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ガーディアン

「最後にもう一度聞きます。この選択を了承しますね。」

 静かな声が聞こえる。笙子にはこの無機質で落ち着いたトーンの声が神様から差しのべられた救いの手なのか、あるいは悪魔の囁きのような奈落への道標なのかを深く考える余裕はもはやない。ただ、それでも最悪とも呼べる状況を変えるためには他に道はないと確信していた。

 声は出さないが、ゆっくりと頷く。


 ここに来てから半年は過ぎたかもしれない。日本の何処なのかもわからないが、ただ山奥の風景の一部でもあるように残っている廃工場の地下にある施設は、決して綺麗なものではないが最低限の生活ができる場所だった。収容所のように見えなくもないが、それでも死を選択しようと思い詰めていたころからすれば穏やかな時間を過ごせたとも言える。

 この選択を突き付けられた時のことは今となっては明確に思い出せない。ただ、相当に精神的に苦しんでいたこともあって、切羽詰った笙子には選択の余地はなかった。それでも結局ここに来ることを選択した。お金も友人も何もかも失っていた笙子には払えるものは何もなかったが、それが問題とはならなかった。


 人は、悪い現状が固定されることには耐えられない。仮にその変化がより悪い道へと転がり落ちるものであったと予測できたとしても、ひと時の変化が心にこびりついた厚い瘡蓋のような環境を変えてくれると期待してしまう。傷跡の痒みに耐えかねて掻いてしまうのと何ら変わらない愚行だとわかっていながらも、「痒い」という状況に意識がフォーカスされてしまうと他の様々なことに思いを馳せることができなくなってしまうのだ。


 そもそも、一体どこで道を誤ってしまったんであろうか。今、冷静に振り返ってみてもわからない。笙子にとって今回のチャレンジは最善だった。すべての可能性の中から厳選してこれしかないと選んだ道である。仮に絶対という言葉は世の中で許容されないとしても、その次席くらいの確度で成功できる確信があった。事実、途中までは間違いなく上手くいっていた。

 ただ、気付いた時には立ち上がることもできないほどの状況に立ち尽くしていた。一つ一つの出来事は詳細に思い出せるのに、その一連の流れはまるで幻のようだ。そして、信じていた仲間に裏切られ、取引相手からは罵られ、そして生きていく価値さえ考えられなくなっていく。


再び声が続く。

「あなたはこれから別人になります。生まれも素性も新しいものとして生きていくことができます。」

「結婚もできます。子供を作ってもいいでしょう。」

ここで声のトーンが変わる。いつものことだ。

「ただ、別人だということを他の人に決して知られてはいけません。感づかれてもいけません。過去を知る人間とは絶対に接触しないください。」

「目立ってはいけませんが、真面目に働いてください。それは仮に結婚しても続けてください。」

念押しするように最後の言葉が告げられる。

「そして、次はもうないことを覚悟してください。」


 次々と聞こえてくるこれらの言葉は既に頭に刷り込まれるほどに繰り返し聞かされてきたものである。新しい名前も、作られた生い立ちも全て諳んじている。新しい人格の女性は真面目で寡黙だ。これが実在の誰かとの入れ替わりなのかはわからない。犯罪に関係しているかもしれない。ただ、仮にそうだったとしてこれまでの最悪期と何がどれだけ変わるのか。

 声の主は善意からの行動だという。しかし、社会にそんな甘い話などあるはずもない。笙子でも何らかの理由で誰かの役回りを押し付けられることはわかっている。ただ、そうでもなければ笙子が新しい人生を歩み直すことができないのだともわかっている。

 実際、顔も容姿も変わった。自分でいうのも何だが、前よりもずいぶん美人になった。偽の経歴に沿った知識も随分覚えこんだ。これなら、誰も気づくこともないだろう。私は別人として新しい人生を歩んでいける。あとは、現状を如何に長く維持できるか。兎にも角にも徹底的にトラブルを起こさないことである。


 これまでの上を目指し続けた人生とは真逆かもしれないが、こういう人生もあってもいいのではないかという気持ちも少しは芽生え始めている。人生は再出発できるものだとと社会やメディアは言うが、現実はそう甘くはない。再出発できる人はできる程度の失敗しかしていないだけなのだ。

 少なくとも笙子の場合には、再出発する道筋さえ見出せなかった。あるいは、水商売に身を落とし男に貢ぐだけの存在として生きていく方法もあったかもしれないが、友人も知己と会うことが恥ずかしくなるような状況に身を落とし底辺で蹲っていることを再出発だとは思えない。

 そして、笹本笙子は岡田美知子という新しい名前を得て新たな人生を歩む。




 不思議なことに、名前のみならず住む場所も新たな職場さえも準備されていた。だからと言って何か犯罪に手を染めるような指示が出されているわけでもない。いつか、この事実をもって脅されるのかもしれないが、あの施設を出てから1年が経過するというにもかかわらず何も接触はない。

 この別人の両親はすでに死んでいる(ことになっている)。親戚づきあいもない。そして、戸籍から住民票まで完璧に整っていた。解放されたのは東京のはずれで、ちいさなワンルームは既に契約されていた。それどころか、職場の面接も既に申し込まれておりそれを受けるとすぐに採用が決まった。

 小さな会社の事務職員だが、職場は忙しくともアットホームで穏やかな性格の人たちに囲まれた居心地の良い場所でもある。かなり専門性が高い会社のようだが美知子には複雑すぎてよくわからなかった。それよりも、今の平穏を少しでも長く続けられるとよいと願っている。



「ガーディアンNo.5069は予定通り安定した行動をしています。」

「うむ、日本の技術を守るためにはもはや法律だけでは対応できないからな。」

「重大な人権侵害ですよね。」

「だからこそ、死の縁にあった者のみを使っている。我々の救済がなければ彼女は死んでいた。」

「新たな人生を送り、知らぬ間にスパイとして情報を我々に送り続けるわけですね。」

「スパイというものは、本人の自覚がない方が都合が良い。だから麻薬の運び屋にも一般人が利用されているだろう。」

「しかし、培養された人工臓器が生体電気を使い五感の情報を発信し続けているとは誰も気づきませんよね。」

「気づかれては意味がない。スパイは日常に溶け込むことが何より重要なんだ。」

「おかげで中国の産業スパイの尻尾もばっちりです。彼女自身は気付いていないようですが。」

「ビッグデータの解析能力さえあれば、人間が得る膨大な情報から有益な部分をピックアップできるからな。そして彼女は日本という国に貢献することで新しい人生を歩む代償を支払っているわけだ。」

「彼女の追い目を利用しているようで気が引けますが、法律で情報漏えいを防げないのだからこれもギブアアンドテイクなんでしょうね。」

「皮肉な話だが、彼女たちこそが日本の守り神だ。」

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