異変
初めまして、そして、よろしくお願いします。
「ショゴレーロ! メッチア! 血中原素の形状が安定したよ! ついに完成だよ!」
「ふふ、ついにやったわね、カラメー」
メッチアがカラメーの横で腕を組み、温かい眼差しで見つめている。
「あれ? おいカラメー、この原素なんか膨張してないか」
「ちょ、あんまり揺らさないでよ」
原素が入ったフラスコを持ち上げようとするショゴレーロを、カラメーは慌てて制止する。
「いや、でもほら、表面に……」
見ると、確かに球状の原素の表面には、沸騰した液体のように次々と泡が浮かんでくる。
「あれ……本当だ」
「それに、何だか色が黒ずんでいくぞ……」
「今一度、調べなおす必要がありそうだね……よし!ショゴレーロ、メッチア、手伝って」
「わかったわ、カラメー」
「あ、ああ。わかった」
――十五年前、イタリアにあったラテ一族の私邸が全焼した。邸宅内でガスを使った形跡はなく、放火された跡もない。なぜ全焼するほどの火災が起きたのか、警察は頭を抱えた。そして何より不思議なことと言えば、部屋中黒焦げの地下室で三人の女性が気絶していたことだ。彼女らはこの邸宅の持ち主の三姉妹で、不思議なことに全員、かすり傷はおろか火傷も負っていないのだった――。
勢いよく跳ねるボールの音と、細かく断続的なバッシュの音が体育館に響いていた。南東側に取り付けられた窓からは日中の暑い日差しが差し込み、舞い上がる埃や動きまわる生徒たちを照らしている。
その中の赤いユニフォームを着た一人が、立ちふさがる青いユニフォームの生徒を軽々とかわし、走り去る。黒髪で後ろ髪を結ったポニーテールにしている彼女は、スリーポイントのところで止まって大きく跳躍すると、手首のスナップをきかせてボールを放り投げた。
斜め上に投げられたボールは、空気の抵抗を受けながら虹のように弧を描いて、そのまま流れるようにゴールに吸い込まれていった。途端、周りの仲間達が無数の歓声をあげる。その歓声を聞いていると、胸の内側から幸福感が溢れてくる。そんな仲間たちの暖かさを、彼女は密かに噛みしめていた。
部活も終わり、彼女が部室に入ると、先に着替えていた彼女の友人の陽津代が寄ってきて、彼女に笑顔を見せると、「どうしたの? 今日めっちゃ調子いいじゃん」 と肩に手を置いて話しかけてくる。
すると、彼女――徳仲寿羽はこう言うのだ。
「今日は久しぶりに姉が帰ってくる日だから」
彼女の姉である德仲祝は中学卒業後、都外の高校に進学した。祝に運動神経はないが、頭だけはきれるので、都外の国立高校を受験したのだ。
学校からの帰り道、姉が好きだったケーキ屋でケーキを買おうと、駅前を歩いていた。お姉ちゃんが好きなケーキはイチジクのタルトだったなぁ……私はあんまり好きじゃないけど、なんてことを考えながら歩いているのだ。
いつも店先でバームクーヘンを焼いている洋菓子屋から、とても甘い良いにおいがした。そのにおいにつられて、まるで花に誘われる蝶のように、寿羽はふらふらと近づくと、一切れだけ買った。バームクーヘンは彼女の好物なのである。
さて、気を取り直してケーキ屋に行こうと意気込んだ彼女にちょうど、『駅前にいるよ。もう部活は終わった?』と姉からメールがきた。寿羽は、『終わったよ〜お姉ちゃんどこいる? 位置情報送って』と返信する。
位置情報を頼りに、今さっき通過した高架線の上を総武線が轟音をかき鳴らして走り去り、交差点では人の津波に飲まれた。巨体な街頭テレビには有名歌手の新曲と選挙についてのことが交互に流れていて、ひぐらしが夕焼けに吠えていた。太陽がいつの間にか傾いていたようだ。
