆った薄手の板鎧と、顔や頭部、腕の裏側などの露出している部位を、濡れた外套を使って物のついでと水洗いしてしまう。
「ゼル、悪かったと言ってるだろう」
水飛沫がかからない程度に距離を置いて少女は弁解する。
「自分は別に悪いこととは思っていないが、この任務限りで会わない者達だ。何よりも今回は間違いないんだろう。あまり距離を詰めない方がいい」
「そんな、ケチくさいことを言うな。少しの話ぐらい良いだろう。皆、ゼルの師がわたしだと聞いて大層驚いていたからな。それから講義を開いてあげた訳だ」
「そんなことまで…」
鼻高々で話しながら、アリアは沐浴が完了したジェイルに、厚手で起毛された手拭いを差し出す。
ジェイルが不服そうにそれを受け取り清流ですすぐと、アリアはおもむろに着ている服を脱ぎ始める。
少女特有の華奢な骨格に、全体的に薄くしなやかな筋肉が付いている。脂肪は殆ど付いておらず、肌は透けるように白い。
しかし、そんな少女特有の中性的な美しさも、彼女の胸部から顔を覗かせる、巨大なルビーのような深紅の宝玉が放つ違和感が、すべて台無しにしてしまっている。
それは恐らくは外科手術等で後から埋め込まれたものには違いなかったが、それは現代の医療では到底不可能な水準の技術であり、その目的がピアスや刺青等のファッションの為ではないことだけは、誰の目にも明らかたった。
「…」
ジェイルは自身の身体を拭くよりも手拭いを固く絞り、ジェイルはアリアの身体を拭き始める。
「冷たいな」
「…そう言われても困るというか、いつもいつも同じことを言うが…自分は、お前の言う事には逆らわないんだから…たまにはこっちの言い分も聞いて欲しいと思っている。というか本当に、頼むから自分でやれ…」
語尾が消えるほど溜息を吐きながらジェイルがアリアに懇願する。
「依代を清めるのも神子の務めだ。ん、手が止まってるぞ。特に背中は念入りに頼む。ほら、集中しろ」
「」
ジェイルはげんなりしながら、手拭いを何度か絞り直し、その度にアリアの全身を丹念に拭き上げていく。
やがて沐浴が済んだ二人はキャンプ地へと連れ立って向かう。ジェイルはキャンプ地が近付くにつれ、真剣な面持ちへと戻っていく。
ジェイルには、ラーズ達にまだ話していない事実があった。
傭兵部隊とは言え、何故わざわざ民間仕様に偽装した馬車を使う必要があったのか──
それは、この作戦の全容が、単なるオルディウム討伐に留まらない可能性があったからだ。
やがて日が落ちた頃、各々が焚き火を囲み、ザックの中から携帯食料を取り出し食事していると、数分前に何処かへ出掛けたサーシャが戻ってきた。その手に下げているのは、前脚の付け根辺りを真横から貫かれた痕がある二羽の兎。
「どれだけ短時間で、しかも何で夜に獲れるんだよ。やっぱりサーシャすげえ。おれは片目だから尚更無理だわ」
サーシャが獲物をヒューズに手渡すタイミングで、ラーズが驚嘆の声を上げる。
「ウサギを獲るなら夜の直前が一番って決まってるからね」
サーシャがさも当然という様子で答えると、ヒューズは懐から小振りのナイフを取り出し、手慣れた様子で捌き始める。
「それに──アリアちゃんに期待しすぎるのも良くないけどさ、近々こいつともお別れかもって思うと、出来るだけ使ってやりたくなってさ」
サーシャは背負った黒い強弓を慣れた様子で左手に持ち替え、繁々(しげしげ)と眺めると、感慨深げに言う。
「いつも通りいい腕だ。狂いなく心臓を撃ち抜いてる。明日も同じように頼みたいね」
手際良く兎達の皮を剥ぎ、可食部ではない内臓や骨を、予め掘っていた穴に放り込みながら、ヒューズが言う。
飛行する大型オルディウム、しかもそれを複数相手にしなければならない場合、不可欠なのは遠距離攻撃を連続で行える能力ということに尽きる。
