兄は闇魔法の特訓をするようですよ?
目が覚めると、俺はまだダンジョンの床で仰向けに寝そべっていた。
――あれ、おかしいな……どうしてこうなった。
俺の体の上にはイルレーヌが身にまとっていた草の薫りがする上着がかけられていて、いちおう掛け布団の代わりにしてくれていたようだった。
まだ体の調子が本調子ではないが、残り香をすーっと吸い込んで気持ちを落ち着ける。
さて、どうしてこうなった。振り返っても思い当たるようなことはない。
あるとすれば、バルーン・ラビットの肉を食べたことだけだ。あれがいけなかったのだろうか。
そう言えば、俺はモンスターの肉を食べたことはいままで一度もなかった。
滅多に手に入らない高級なレア・アイテムだったし、母親は料理の味に無頓着だったから、ドロップしても家に持ち帰って調理するようなことはしなかったんだ。
あんなに美味かったなんてな。知らなかった。
「気が付いたかい――ハーフオーク」
やがて、ダンジョンの奥から何者かが現れた。
俺は激しく痛む頭を押さえながら跳ね起き、そばにあった破邪の剣の切っ先を声の主に向けた。
俺は、その姿を見てはっとした。
「魔族か――」
2000年前の魔王討伐時代、高度な魔術を発明し、全世界を支配する事をもくろんでいた魔族、その末裔がそこにいた。
この世界の誰もが恐怖する、ひと目でそれとわかる民族衣装を身に着けていた。
俺の前世の記憶によると、それは某国民的ゲームに出てくる「トラおとこ」なるモンスター、あの野蛮な姿とそっくり同じなのだ。
ふわふわ、もっこもこの、黄色いトラの着ぐるみである。
警戒色のトラ縞が全身をくまなく覆いつくし、黒いボタンで作ったつぶらなトラの瞳が輝いている頭部は、フード状になっていて、トラの口の中から女の子の顔がこんにちはしている。
その肌は、やたらと白い。
世の中には生まれながらにして肌の白い人々もいるが、もっと白い。
そう、まるで石灰のような白さだ。
ストローしか入らないんじゃないかというぐらいに口は小さく、顎は細い。
いったい何を食べて生きているのだろう。
クセのない真っ白な髪は伸び放題で、顔の大きさと比して異様に大きな目を隠している。
眼のふちをいろどるまつげもふっさふさで、どこかアンニュイな表情をして見える。
「なんだその顔は。食ってやろうか?」とでも訴えてくるような、トラの着ぐるみをきた少女。
俺は腕のふるえを押さえることができなかった。なんだこれ。反則だろこんな凶悪な民族衣装。だってトラだぜ、トラ。
トラ少女は言った。
「モンスターがモンスターの肉を食うなんて自殺行為だ、やめた方がいい。そいつはモンスターにとって『猛毒』なんだよ」
「猛毒……? あんなに美味い肉だったのに?」
「うむ、身をもって理解しただろう」
そう言って、魔族の少女はよいしょっと俺の隣に腰かけた。
もこもこの着ぐるみに包まれた手を伸ばし、俺のまぶたをひっぱっていた。
イタズラしているのかと思ったが、俺の目の様子をじーっと観察している。
どうやら割とまともな医術の心得があるみたいで、見た目とのギャップの激しさに驚いた。
「迷宮のモンスターたちが最初に直面する危機はなんだとおもう。すぐ隣で生まれた別のモンスターに食われることだよ。だから、奴らは多かれ少なかれみな闇魔法を使って、自分の身を保護するように進化しているのさ。同じ迷宮で発生したモンスターにとっては、それが猛毒を発揮するんだ」
「闇魔法って……ひょっとして……」
「ドナテッロさん! 気が付きましたか!」
イルレーヌがやってきて、俺の質問は遮られた。
水の入った金だらいをぐわんとその辺に放り投げて、わき目もふらず大急ぎで駆け寄ってくる。
上着を脱いでタンクトップ姿だ。
折れそうなくらい華奢で、妹に次いでたらふく食べさせてあげたかった。
元気になったらありがとうと言って抱きしめてやりたい。
そして心配させてごめんな、と言って鎖骨にあるほくろにキスしてやりたい。
「イルレーヌ、この人は……」
「私の師匠のヘーキュンです。彼女に助けてもらったんです」
「し、師匠? このちっこい子が?」
ダンジョンにモンスター(エイリアン)の研究をしに来ているイルレーヌが、師と仰ぐ人物。
というからには、こう見えて、かなりモンスターに詳しいに違いない。
そう言えば、そこはかとなくモンスターっぽい格好ではある。
もし町中で出会ったら、決してモンスターっぽいとは思わなかっただろうが。
