マカロニの穴
なじみの古い洋食屋には、常連のみが知る裏メニューというものがいくつか存在している。
これらの料理がなぜメニューに載っていなのかを知るものは常連でも少ない。それでも裏メニューを知っていると言うだけで、選ばれた客だという感覚が少しばかり気分を高揚させてくれる。別に、シェフが客を差別しているわけではない。初めての客であっても裏メニューを注文すれば、シェフは喜んで提供するであろう。だから、この密かな楽しみは常連客達の自己満足でもある。
昭和の初期から続いているこの店は既に3代目が継いでいるが、味は子供の頃から変わらない。いや、実際には微妙に変化しているのかもしれないのだが、少なくとも私はそれには気づかさせることはなかった。定番メニューのお勧めはハヤシライスである。ザク切りの野菜がたっぷり入ったドミグラスソースがかかったそれはこの店オリジナルのもので、こくが深く癖になる味である。
裏メニューと言うほどではないのだが、このハヤシライスの上に特製コロッケやメンチカツなどを載せていただくこともできる。呼び名は「ハイライ」。ハヤシライスが縮まったものだとは判るのだが、ちょっと語呂が悪い。それでも常連たちは「ハイライコロッケ」などとトッピングを含めた名前で注文する。
この呼び方はいつの間にか広まってしまい、昼食時などはちょっと知っている人なら誰でも短縮形で注文するのでだ。シェフは料理の名前を言い返しはしないが、店員のおばちゃんは「ハイライね!」と元気よく応えてくれる。
しかしそんな風によく知られた裏メニューだけでなく、ごく一部の人のみが知っている裏メニューもいくつか存在する。別段変わった料理というわけではなく、あくまでシェフの方針で通常メニューには載せないものの、気心が知れてきたなら頼むことができるというものだ。そして、その裏メニューの一つは私自身に由来するものであったりもする。ただ、その由来がいったい何であったかについてはずいぶん古い事でもあり、今では思い出す事も出来ない。
ただ、子供の頃から父親がこの洋食屋を贔屓にしていたこともあって、休みの日になると良く家族で昼食を食べに来ていたのはよく覚えている。父は生活にも仕事にも厳格な人であったが、唯一日曜日のみは家族で昼食を食べに行くことを習慣としており、その時だけは子供である私たちを叱りつけることはなかった。
とても怖かった父がこの洋食屋では少し違って見えた理由は父が亡くなった今では調べようもないが、それでも以前母がそれとなく教えてくれたことがある。先代のシェフと父親は古くからの親友だったらく、私に由来する裏メニューは父と先代シェフとの間の約束事でもあったそうな。
その約束事がなぜ特別なメニューに関係しているのかはわからないが、それでも老舗の洋食屋と繋がりを持っているという事実は私を気分良くさせた。先代のシェフは数年前息子に現場を譲って、今では厨房にも立たないようなのだが伝統の味は確実に受け継がれていると思うし、それは客の足が遠のくことなく今でも続いているという事実が何より示しているだろう。
そんなある日、現在のシェフである裕次郎が昼時をいつもの窓際の席で食後のコーヒーを飲みながら読書している私のところまでやってきて声をかけた。
「おい、克也。来週も来れるか?」
「うん、どうした?」
1つ違いの裕次郎とは子供の頃からの遊び仲間でもあり、気心知れた仲でもある。お互いにもう青年とは呼べない歳になったが、それでも関係は子供の頃と変わらない。
「いや、親父が来週お前に食べさせたい料理があるから絶対来させろと言ってるんだ。」
「俺に?何だろ。」
「引退してからここには絶対に来ることがなかったんだけどな。どうも理由が分からないんでな。克也、何か聞いているか?」
そう言われても、思い当たることなどない。父の命日は今月ではないし、私の誕生日ももちろん違う。
「わからないけど、親父さんが来いと言っているんだろ。それなら来ないわけにはいかないよな。」
笑いながら裕次郎の肩を軽くつつく。
「裕ちゃんの親父さんには昔から世話になっているし。」
「心にもない事言いやがって、俺は知ってるぞ。お前、厨房からこっそりと特製マヨネーズを持ち出して何度も叱られていただろうに。」
「おいおい、それは共犯だろ。裕ちゃんこそ、ハムカツのハムを勝手に食べてトイレ掃除させられていたじゃないか。」
そんなバカを言い合いながらも、昔の事と何か関係あるのかと思い出そうと努力してみたが、やはり何も思い当たらなかった。
指定の日曜日の昼前に洋食屋を訪れると、先代のシェフがテーブルのところで先に待っていた。
軽く挨拶すると、椅子に座るように促される。表情は柔和で、振る舞いも以前から私が知るシェフそのものである。
「良く来てくれたね。今日は少し料理を振る舞わせて欲しいんだ。」
シェフであるおじさんは、これまで以上に優しく感じられる。だから気後れ無く思ったところを話してみる。