単純な威力だけなら、複数の高位魔術師による電磁投射術式に敵うものはないが、礫の飛翔速度が音速を遥かに超え、耳障りな衝撃波が発生するのは避けられず、連発も難しいため、今回のような複数の目標を無力化する任務を成功させる見込みは高くないと言える。
しかし、サーシャほど卓越した腕があれば、標的が複数であっても、気づかれる前に風下から一方的に撃破することも可能となる。
通常、飛行型オルディウムは異常に発達した翼と胸骨を持っている為、なまじ心臓や肺を狙ってもいずれかで弾かれてしまう。
しかし今回、サーシャの存在と、ジェイルの卓越した戦闘能力、そして王国から貸与されたある装備により、かなり有利な条件で戦えるとラーズは踏んでいた。
それはアトラスの国立科学技術部がアトラス領土の飛地の島々を調査し、発見に至ったある生物の分泌物。
それは先史ではコノトキシンと呼ばれていた物質で、アンボイナという名のイモガイの一種から取り出された非常に強力な神経毒だ。
現地の島民の間では知らぬ者がないほど恐れられているこの貝だが、意外な事に近年まで王都の研究者達には知られていなかった。
正式に知られたのはおよそ十年前、現地に派遣されたある軍人が、海洋生物の基礎知識を有していたお陰で上層部に報告が行き、後日王都の調査隊が向かったところ、現地入りした当日に複数発見されたという。
もっとも、現在の科学の水準では精製もままならないので、サーシャが使う矢は、複数のイモガイから取り出した大量の毒液をそのまま対象に撃ち込めるよう設計された代物となっている。無論、矢の重量バランスにも細心の注意が払われており、通常の矢と変わらぬ命中精度と飛距離が保たれている。
コノトキシンは末梢神経に働く毒であり、例えサーシャの狙いが逸れ、急所を外して半矢になったとしても、しばらく経てば、例え大型オルディウムであろうと昏倒するに違いない。
そこで毒が代謝される前に、息の根を止めるのが他のメンバーの仕事となる。
被害に遭った村人の話では、飛行型オルディウムの数はおよそ五体。そして巣の場所もおおよそは見当がついているとのことで、地図にはその地点が赤く記されている。
ヒューズは6本の細身の投げナイフに兎の肉を刺し、焚き火で炙る。そして表面が良い色に焼き上がったところで、別の山岳地帯で採取しておいた岩塩を削ったものを適量振りかけ、ラーズ達に配る。
それを頬張りながら、『ヒューズが料理した肉は格別に美味い!焼き加減が最高だ』『いやそれもだがサーシャの腕があってこそ。でもこの岩塩を選ぶセンスは素晴らしいだろ?』などと騒いでいる。
アリアも同じく周りのペースに合わせて食べているが、皆が盛り上がっているのを黙って見守っている。ジェイルも物憂げに何か考えているようだ。
騒がしかった晩餐も終わったところで、ルチルが索敵術式を辺り一面に施す。
ルチルの杖の先から柔らかな淡い光が辺りの空間に広がり、地中に潜ると、一瞬だけその円状の有効範囲が光る。
その半径は、おおよそ60―70メートル程。
通常の魔術師の同系統の術式有効範囲は、半径30メートル程なので、ルチルはやはり、相当に優れた魔術の使い手なのだとジェイルは実感する。彼がこれほど優れた魔術師と作戦を共にしたことは、今までに一度しかなかった。
「さあ、食うもん食ったし、明日の作戦に備えて休むとするか」
「──少し待って欲しい」
ラーズの提案を遮ったのはジェイルだ。
「皆にはまだ言っていないことがある。大事なことだ。場合によっては、撤退も有り得る」
午前5時頃、まだ辺りが暗い内に、部隊一行は荷物をまとめ出発した。
予測ポイントまではここからおよそ4時間後に到着する。夜行性である標的は、おそらく狩りを終え、巣で休んでいることだろう。
大型オルディウム。その厳格な定義がある訳ではないが、体長や体高が4、5メートルを超えるものをそう呼ぶことが多い。