イルレーヌは、目をキラキラさせて言った。
「たしかに見た目はちっこいけど、すっごいんですよ、師匠は! お友達も多いし、次から次へと新種のモンスターを発見しちゃうし!」
「へー、そんなにすごい人なのか」
「ふふん」
ちょっと自慢げなイルレーヌ。
どうして自分の事のように自慢げなのかわからないが、可愛い。
けれど、魔族との付き合いがあるのはあんまりいただけない。
これまで魔族が起こした『事件』をいくつも勉強してきた騎士候補生としては、警戒せざるを得なかった。
彼らは魔王討伐時代から続く独自の学問体系を持っているという。
学校で標準的な義務教育を受けずに育つため、危険思想が容易に育ちやすいのだ。
この子、昨今のエルフにあるまじきことに箱入り娘で情報弱者だからな、騙されて何かに利用されていないか心配である。
魔族の少女、ヘーキュンは、よいしょっと言って立ち上がった。
そうして俺の背中側にすたすたと歩いていくと、よいしょっと言って再び座り、なにかごそごそやっていた。
彼女の動きをじっと観察していると、どうやらあの着ぐるみでは、足や腰を曲げてしゃがむという行動がとりづらいことが分かった。
いちいちお尻をつけて座っている。
案外かわ……いや、油断するな。相手は魔族だぞ。
「ウェアラブル・ウルフの毛皮でジャケットを作ってほしい、という話だったな」
「えっ……ひょっとして、もう作ってくれたのか?」
「うむ、暇だったのでな。知り合いの仕立て屋も新年の晴着シーズンがひと段落して暇をしていたところだったのだ。これでいいか」
「はや……というか、俺ってどのくらい寝てたんだ?」
「丸半日といったところだ。寝ている間にサイズも測っておいた」
そう言うと、ぺろーん、と着ぐるみ状になったウェアラブル・ウルフの毛皮を取り出した。
なんとそれは、ヘーキュンの着ている着ぐるみを、大人サイズにしたようなオートクチュールの一品であった。
俺はがくーん、とうなだれた。
ちょっと待って、誰がお揃いの着ぐるみを作れって言ったし。
ジャケットって言ったし。
俺の反応を確認すると、へーキュンは「その反応が見たかった」とばかりに、にたーり、と意地汚く笑った。
「ああ、まちがえた、まちがえた。ジャケットはこっちだった」
「ちょ……ひょっとして、いまのドッキリの為だけに、わざわざそのサイズの着ぐるみを用意したのか?」
「うむ、暇だったのでな。知り合いの仕立て屋も新年の晴着シーズンがひと段落して暇をしていたところだったのだ」
2回同じことを言いながら、7つのジッパーがついた灰色のフード付きジャケットを俺に渡してくれた。
どうやら、こっちが本物みたいだ。毛色にも見覚えがある。
爆発で焦げた部分をうまく残してくれている。
こういう戦闘の傷跡があると、ダメージジーンズみたいに値段が跳ね上がるんだ。
手こずった第7のジッパーがある首周りのファーも温かい。
なかなか良い仕事をしている。
魔族というのは、実力はあるのにイタズラが大好きで不真面目な民族として有名だった。
噂に違わず、ヘンテコな連中である。
「ヘーキュン師匠……ところで、あんたひょっとして、闇魔法の事を知っているのか?」
「私は何も知らない……ただ、星の声が聞こえる」
「星の声?」
「うむ、魔族に備わっている、予知能力の異能だ」
口を△にして遠い目をし、空を眺めるへーキュン師匠。
うわ、予知能力とか出てきたよ。
なんてうさん臭い響きなんだろう。
「星の声を聴いていると、血から予言が浮かび上がってくるのだ。闇の時代から連綿と受け継がれる魔法の言葉が。魔族の血には、これから為すべきことの全てが記されている。ヘーキュンはその通りにしゃべっているにすぎない」
……ほんとうかよ。
さっきの引っかけの事もあるし、すぐにはちょっと信じがたい。
けれども、イルレーヌは目をきらきらさせて、そんなうさん臭い師匠に心酔していた。
「す、すごい、すごいです、師匠! すごすぎるぅ!」
「お前も修行して、はやく未来予測ができるようになるのだ」
「はい! 師匠! がんばります!」
がんばれよ、イルレーヌ。
異種族の魔法は使うの大変なんだ。
ビビ先輩もすげぇ頭いいけど、人間の魔術を習得するのに50年かかってるからな。
「そうだ、ドナテッロさん。師匠に未来を見てもらったらどうですか?」
イルレーヌにとつぜん提案されて、俺はびくっと肩を震わせた。
えー、俺の未来をこの人に見て貰うのー?