辺りを見まわした。位置情報はここを指している。時計を見ると、もうすぐ7時だった。
「寿羽」
寿羽は呼ばれて、振り返る。
見覚えがあるシルエットがそこには立っていた。
夏らしい涼しげなワンピースに、麦わらのトートバッグを肩から下げている。右半身は夕日で紅く染まっていて、セミロングの茶髪も、彼女の今の姿にピタリとはまっていた。
「お姉ちゃん!」
無意識のうちに寿羽は祝に飛びついていた。
「あらあら」と祝は抱きとめ、「久しぶりね。寿羽」と言って微笑んだ。
「お帰りなさい」
「予定ではもう少し遅くなるはずだったんだけど……少し早すぎたかしら」
「ううん、全然そんなことないよ! 八鹿ちゃんも咲葵ちゃんもきっと喜ぶと思う!」
出知八鹿――両親を亡くした德仲姉妹を引き取った一家の一人娘で、ストレートロングヘアに検察官バッジのようなものを付けているのが特徴的な中学三年生だ。現在はパンケーキ専門店『パチスィ』を営む祖父、出知万次と暮らしている。御樋代咲葵は彼女の同級生で、こちらは肩にギリギリかかるくらいのショートヘアであり、祝が下宿生活に移る前は、彼女によく懐いていたものだ。
寿羽の学校での出来事などを話しながら、二人連れ立って家まで歩く。もちろん、ケーキを買うのも忘れない。
『パチスィ』は夕焼けに照らされて、赤レンガ造りの壁がさらに紅くなっていた。閉店までいつもならあと一時間ほどあるのだが、今日は五時で閉店しているらしかった。
ファンタジーに出てくるバーのような内装の店内は、照明が消えていて、椅子やテーブルにひっそりとした影を落としていた。祝が出ていった時と変わらない、懐かしい店内である。
「八鹿と万次さんは?」
「買い物に行ってるって」
そう、と祝が台所の前に立つと、寿羽もその横に並んで二人で簡単な料理を作り始めた。
ただいま、という二人の声と、おじゃまします、という一人の声が聞こえたのは、料理も仕上げに入ったときだった。一旦二人とも料理の手を止め、パタパタと二人で玄関に歩いて行くと、祝にとって懐かしい顔ぶれが並んでいた。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま祝」
「ただ今帰りました。祝さん」
それぞれ手土産を持って帰宅した三人と共にテーブルを囲み、五人で夕食を食べる。みんなで談笑しながらの食事は、まるで本当の家族のようだった。
「こうやって二人で過ごすのも久しぶりだねー」
寿羽と祝は二階の寿羽の部屋でくつろいでいた。
楽しかった食事も終わり、寿羽と祝が食卓を片づけていると、「お二人は疲れているでしょうから、後は私たちに任せてください」と言われ、その言葉に甘えて二人は二階に上がったのだ。
「――そうね。前はよくこうやって一日の反省会みたいなことしてたわね」
そうしてまた、二人は他愛もない会話を始めた。
お互いの近況については食卓でも話したが、まだまだ話し足りない。
「なんだか元気ない? お姉ちゃん」
「え? そ、そんなことないわよ……」
祝は、この連休が明ければ、次の連休まで長いブランクがある。次にこの家に帰ってこれるのはいつになるのだろうか……そんなことを考えるたび、何となく気分が沈んでいく気がするのだ。
「大丈夫。またすぐ会えるよ、お姉ちゃん」
「……ええ」
――突然、岩壁が崩れるような、爆音と衝撃が階下から聞こえてきた。
まるで爆弾でも炸裂したかのようだ。
「……何かあったのかしら」
「地震とかじゃ、ないよね……」
寿羽は言い知れぬ不安に襲われた。
「ちょっと見てくる。お姉ちゃんはここで待ってて!」
寿羽は返事も聞かず、部屋から飛び出した。