表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/23

学園スイッチ

 うちがそれを見付けたのは偶然なのかそれとも必然だったのかは未だに判断つかないけど、それが今のうちにとって手放すことができない宝物となったのは間違いのない事実。ほんの少し前に手に入れたこの何の変哲もないスイッチがうちの運命を変えた。


 気づいたのは授業が終わって部活に向かう校舎間の渡り廊下から見える草陰だった。当時のことを今ではあまり詳しく覚えていないけれど、何か急いでいたような気がする。その金属製だけどつやがない表面でやや鈍い銀色のそれは、最初ライターか何かかと思った。ちょうどお父さんが使っているライターとよく似た感じだったから。


 うちの高校は校則が比較的厳しく校内で煙草を吸うものはほとんどいない。ぶつぶつと文句を言っている男子生徒もいるにはいるけど、それでも表だって暴れるほど校内が荒れている訳でもない。ほとんどの生徒がそこそこの大学を目指している進学校というのもあるし、どちらかと言えばあまり厄介ごとには関わりたくないという心情の方が強い感じ。いや、むしろ面倒ごとはもうたくさんと言った感覚の方が強いのだと思う。


 そこには理由があって、1年ほど前に学校で起こった自殺騒ぎが元でマスコミだけでなく匿名の抗議電話など世間の注目を浴び、先生も生徒も皆とても疲弊してしまったというのがある。うちが考えるに、高校生とは言っても死に急ぐ子もいるだろう。たまたま、情報がネットで広がって大騒ぎになってしまったけど、世の中にはいくらでもあるような出来事で、学校全体があるいは街全体まで重苦しい雰囲気にさなれる理由など本来おかしなことなのだから。


 一時期、こうした魔女狩りのような疑心暗鬼がこの小さな街全体を覆い尽くし、そしてある時期潮を引くように張り詰めていた空気は霧散した。あの喧噪は幻だったと錯覚してしまいそうな見事な幕引きだけど、それで全てが夢に変わった訳じゃない。


 うちは学年も違うから自殺した子やいじめてた子らとは面識もなかったし、だからこそ事態の推移を比較的冷静に見ていたつもりだけど、それでも外部の熱気と内部の冷気の差が巻き起こす突風が決して心地よいものでは無かった。それでも事件の風化は予想以上に早く、1年も経ずに世の中の関心はうちらの街をそのターゲットから外してくれた。ただ、世間のフォーカスが外れたとしても同じ日常は決して戻っては来ない。一陣の風は事件前まで確かに持っていた私達の大切な何かを間違いなく持って行ってしまった。


 だからこそ、失った何かを思い出さないために、無理に平静を装ううちらが喧噪と安穏のちょうど中間の微妙な糸の上をゆっくり歩くような生活を送るのは、無理からぬ事だと自分に言い聞かせている。嵐のあとでも平衡感覚を取り戻せないうちらの心は、酷い船酔いのようにうちら自身を蝕んでいるのだから。


 渡り廊下の近くで見つけた何の変哲もない金属製の小物は、まるでうち一人に呼びかけるようにキラキラと輝いているように見えた。別に声が聞こえた訳でもないし、先生に届けようと強く思った訳でもない。春風の気まぐれのように心の中を通り抜けた何かがうちの身体を突き動かした。その行動は全く不自然なものでは無かったし、うちはそうするのが当然のように落ちていた小物を拾い上げた。


 それは、小さなスイッチだった。金属と言うよりはかなり軽くプラスティックでできているのだろうけど、真ん中に一つのボタンがあるだけの何もないスイッチである。何の小道具に使うものかはわからないけど、軽さを考えると中は空洞のようにも思える。


 ふと、「世界のリセットに使うボタンかな」とまるで小学生が考えるような想像に思いを馳せたけど、もちろんそんな空想は自分の理性が却下する。見ている感じには全く危険そうには見えなかったけど、それでも誰かの落とし物だとすれば困っているかも知れない。たぶんそう考えたのだとは思うけど、今となってはあまり細かいことまで覚えてはいない。どちらにしてもうちはその小箱を手に入れた。


 予想以上に手に馴染む感じがあって、休み時間に一人でその小箱を触っていたら、その姿が変に見えたのか誰も話しかけてくることはなかったけど、うちとしてはこの何とも言えない感触が心地よくて、忘れ物として届けることすら忘れてしまったようだった。


 しかし、この小箱はどう見てもスイッチである。スイッチがあれば押してみたくなると言うのは人間の性だと思う。下手な理由を付けるまでもなく、私はそれを押してみたくなって仕方が無くなった。その時はそう感じてしまったのだから仕方がない。そして、ボタンを押すと私の周囲が急速の変わっていくのが心の底から感じられた。


 なんて幸福な。。。

このスイッチは、幸福感を増してくれるものだったのだ。



「ほんと、医者のやり方はえげつないな。」

 当人も医者か科学者にしか見えない白衣を羽織りながら、七三に正しく分けた髪型に小振りの眼鏡をかけた男性が呟く。

「なんでもそういえば良いと思っているんですよ。自分に損があるわけではないのだから。」

その横で、助手のような雰囲気の小柄な女性が答える。

「まあ、今回の実験が上手くいけば当面の手当はできる。」

「とは言っても、一時しのぎですよね。」

「いや、この実験はその一時しのぎ的なものをどれだけ長く続けるかがテーマだ。」

「はあ、でも根本治療とは言い難いような。」

「君はまだ勘違いをしているようだね。根本治療など本来はないのだよ。」

「だから、パッチワークを引き延ばすと言うことですか。」

「PTSDが安易に叫ばれたせいで、誰もが自分は大きな問題を抱えていると感じるようになってしまった。それもこれも、医者達が保身のためになんでもかんでもそう診断したからだ。」

「確かに、そのせいでこの国は誰も彼もが自分はトラウマを抱えていると言い出しちゃいましたからね。しかも、マスコミは弱者擁護でそれに輪をかけました。」

「とりあえず、簡単な催眠治療の効果を長続きさせることで、トラウマを思い出さないようにする。そのための装置があのただのスイッチだからな。」

「不思議なものですね。個人の嗜好に合わせたスイッチを選ぶだけで、これだけ効果が長続きするなんて。しかも、トラウマを忘れるという暗示を幸福感として認識しているから、彼らは何度でもそのボタンを押して自分たちにかかっている暗示を繰り返し深めるわけですし。」

「この学校は、PTSDと診断された中でもかなり重症の子供達が集められている。ここで誰もが自分たちの直面したくない事実のみから上手く回避できれば、社会はこの問題を煽ることは減るだろうしな。回避方法がないからこそ、PTSDは意味を持っていたのだし。」

「けれど、悔しいですよね。これでまた、今まで以上に医者達は診断を下しやすくなるのですから。」


 二人の顔には苦笑いが浮かんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