あんまり変なことを言われても困るんだけど……へーキュン師匠は予期していた、と言わんばかりに泰然としたものだ。
かなり乗り気だ。
俺は身構えた。
いったいどんなドッキリを仕掛けられるのかわかったものではない。
「いや、俺はあんまりそういうのは興味ないけど……」
「お前の未来ならすでに見ている。闇魔法について知るためにここに来たんだろう?」
――ドキン。
心を読まれていたみたいに当てられて、俺は動揺した。
こいつ、本当に未来が……。
……いや、まて、俺ついさっき自分で闇魔法について質問してなかったか。
このタイミングだったら、ただの思い付きで言っていてもわからないぞ。
あぶない、あぶない。
ヘーキュンは、腕組をして、ふぬん、と鼻息を荒くした。
「案ずるな、お前がここに来ることは、先週の星読みからすでに分かっていたことだよ」
「うわぁ、ガチですか……」うわぁ。
へーキュン師匠はくるんと後ろを向くと、着ぐるみのぺろーんと張りのない尻尾をぷらぷら揺らしながら、歩き出した。
ムカつく笑みを満面にたたえて、やけに自信ありげにこちらにふりかえった。
「ついてくるがいい。ヘーキュンが闇魔法の全てを、お前に教えてやる」
その着ぐるみはいでやろうか。
モンスターの闇魔法は、同じモンスターにとっての『猛毒』だった。
なるほど、そういう風に考えてみると、探索中にモンスターが俺に対して攻撃してこなかった理由もよくわかる。
強力な闇魔法を持っている俺は、ダンジョンに潜り込んできた猛毒のトカゲなのだ。
俺より力の強いモンスターたちも、少なからずダメージを受けてしまう。わざわざ俺に近寄りたがらないだけだ。
バルーン・ラビットの肉を食べた時に意識を失ったことで、俺は自分がモンスターであるという動かざる証拠を見せつけられたような気がして、暗澹たる気分になった。
ひょっとすると、俺の母親はそれを知っていて、わざとモンスターの肉を俺に食べさせなかったのかもしれない。
毒になることを知っていて。
いくら前世の記憶が戻っても、俺はもう――人間には戻ることができないのかもしれない。
イルレーヌが、俺の隣にやってきて、ちょこっと、ほんのちょこっと手を指先でつまんだ。
それだけですべてが救われたような気分になった。
少なくとも、彼女は俺の正体がモンスターであっても、変わらず同じように接してくれる気がする。
あとは俺がしっかり自制することができれば。
「ドナテッロさんは、ここに闇魔法を研究しに来たんでしょう?」
「ああ……そうだな」
「闇魔法って、どんなことができるんです?」
「さぁ……今のところわかっているのは、ダンジョンでモンスターに襲われなくなることとか、あと、料理が旨くなるってこととか……」
「すごい! すごいじゃありませんか! モンスターの肉専門の料理店が開けますよ!」
ぱあっと眩しい笑みを浮かべるイルレーヌ。
俺は苦笑いを浮かべた。
やっぱり、モンスターの肉が好きなんだ?
そうだな、これから闇魔法をどんなに極めても、けっきょく、俺の行き着くところはそこになるのかもしれない。
料理人になるためにも、闇魔法を鍛えることは必要なことだろう。
前をてくてく、と歩くヘーキュンのトラの着ぐるみには、トラ縞の尻尾もついていた。
やる気がないみたいに、ぷらんぷらんと揺れている。
足も短いし、後ろから見ると本当にヌイグルミが歩いているみたいだった。
まだ歩き始めたばかりの妹を思い出す後ろ姿だった。
歩き疲れてその辺にぺたんと座り込んでしまうんだ。
最初は抱っこしてやると泣いていたんだけど、そのうち「兄ちゃん、だっこー」とか言って自分から両手を伸ばしてくるようになって、これがもうむっちゃ可愛いかった。
師匠は疲れないんだろうか、抱っこしてやりたい。
それを見ながら、俺はつい口走ってしまった。
「ヘーキュンきゅん」
しまった。ついストレートな自分の思いが口に出てしまった。
ヘーキュンきゅんは振り返ると、ジト目で俺をにらみつけていた。
「ヘーキュンのことは師匠と呼べ」
「呼んだら抱っこしていいか」
ヘーキュンは、△の口をしてしばらく考えるそぶりを見せた。考えるのかよ。
「呼ぶなら許す」
許すのかよ。
俺はヘーキュン師匠の体に背後から腕をまわし、抱っこしながら歩いて行った。
抱き心地は最高だ。
ヌイグルミみたいにもっふもふで、しかも温かい。
これ寝るときに抱いてたら天国だろうな。
ウルフのジャケットを着ている俺が抱っこして歩いていると、なんだか親子みたいだった。
「ヘーキュン、ひとつだけ聞かせてくれないか」
「なんだ」