今回の標的である飛行種の大型オルディウムは、猛禽類が急激に進化した怪物とされている。
その姿を目の当たりにした者によれば、平均的な個体でも、体長実に4メートル。そこから推測される翼の両端の距離は優に10メートルを超える。
鳥類らしく、体重はその体躯に見合わず1トン前後と予測されるが、人類からすればその戦闘能力は圧倒的だ。
予測通りの体重であれば、矢一本に仕込まれた毒液の量で十分に致死量の筈だが、オルディウムは通常の生物と比較して毒への抵抗力も格段に強い為、決して油断は出来ない。
奇襲の際、光の屈折率を変える魔術をルチルが施すことで、射手のサーシャの位置を隠匿する。
5、6体とされる今回の目標であるが、サーシャが一度に狙撃可能な目標数となると、ルチルの魔術支援を加味しても3、4体が限度だろう。近接攻撃要員だけで1体は正面切って仕留め、なおかつサーシャが急所を外した個体の排除も同時に行わねばならない。
夜行性であるということは、必ず日中に活性が落ちる時間帯がある筈だ。オルディウムと言えど、無限の体力がある訳ではない。
しかし先遣隊の作戦が昼間に行われたにも関わらず、壊滅の憂き目に合わされていること。
加えて、いくら大型オルディウムとは言え、十分に対策した筈の王国軍の部隊16名が全滅した事実を考慮すれば、敵の戦闘能力はこちらの予測を超えて高いという事になる。もしかすると群れの中に、飛び抜けて強力な個体が紛れているのかも知れない。
無闇矢鱈に突撃するようなことになれば、そのまま先遣隊の二の舞になりかねない。
もしもの時には、リーダーであるラーズは速やかに戦略的撤退を選択する必要があった。
作戦展開予測地点までおよそ1キロの地点。地図を懐中へ仕舞いながらラーズが小声で指示を出す。
「よし、皆ここで止まれ」
局地的に存在する針葉樹林。ここを抜けた辺りに標的はいる筈だ。
ヒューズは皆の荷物を預かった後、ロープを使い地表から数メートルの高さの木の枝に吊るす。作戦の成否に関わらずこのポイントで落ち合う為の目印となる。
「いよいよだな、各々気を引き締めていけよ」
何故かアリアが隊長のような発言をする。その表情には相も変わらず緊張感はない。
「ジェイル。昨晩の話、未だに信じられないんだが…本当にそれでいいんだな?」
あくまで小声でヒューズが問いかける。
「おそらく間違いない。すまないが皆、言った通りに頼む」
ジェイルの念押しの一言に、アリア以外のメンバーは緊張した面持ちで頷いた。
開戦
その瞬間、感情はただの足枷となる。
もしも外したらどうしよう、獲物が動いたらどうしようという類の心配は、考えるだけ全く無意味なことだ。今までに気の遠くなるほど繰り返して来たように、ただ、中たるように射る。
それだけで、すべては解決する。
サーシャの一家はアトラス東部に広がる森林の集落で、綿鴨を狩って生計を立てている。
サーシャが初めて獲物を狩ったのは、僅か7歳の頃。
その得物は、師でもある彼女の父が手ずから、イチイの木を削り出して設えた張力13キロの弓だ。
これは成人男性ならば問題なく引ける重さだが、まだ小さな子供には明らかに不釣り合いな代物。
それを彼女に与える父も父だが、なんとサーシャはそれを苦もなく引き切り、たった数日の訓練の後に、見事に綿鴨を射抜いた。
もっとも、彼女の一撃だけでは流石に仕留めきれず、父が直後にとどめを刺したのだが、その見事な結果に、普段は寡黙な父も大層喜んだという。
何代にも渡って猟師として生きてきたサーシャの一族には、生まれながらにして非凡な弓の才能が備わっていた。それは、進化と言って差し支えのないほどに。