「今日のことは父と何か関係あるんですか。」
「そうだね、君とお父さんに関係あるかな。でも、話は料理の後にしよう。」そう言うと厨房に向かう。
厨房では裕次郎が他の人のオーダーに応えながらも、ちらちらと父親の姿を眺めているようだ。時折、何か話し合っているようにも感じられるが、私の席からは良く聞こえない。
数分後に私の目の前に出された料理はマカロニである。もっとも、それは熱せられた鉄板の上にスパゲッティのナポリタンのようにトマトペーストや数種類の野菜を加えた味付けが為されたそれだ。上には卵がかけられている。そして、この料理こそ私が由来とされる裏メニューでもある。
そういえば、最近は永らく食べたことがなかった。子供の頃によく食べたものではあったが、歳を取るにつれ徐々に箸が遠のいていたものである。食べてみると、やはり懐かしい味がする。おじさんは、食べる私を優しそうな微笑みを浮かべながら黙って見ている。
なぜという疑問はあるものの、今はこれを食べることに意味があると思い質問を封じてフォークを使って数本ずつ刺して口に運ぶ。
「実はね、この料理は君のお父さんが君のために考えたものなんだ。」
食べ終わったのを見計らって、おじさんは話し始めた。
「父が?」
私からすると、厳格だった父からそのような話が出てくることは全く想像できないものであった。厳格でかつ古風であった私の父は子供を厳しくしつけ、どちらかと言えば反論を許さないタイプだった。その父が私のために考えた?
いや、確かに厳しさの中にも愛情が垣間見えたからこそ私も飛び出すことなく今に至っている。そう言う意味では父を拒絶していたわけではないが、それでも大きな壁は最後まで残っていたし、父の葬儀でも涙を流すことはなかった。
「そうだ。君は忘れてしまったかも知れないが、この料理は君の大好物だったんだよ。」
「いえ、昔好きだったことは今でも覚えています。最近は、食べなくなったけど。」
「君が小さな頃は、うちのスパゲッティーが大好きでね。でもいつもフォークを使って上手く食べることができなかった。」
「確かに、ナポリタンは今でも嫌いではありません。」
「昔はイタリアンなどとも呼んでいたんだけどね。うちではずっと単なるスパゲッティだね。」
「そうですね。そして昔からこの味です。」
「うん。上手く食べられない君は良く泣いてね。でも、マカロニサラダだけは穴にフォークを上手く刺して食べることができていた。それを見た君のお父さんが私にマカロニを同じ味付けで作って欲しいと頼んだのが始まりだ。」
「そうだったんですか。全然覚えていませんでしたし、父から聞かされたこともありませんでした。」
おじさんは陽気に笑いながら応える。
「そりゃそうだ。君の父親、あいつは頑固者で融通が利かない典型だったからな。」
「そして、あいつはそのことを強く自覚していた。だからこそ、ここの味を好きだった君のために毎週昼食を食べに来ていたんだ。君の喜ぶ顔が見たくてだよ。」
「私にはそんなそぶりを見せたことがありませんでした。」
「そうだろうね。頑固者の上に極度の恥ずかしがり屋だったからな。あいつがマカロニを料理するように頼んだのは、君が楽しそうに食べる姿を見たかったからだ。そして、自分ではそれができないと思っていつもここに来ていたんだよ。」
未だに厳格だった父とおじさんとのイメージが重ならないでいたが、それでも何か少しわだかまりが融け始めた気がしている。
「そして、君だけのメニューとしてこの料理をキープしておいてくれと私に頼んだんだ。」
「そうだったんですか。単なる常連に対するサービスだと思っていました。」
おじさんはいきなり裕次郎の方を見て厳しい声を飛ばす。
「ところが最近はこのバカが誰彼なしとマカロニを振る舞っていると聞いたものだから、今日はわざわざこんな時間を作ってもらった。」
「でも、私だけのメニューだなんて申し訳ないです。」
「いや、マカロニをこういう調理をしないのは私の料理人としてのポリシーでもあるんだ。マカロニでは食感と味が十分ではない。だから、こいつには克也君だけにしろと言っていたのに。」
「え~、そこまで聞いてないよ。」
裕次郎が隣で大袈裟に反応する。
「だから、このメニューはこれからも君だけの料理だ。」
「なんて言えばいいのか判りませんが、ありがとうございます。」
「本当は、絶対に息子には言うなと強く念押しされていたんだけど、さすがにあいつがいなくなって5年も経つからもう良いだろうと思ってな。」
「だから、たまにでいいからここでこの料理を食べながらあいつのことを思い出してやってくれ。今日言いたかったのはそれだけだ。」
自分だけのメニューがあると言うことは幸せなことだ。そしてそれが自分の人生の記憶と深く結びついているとすれば、こんな最高のことはないじゃないか。私は今になって知った父の最高の贈り物に気づいたのだ。