「どうして俺にそんなに親切にしてくれるんだ?」
そう言うと、ヘーキュンは着ぐるみのもふっとした胸元に顎をうずめた。
「ヘーキュンに聞くな。ヘーキュンはただ、血に記された予言に従っているだけだ」
「予言にそうしろって言われているのか?」
「ああ。もう何百年も前からこうするべしと決定している。理由はよく分からないが、とにかくそうなのだ」
気が付いたら、俺はへーキュンのもふもふした頭をなでていた。
ほんとうさん臭いけど、ほんと可愛いなコイツ。
謎だらけのヘーキュンは、やがて地下深くの石の都まで来ると、身をよじって俺の腕から脱出し、その辺の石ころを手に取った。
石の都は、アールシュバリエに昔住んでいた古代人の遺跡だという。
石ころは壁の一部が剥落したのだろう、どこにでもあるような石ころだった。
「さて、ここからは魔法学の時間といこうか。闇魔法の基本的な性能について、お前はどこまで知っている?」
「基本的な性能? 魔法をなくしてしまう魔法が闇魔法ってことであってる?」
「それだけか?」
「それだけしかないと思うけど」
「やれやれ、そんな事では、一体いつになったら真の闇魔法を体得できるか不安だな」
ヘーキュン師匠は、ふっと鼻で笑うようなムカつく顔をすると、傍らで俺たちの様子を見ていたイルレーヌの方をちらり、と見た。
イルレーヌのキスするとウサギ汁の味がしそうな小さな口が、すらすらと呪文のような言葉を放った。
「はい、闇魔法とは、中世の魔法学によって広く使われていた八大属性の考えからはじまった魔法の分類のひとつで、四大属性が『この世の存在』の生成、消滅、変化、固定のいずれかに対応しているのに対して、闇魔法は、『この世ならざる存在』、すなわち魔力の消滅が根幹原理となっている、とされています。
この八大属性による分類が生まれる以前の古期アンドラハル王朝時代には、すでにその存在は知られていました。ですが、体系だった闇魔法を伝承する魔法民族の存在は明らかになっておらず、大竜伐時代の後期まで、王族のみが持つ固有スキルの一種とみなされてきました。
しかし、近年ではモンスターの研究が進むことで、モンスター達がなんらかの手段でその闇魔法の技術を別個体に伝承していることが判明しており、なかには系統だった闇魔法も存在するのではないか、と考えられ、今後のさらなる研究が期待されています」
「……すまん、ヘーキュン師匠。俺はそこまで魔法の勉強はしてこなかったんだ」
「安心しろ、へーキュンもそこまで知らなかった」
へーキュン師匠は素直に敗北を認めると、その辺の石ころを拾い上げた。
どうやら驚いて落っことしたらしい。可愛いなぁ。
「さて、掻い摘んでいえば『魔法がない』状態を生み出す魔法、それが闇魔法というものだ。ここまではわかるな?」
「ああ、わかる」
へーキュン師匠は、気を取り直して「きりっ」と俺に顔を向けた。
「では、その『魔法がない』とは一体どういう状況だ? ドナテッロ」
「難しいな。『魔法がない』ってことは……魔法がかかっていないってことだよな? 誰も魔法を使おうとしていない……そうだ、確か魔法士の試験問題だと、すべてが自然法則どおりに動いている状態って感じだった」
「ふっ、やれやれ、頭の固い奴だ。そういう学校で習ったような専門的な知識は、闇魔法を身に着ける上ではまったく必要ないものだ。そもそも文明を持たないモンスターが使いこなしていた魔法体系なのだぞ?」
くっそ、さっきと言っていることが真逆だぞ、ヘーキュン。
しかもなんで超上から目線だし。
落ち着け、魔族と付き合うには忍耐が必要だ。
ふと気を抜くともふもふして虐めてしまいそうだ。
闇魔法を教えて貰ったあとで、たっぷり虐めてやることに決定した。
ヘーキュンは上から目線を維持したまま、石ころを目の高さに持ち上げてみせた。
「ここに石がある。これからヘーキュンが『魔法』をこの石にかけてみせるから、よーく見ておけ」
俺は、我慢してじーっと石を見た。
じーっと見ていたが、石はただの石だ。何も起きない。
しばらく待ってみても、やっぱり何も起きない。
何も起きない。
起きない。
おきない。
OKINAI。
そのうち石を見るのに飽きて、ヘーキュンの可愛らしい顔の方に目移りしてしまった。
それから着ぐるみに包まれていてもそれとわかる、真っ平らな胸に寸胴。
へーキュンが着ぐるみを脱いだら、体も真っ白なんだろうか? などと不埒な想像をしてしまう。
ヘーキュンは、持ち上げた石ころを真剣なまなざしで見つめている。
やはり、石ころは動かない。
あれ、俺ひょっとして性的に興奮して無意識に闇魔法を発動させていた?
