イントロダクション
誰しも眠りに誘われるような、穏やかな日差しの昼下がり。
ここは湖のほとりに建つ煉瓦造りの一軒家。
育ちの良さそうな亜人種の少女が、窓から差し込む陽光の下、無我夢中に古びた本を読んでいる。
その熱中ぶりは、少女にとってそれが大のお気に入りなのだと理解させるのに充分だった。
表紙には現在では使われていない古い言葉で、【記録】とだけ題されている。
著者名は空白。
そしてその本文もまた、今は失われた言語だ。
──曰く、かつて総ての生命の頂点に君臨した王がいた。
王は多くの人々の願いと共に訪れ、乱れた国々を平定し、それまで誰も成し得なかった、八紘一宇の世を実現した。人々は安寧の下、永遠に幸せに暮らすものかと思われた。
しかしそれは、唐突に終わりを告げる。
西暦2645年。
突如として王の怒りが心頭に発し、王の軍勢が臣下である筈の人々を、その圧倒的な武力で蹂躙し始める。
その理由は、人の持つ、様々な負の感情──恨み、妬み、嗜虐心。
王の優れた統治下であろうとも、それらを根絶出来なかったからだという。
聡明な王は始めは大層心を痛め、策に策を講じ、何年も何年もその為にその叡智を総動員して努力し続けた。
しかし遂にそれは能うことはなかった。
王は聡明な故に、それを理解してしまった。
どれほど永い時を待とうと、どれほどの試行錯誤を繰り返そうと、人間が人間である以上、それが絶対に不可能であることを。
そして王と信奉者の狂科学者達が作り上げたのは生物の、取り分け知能の高い人間のネガティブな感情を燃料に稼働する『祟り神』と呼ばれる大量殺戮兵器だった。
そうして製造された、いくつもの祟り神は各地への進軍し人々の悲しみや苦しみ、そして絶望を糧に加速度的に勢力を強めた。
王に統治されたことで大半の武装を解除して久しい人類は、残された僅かな兵力で懸命に対抗するも多勢に無勢、終始劣勢のまま種としての滅亡へと追いやられていく。
そんな中、当時の全人口の30パーセント、およそ28億人もの人々が死に絶えた頃、これに異を唱えた王の身内が、たった一人で反旗を翻した。
優れた王の血族とは言え、その数はたった一人。鎮圧されるのも時間の問題かと思われた。
しかし、神出鬼没な反逆者は王の手をするりと掻い潜り続け、王の兵力を少しずつ、確実に削り取っていった。その主力であった祟り神もが、一つ一つ活動を停止させられていく。
一向に反逆者の姿を捉えられない事実に苛立ちを募らせた王は、 反逆者の潜んでいるであろう座標を、土地区画ごと焦土に変えるという荒業で迎え撃つ。
結果、地表は削れ、変質し、不毛の地が広がる──
争いは留まることを知らず激化の一途を辿り、戦火は生き残った人々をも少しずつ確実に焼き尽くしていく。
そして地上の大半が灰燼に帰してからも、気の遠くなるほど繰り返された戦局の果て、ついに反逆者の剣が、暴君の喉元に届く時がやってくる。
その時、追い詰められた王は───
煉王暦三三八年十月 デパス王国領内 『果ての神殿』地下一階
「──ああ…殺す…」
暗闇から怨嗟の声が聞こえる。
「…許さ…、あああ…殺す、殺す…絶…殺…やる…」
前のめりに倒れ込んでいる声の主は、全身に大小無数の傷を負った血塗れの大男だ。
その傍らには、何か鋭利な刃物で切断されたであろう、男の右前腕が落ちている。
真っ暗闇の神殿の中、男が持っていた携帯照明の光が、流れる夥しい血に反射している。
この出血量なら、致命傷に違いない。
「──残らず…首を…!」
そして、そう毒づく男が手を伸ばす先には、男のものとは違う、異常に粘度の高い血溜まりがもう一つ、石畳を染め上げていた。
それはちょうど、小柄な人間一人の身体を極限まで絞り上げたような───
男は砕けんばかりに歯を食い縛り、残った左手に渾身の力を込め、床から拾い上げた独特な形状の大型マチェットを石畳の地面に突き立てる。
ガチッ!
石畳の表面から橙の火花が派手に散り、深い憎悪と、自身の血に染まった男の貌を照らし出す。
マチェットというものの、石畳に突き立てられたブレード部分には、刃がほぼ残っていない。
更にその高炭素鋼の刀身は、全体が高温で瞬間的に融かされた後、冷えて固まったかのように、泡立ち波打っていた。
握り締める柄部分の木材も黒く炭化し、今にもバラバラに砕け散りそうだ。
男はそれを杖に立ち上がろうとする。
しかし、その脚からは既に力が失われ、地を踏みしめる役割を果たすことが出来ない。
そうして中途半端に上半身だけを伸ばしたまま、派手に前のめりに倒れ込んでしまう。
その際にも顔を庇うような動作は一切なく、尖った石畳の縁によって、頬に新たな傷が刻まれる。
しかし、そこからは最早、血は流れ出ず、全身が彼の意思とは無関係に、細かく痙攣し始める。
もう、永くはない様子だ。
その眼からは随分前に光が失われ、乾き切っていた。
それでもなお、死に体のその男は、今にも消え入りそうな声で続ける。
「あああああああ…殺す…絶対に…よくも…を…」
「──こんな状態でよく喋れるな。こいつなら、あるいは…」
暗闇から突如現れた人影から発せられた、自身を値踏みするような台詞を最後まで聞く前に、男の意識は消失した。