しかしサーシャは、女なんだからもう弓は止めろという、一部の親戚の心ない声に嫌気が差し、女でも男よりも優位に立てると証明する為、数年前から単独で傭兵を生業として生き始める。
そしてある任務に纏わる縁から、ラーズ隊へ厄介になることになったのだった。
サーシャとルチルは、靴を脱いで素足になった上で細心の注意を払い、木の陰に隠れながら、目標地点までおよそ200メートルまで慎重に近付く。そこまで視力の良くないルチルにも、木々の隙間の向こうに聳える、巨大な黒い塊を確認出来た。標的たちは折り重なって眠っているらしく、ほぼ動きがない。
サーシャにとって、単に命中させるだけならば容易い距離だが、複数の強大な怪物相手となると、強化術式で補強した矢尻で急所を正確に射たとしても、表層を貫けるかどうか怪しい。
そこでギリギリの所まで、慎重の上にも慎重を期して距離を詰めていく訳だが、ある地点で、これ以上は危険だという共通の感覚が、二人の胸中に俄かに迫り上がる。
標的までの距離はおよそ150メートル。
ルチルが目で合図を送り、無言で隠匿術式を展開する。光を屈折させ捻じ曲げることで、ゆっくりとした徒歩の速さでしか移動出来ない事、効果持続時間が最長十分程度という条件はあるが、二人の存在は最早、何者にも感知不能だ。
二人はなおも、ゆっくりと標的に近付いていく。
ここまで来れば、ルチルの目にもはっきりと標的が見て取れる。この距離でも相当な迫力だ。
幾度となく死線を潜って来た二人であったが、これ程までの緊張は味わった事がなかった。
ルチルの首筋を冷や汗が伝う。
距離およそ50メートル。森林がちょうど開けた空間に彼等はいた。
目標の群は、やはり眠っているらしい。これは僥倖だ。
その周囲には哺乳類の毛や衣服や鎧の破片が散乱し、夥しい量の血痕が残されていた。
サーシャ達の位置から確認出来るオルディウムは、4体のみ。
しかし、そのいずれも頭部か首筋を露出させている。
──この距離ならば、抜ける。
そう確信したサーシャは、先行するルチルの肩にそっと手を置き、木の陰にしゃがませ、数秒の内に呼吸を整える。
中てると決意した瞬間、感情はただの足枷となる。
外したらどうしよう、獲物が動いたらどうしよう、それらは考えても意味がないこと。
ならば、ただ外さないよう射る。
それだけで、全てあるべき所に落ち着く。
そして流れるような動きで、矢を番え、弦を引き絞った時。
彼女はもう、何も考えていない。
黒い強弓から放たれた最初の矢は、ほぼ直線の軌道を描きながら、木々の隙間を切り裂き、サーシャから見て一番遠い地点で眠っていたオルディウムの左瞼ごと眼球を貫通し、脳を損傷した。
コノトキシンは、生物の筋肉や呼吸器に特に重篤な作用を及ぼすので、仮に即死を免れたとしてもそれがダメ押しとなるに違いない。
続いて、最初の矢が着弾するよりも早く放たれた矢は、サーシャから二番目に遠い位置にいた若いオスのオルディウムの首筋へと吸い込まれる。
またも驚異的な精度で硬い羽毛部分を避け、なおかつ矢尻部分を、動脈まで穿孔させることに成功した。
いかに奇襲に不慣れなオルディウムとは言えど、本能的に危機を察したメスの個体が警戒の声を上げようと嘴を開いたその時、3本目の矢が口内を貫き脳へと至る。
苦痛の声を上げ、激しくのたうち始める同胞たち。
最後のオルディウムは、もう完全に襲撃者の存在に気が付いている。はっきりと知覚出来た風切音。
──これは人間の弓兵の仕業だ。
すべてのオルディウムに共通することであるが、異常なほど旺盛な攻撃性と加虐性の他、種族によって違いはあるものの、それぞれの進化元の生物よりも高度な知性を持ち合わせている事も珍しくはなく、これがオルディウムの脅威に拍車を掛けている。
最後のオルディウムは全身を瞬時に強張らせ、逆立った羽毛と強靭な筋肉で、全身を守る鎧を形成した後、その驚異の視力で、矢が飛んできた方向を索敵する。