闇魔法でヘーキュン師匠の魔法を打ち消してしまった?
バカな、相手はへーキュンだぞ?
イルレーヌが手をあげた。
「あの……いつ魔法がかかるんです?」
こら、イルレーヌ、それ言っちゃダメだ。
まるで師匠の魔法が遅いと文句を言っているみたいじゃないか。
けれど、ヘーキュンは口の端をつりあげて、「ふふん、その言葉を待っていた」、という顔をした。
「ヘーキュンは、もうこの石に魔法をかけているぞ」
「えっ……?」
イルレーヌと俺は、その石を二度見した。
すでに魔法がかかっているらしい石は、手のひらから1ミリも動いていなかった。
色も形もそのまま。何も起こっていない。
どうやら種明かしすると、こうだった。
「ヘーキュンはこれに、『空に浮かぶ魔法』を全力でかけている。それと同時に、『地面に落ちる魔法』も全力でかけている。上と下、まったく反対に向かう力が同時に働いているから、動いていないのだ」
なんだそりゃ。
それって、一緒にかけたら意味がなくないか?
「そう、相反する魔法の効果がお互いに打ち消しあえば、結果として『魔法がない』状態に見えてしまう。
これが『魔法平衡』と呼ばれる状態なのだ」
魔族の魔法学では有名な言葉らしい。
聞いた事のない言葉だったが、なにやら重要なことのように師匠は言った。
「そもそも魔法の存在する世界で、もっとも安定して自然の摂理が正常に働く状態とは、すべての魔法の『魔法平衡』状態だと考えられている。
空に浮かぶ魔法と地面に落ちる魔法、燃える魔法と凍る魔法、消滅する魔法と新しく生まれる魔法、その他にもありとあらゆる魔法が、ミクロの距離を隔てて、あるいは刹那の時間を隔てて入り乱れ、お互いの魔法効果を打ち消しあっている。
その結果として『魔法がない』状態に見えている、実はこれこそが、自然の本当の姿なのだ」
えっへんと得意げなへーキュン師匠。本当かな?
彼女を師と仰ぐイルレーヌは、目を見張っていた。
「『不確定性原理』ですね……」
「なにそれ……うっ、聞いたことあるようなないような」
「はい、レプリカントが発見した物理学の原理です。クロノス寸(プーランク長のこと。約10のマイナス35乗分の1メートル)以下の長さの世界は、物理エネルギーが観測できないという原理が支配していて、そこではありとあらゆる保存則が成立していない可能性がある、ということが論じられています。まさに師匠の言う『魔法平衡』と同じ状態です」
「よく分からんが、まさにそういう事だ」
よく分からんが、という隠さないところがへーキュン師匠の素敵なところだった。
うん、とりあえず俺もうなずいておこう。
「安心しろ、通常は、人間が観察できるレベルの魔法など起こらない。
だが、無限に膨張し続けている宇宙の端や宇宙誕生の瞬間など、生まれたての宇宙では魔法がまだ完全に混ざりきっておらず、魔法平衡の乱れが顕著に観察できるという。つまり、ここだけ保存則が成り立っていない特異点が生まれるのだな。
我々がよく言っている魔力とは、この魔法平衡の乱れを起こす微少な力の事だ。
他の魔法同士を時間的、空間的、性質的に大きくかい離させ、あるいは結びつけてゆくことで、ようやく人間が感じられるレベルの魔法を練り上げることができる。
ようするに、魔法と魔力は大きい力と小さい力の違いで、実はほとんど同じものだ。さて」
ヘーキュン師匠は、もふもふの指で石ころをつついて言った。
「では、『魔法がない』状態を生み出す闇魔法とは、いったい何なのか?
答えから言ってしまえば、魔法生物が体内の魔力をどんどん高めて行き、高まりすぎた結果として生まれる、いわば魔力のガン細胞だ」
「ガン細胞……ですか」
「昔の魔術師はそう呼ぶ。今はブラックホールと言うのが多い。
あらゆる魔力がそこを通過するさいに反属性によって打ち消されるため、その効力を失ってしまうからだ。
ありとあらゆる属性の魔力が混在したまま増えてしまった、濃密すぎる魔力。それが闇魔法のもつ特殊な効果の根源だ。
何が言いたいかというと、闇魔法は『最強』ということだ。
そう、その膨大すぎる魔力の扱い方さえ、きちんと学ぶことができれば」
なるほど、それが俺の中に眠っている力の正体。
モンスターが得意とするのも、もっともな話だ。
ただひたすら魔力が増えていけば、それだけで闇魔法になってしまうのだから。
しかし、すごいことだ。
ヘーキュン師匠は、石ころをただ持ち上げているだけで、闇魔法がなんたるかを説明してしまったのだ。
俺としては、空に浮かぶ魔法の方もちゃんと見せてもらいたいのだが、それは今の授業にはまったく関係のないことだから、言ってしまっては無粋というものだろう。
もし、万が一だけど、ヘーキュン師匠がまったく魔法を使えなかったら、師匠が困ってしまうじゃないか?
「すまない、空に浮かぶ魔法の方も、ちゃんと見せてもらえないか?」
言ってみた。
師匠の困った顔が見たい。
ヘーキュン師匠は一瞬ぽかんとして、何か言いたげなまなざしで俺を見ていた。
「あ……え……?」
師匠は困っている。焦っている。
どうやら予言にはなかったらしい、続く言葉が見つからないみたいだぞ、これは可愛い。
俺とイルレーヌは、じーっと師匠の顔に注目していた。
イルレーヌは、はっと何かに気づいたように俺の袖をくいくい引っ張った。
「だ、ダメですドナテッロさん」
「ん? 一体なにがダメなんだ? イルレーヌ」
「その、ひょっとしたら師匠は……いえ、その、けっしてそういう訳ではないんですけど……ええと」
もごもご、と言いにくそうに口ごもるイルレーヌ。
ちらっ、ちらっ、と師匠の方をうかがっている。
その態度が余計に師匠を傷つけないか不安であった。
へーキュン師匠の目に光る物が見え始めたので、俺は内心ひやひやしていたが、イルレーヌがなにやらつま先で立って、俺の耳元でごにょごにょ、とささやいてきたので、どうにも止めることができなくなった。気持ちいい。
「ごにょごにょごにょ……」
「ごめん、なんて言ったか聞こえない」
「ですから、ごにょごにょごにょ……」
「もう一度」
「ごにょごにょ……」
「ワンモワ」
「ごにょごにょ、ごにょごにょごにょごにょ……」
俺がイルレーヌのささやきボイスで、耳に昇天しそうな快感を味わっている一方。
へーキュン師匠は、下唇を噛んで、じわっと目に涙が浮かべていた。
あ、やばい。泣かせてしまった。どうしよう。
なんか妹の事を思い出してダメなんだよな。俺はまたしても口走ってしまった。
「ヘーキュンきゅん」
「へ、ヘーキュンのことは、師匠と、呼べ」
「抱っこしていいか」
「ゆ、許す……」
鼻声になって、腕でぐしぐし顔をこすっていた。
ヘンテコだけど可愛い奴だ。
へーキュン師匠をイルレーヌとかわりばんこに抱っこしてあやしてから、俺は真の闇魔法の本格的な特訓に乗り出したのだった。
俺が闇魔法の特訓を開始してから、1週間後。
天災は時と場所を選ばない。
その日、俺の運命を変えるモンスター・ハザードが起こった。
そのとき、俺は騎士学園まで都電を使って通っていた。
これも正確には電車ではなく、魔法によって僅かに地上から浮いた状態の箱に推進力と牽引力をかけてレール上を移動させている乗り物なのだが、ほとんど電車と変わらないので便宜的に電車と呼ぶことにする。
朝の電車が混むのはどこの世界でも変わらない。
でっかい獣人のおっさんが座席を3席分、足を広げてつり革の立ち位置を4人分占領して大きないびきをかいていた。
プレートメイルを身につけている所を見ると、ゴブリンスレイヤーのようだ。ゴブリンと24時間戦うお仕事らしい。
ゴブリンスレイヤーの他には、あまり都会慣れしていない感じのエルフ耳の新入社員が、大きな男物の腕時計で時間を気にしている。
腰にはでっかい日本刀を携帯している。よく見るとビビ先輩だった。
いつものセーラー服じゃなく、リクルートスーツだったのでわからなかったが、今朝も相変わらずお美しい。
あとセーラー服に、楽器のハードケースみたいな装備入れのケースを持った騎士候補生が2人いた。よくみるとジャガーとユリアだった。
いつもダンジョンで顔を合わせるので、制服姿だと新鮮である。いつかあの格好でエッチを頼めないだろうか。
俺と肉体関係をもった事のある3人の女の子が一堂に介して、いよいよ修羅場に発展か、と思ったが、そんなことはなかった。
車内で携帯電話の使用はご遠慮ください、というアナウンスはこちらも形式上流れているが、みんな無視して思い思いにスマホをいじっていた。
この状態の俺には、みんなあえて近づこうとしない気がする。
そう、今は妹が俺を独占しているのだった。
俺とリリエンタールは、電車の中で重なり合うように立っていた。
リリエンタールが俺のブーツのつま先にちょこんと乗っかるぐらいの至近距離である。
当然のように胸は俺に押しつけられていた。大きすぎだ。
中学のブレザーを身に着けたリリエンタールは、ちょうど俺の胸の中に包み込めそうな大きさだった。
金髪からシャンプーのにおいが漂っていて、それはたぶん俺の赤髪からも同じ匂いが漂っているのだろう。