しかし肉眼で2キロ先の兎をも正確に探し出す眼は、襲撃者の姿を捉える事が出来ない。
彼がその不自然さに気付いたその直後。
言葉を持たない彼の最期の思考を、無理矢理に言葉で表現するならば…
『なんだこの黒い点は?大きく、大きくなる…』
サーシャがオルディウムに向けて放った一撃は、彼の眼球の中心を恐るべき精度で捉えた事で、その距離感を掴みにくくし、彼に回避行動を起こさせなかった。
特製の鏃は、初めの1匹と同じく、彼の眼球の中心を抜けて脳に到達、同時に大量の毒液を溢れさせながら静止した。
「よし!」
ラーズが思わず声を上げながら、抜き身のグレートソードを背負いながら全力疾走する。
そのすぐ背後をヒューズとジェイルが続く。
「見事だ!」
ジェイルも珍しく感情を込めて声を上げる。
近接戦闘において鬼神の如き強さを誇る彼ならば、弓もある程度は修めていて当然だったが、弓の練度だけは、王国軍の兵士の平均を大きく下回ってしまう。
引く力加減が分からないというのが主な理由だが、兎も角、ジェイルは自らに不可能な事を成すサーシャを、素直に賞賛する。
奇襲開始の際、近接武器の3人は標的の風上に侵入しない様、細心の注意を払いながら、サーシャ達とは別の、目標から100メートル程の地点まで回り込んで待機していた。
サーシャ達から見て右手側の木々の影だ。
そして最後の弾着を確認した瞬間、スリーマンセルで確実に標的の息の根を止める為に突撃する。
自身の精神の未熟さも相俟って、馬車の中で思わぬ牽制をされてしまったが、ラーズもまた、数々の戦いを生き延びてきた歴戦の猛者だ。
通常、グレートソードと呼ばれる大剣は乱戦用の武具であり、実戦で使われることはほぼない。
その重さの余り、隙が大き過ぎるからだ。
そんな扱い難い武器をラーズが好んだ理由は、彼の体幹の異常な強さにあった。
勿論、斬撃に不可欠な握力、手首の頑強さ、上腕の筋力、股関節の柔らかさ、大腿と脹脛の瞬発力、様々な要素でラーズは並の剣士とは一線を画している。
しかしそれだけでは、グレートソードを振る事は可能でも、自分より大きな敵を『斬る』ことは難しい。
彼は常人には考えられない程、強く大きく発達した脊柱起立筋と腹筋群の出力を巧みに利用することで、通常の剣士が振るう片手剣の剣速で、大剣を扱える境地に達していた。
「おおおおおおおお!」
裂帛の気合いを込めてラーズが斬撃を繰り出す。狙いはサーシャが首筋を射た2匹目のオルディウム。
動脈に猛毒が注入されていようと矢傷自体は軽傷なので、やはり毒が作用するまでの僅かな時間は、恐ろしい脅威であることに変わりはない。
予期せぬ襲撃者達を上空から迎撃しようと、羽ばたき始めたオルディウムの左翼の真ん中辺りへ、容赦ない一撃が加えられる。
ズドン!
翼ごと断ち切る事は不可能だったが、人間でいうところの前腕部の骨、橈骨を両断した。
これでこの個体が飛び立つ事はない。
「ヒューズ!」
翼へ深く食い込んでしまった大剣を引き抜くと同時に、オルディウムの巨大な嘴によるラーズの頭部を狙った反撃を、膝の『抜き』により紙一重で躱しつつ、ラーズが叫ぶ。
「──今終わる」
ラーズのすぐ頭上から答えるのは、十字槍を両手で携え、高く跳んだヒューズ。
体長4メートルの巨体とはいえ、嘴で人の頭部を狙った攻撃を出せば当然、背骨を曲げ、まるでお辞儀をして頭部を差し出している様な格好になる。
そうした体勢で、オルディウムは正に今、空中からこちらへ向けて必殺の一撃を繰り出そうとしているヒューズを見つめる。
しかし、いくら鮮明に捉えられていても、この体勢から何らかの動作を行うことは、もう不可能だ。
その優れた視力は、十字槍の切っ先が自らに真っ直ぐ迫り、頭蓋内へ侵入して来るその瞬間まで、正確に機能し続けた。