「兄さん兄さん、ゴブリンスレイヤーって、どうして24時間ゴブリンと戦っているんでしょう?」
「そうしないとコスパが低すぎるんだってさ」
「私にも分かるように言ってくれる兄さんは素敵だと思いますよ?」
「ゴブリンは星1だからわんさか生まれてくるうえに、地味に社会性動物だから、武装したり連携を取ったりして倒しづらいんだ。1匹倒してようやく半銅貨1枚(銅貨の半分の価値、約250円)ぽっちの儲けだ。みんなゴブリンの巣は避けて通ってるよ」
「……ウィキってみた。『ゴブリンスレイヤー』、ゴブリンを倒す戦闘係と、魔石をバケツで運び出す回収係に分かれて、3交代制で24時間戦い続けるんですって。コンビでやるんですって! 素敵!」
「聞くだにキツい。俺はパスだな」
「『蜃気楼の塔』のデミ&カルヴァンは1日に金貨100枚(約5000万円)稼いだそうですよ。単純計算で、1日に20万匹? 私と兄さんなら10倍くらい稼げるんじゃありませんか?」
「なんでお前とやる事になってるんだよ……いてて。首いてぇ」
へーキュン師匠の提案した闇魔法の特訓は凄まじいもので、連日の疲労がかなり蓄積していた。
ダンジョンでモンスターを観察していた師匠によれば、
「魔物は魔法を食らってはじめて魔法を覚える」
らしく、とりあえず俺にガンガン魔法をぶつけてみよう、ということになったのだ。
ほんとうかよ。ほんとうに胡散臭いんだけど。
イルレーヌもそうだと言っているし、ほんとうだよな?
かといって、俺は他に闇魔法を鍛える方法も知らない。
とりあえず、その提案に従うしかなかった。
例のごとく、師匠は俺に魔法を見せてくれない。
見せて、とせがんだら突然泣きそうになってしまうので、イルレーヌが俺に魔法を浴びせる役割をになった。
「お願い、精霊さん! ちょっと痛めの魔法でお願いします!」
エルフの得意な風魔法で俺を地面に押し付け、さらに友達の四精霊たちも呼び出して、彼女の知る限りの攻撃魔法で俺をガンガン攻め立てていた。
フツーに痛い。
「ああ、ドナテッロさん……ダメ、弱い者いじめはダメなのに……わたし、今すごく楽しい……!」
などと言いつつ、俺の頭を木靴でぐりぐりと踏みにじっていた。
俺の闇魔法よりも先にイルレーヌの何かが覚醒しつつあった。
そんなことをされるものだから、俺も押さえがたい性欲とともに闇魔法が発動してしまった。
俺の体から『瘴気』が黒い翼の形をしてあふれ出し、イルレーヌの魔法をすべて消し去った。
宙に漂っていた精霊たちもかき消し、俺の身体を押さえていた風を跳ね返し、地面から立ち上がった俺は、反対にイルレーヌを押し倒した。
「イルレーヌ、いきなり俺のボス部屋に連れ込んでごめんな」
「きゅう……ど、ドナテッロさん……背中、どうして羽が生えているんですか?」
「気にするな、お前を天国に連れていくために生えたのさ。お前にも生えているだろ? お前の翼を俺に見せてくれよ」
そう言って、イルレーヌのブラウスに手をかけ、ボタンを外していった。
清楚な下着と鎖骨のほくろが再びあらわになって、柔らかい肩に触れるとものすごく熱くなっていた。俺の闇魔法はますます強度を増した。
イルレーヌは顔を真っ赤にして、俺の手をやんわり掴んだ。
「だ、ダメ……ドナテッロさん……へーキュン師匠が、見てる……」
「じー」
「ふっ、俺にかかればへーキュン師匠ぐらい……ああ、でもどうしよう、へーキュン師匠か……やめとくか」
「なんでへーキュンを仲間外れにする? ぷんぷん」
へーキュン師匠が泣きそうに不平を言っていたが、俺はすんでのところで理性を取り戻した。
もうちょっとでイルレーヌを泣かせてしまうところだった。危ない危ない。
その後も色々やってみたが、魔法を覚えた感じは一切なかった。
ひょっとすると昔、人間の魔法を使っていたころの記憶が邪魔になっているのかもしれない、とへーキュン師匠に言われて、そうかもしれない、と納得してしまった。
異種族の魔法というのは、外見は同じでも根幹から原理が違っていたりするので、同じ感覚でやろうとするとダメなのだ。
たいてい勘でやっていることなので、有効なアドバイスを貰えるわけではない。
まるで手探りの状態だった。
とにかく、俺がダンジョンでイルレーヌを泣かせそうになって戻ってくると、リリエンタールは例のごとく、むすっと不機嫌そうな顔をしていた。
ひょっとすると、俺が闇魔法を発動すると分かるのかもしれない。
リリエンタールは俺と違って魔法の才能があるからな。そのくらいはできそうだ。
「……兄さん、昨日は夜遅くまでどこにいらしたんですか?」
「しーっ、俺が秘密の特訓をしていることは、みんなには内緒だからな?」
「じとーっ、兄さんともあろうお方が秘密の特訓だなんて、怪しいことこの上ないんですが?」
「騎士は努力していることを誰にも知られたがらないものだ。魔法の訓練だよ。ほら、MP回復弁当も作ってきた」
俺から受け取ったMP回復弁当のにおいをすーはー、と嗅いで、リリエンタールは「兄さんの卵焼き……」と言った。「欲しいならあげるよ?」
「まだ魔法士の資格を諦めていなかったんです? 兄さんは料理人になるんじゃなかったんですか?」
「料理人になるためだよ。いずれにしろ、アールシュバリエで出店するには調理用の魔法が使えなきゃ、客を満足にさばくこともできないしさ」
「兄さんは分かっていませんね、もう諦めて私専門の料理人になればいいんですよ。ちなみに、私のMPは自動回復するからMP回復薬は必要ありません」
「あ、そうなんだ? 光魔法ってそういうのなんだ」
リリエンタールも魔法士の資格を持っているのだが、彼女の専門分野である光魔法は、扱える人間も少なく、かなり特殊な部類の魔法らしかった。
魔法の使い方を聞いてみると、「強くイメージするんです。するとその通りになります」などという天才的な発言を返してくれたので、彼女に資格試験の勉強を手伝ってもらうのはムリだと判明した。
その特殊な力があるお陰で騎士団からスカウトされたんだけどな。
魔法使いとして、すでに追いつけそうな気がしない。
「けど、せっかく兄さんが作ったのなら食べてあげなくもないですよ?」
「お前、本当に食い意地が張ってるな」
「愛に飢えているだけです」
MP回復弁当を受け取って、えへへ、と相好を崩すリリエンタール。
こんな簡単なことでご機嫌になってくれるのだから、扱いにくいのか扱いやすいのか。
リリエンタールと一緒にいると、なぜか周囲の女子の視線が痛い。
俺の妹だというのは周知のはずなんだけどな。大抵の女の子にはスマホで写真も見せているし。
それでも妹という立場は特別なものなのだろう、生まれついての家族と、これから家族の一員になろうとする恋人の間には、超えられない壁があるのだ。
「そういえば小耳にはさんだんですが、魔女と性交した人間は魔法が使えるようになるそうですよ。兄さんが美味しい料理を作れなくなったら困るので、いますぐ去勢しましょうね、兄さん」
「ぶぶー。兄ちゃん2つの理由でそれを却下する。ひとつ、兄ちゃん単純に女の子になるのは嫌だ。ふたつ、魔女とはもうやったことあるけど効果はなかった、以上」
「もう、なおのこと去勢する必要がありますね、兄さん」
「……何を検索してんだ、やめろ」
「いいではありませんか。私は兄さんのために、兄さんに相応しい外科医を検索してあげているだけですよ?」
「やめろって。たのむから朝っぱらから去勢手術・アールシュバリエとか検索かけるな、マジで」
「人のスマホを覗かないでくださいます? いくら兄妹でも超えてはいけない一線という物があるんですよ? マナー違反です」
「見なくても分かるっての、お前が変な検索かけるからウチのパソコン『き』って入れただけで『去勢手術』って予測変換されるようになってるんだぞ」
まあ、ちょっと仲が良すぎるというのは否定しない。
それでもこれがいつも通り、アールシュバリエの朝の風景だった。
そのとき、リリエンタールのスマホがビービー、と音を立てて鳴った。
「あ」
「ん?」
リリエンタールの表情が急に引き締まる。たぶん俺も同じ顔をしているだろう。
他の乗客のスマホからも同じ音が鳴って、その音はリレーのように電車の端から端まで伝播していく。
リリエンタールは、黙って俺に背中をあずけ、スマホを高い位置に掲げた。
2人でいっしょの画面をのぞき込む体勢になった。
シロクマのストラップがなかなか可愛らしい。
どうやら、モンスターが出たらしい。
モンスター・ハザード警報だ。