害虫よ永遠なれ
「まさか、あれが流出している!?」
T建設技術研究所の主任研究員である笹川は、部下からの報告を聞いて絶句した。
「いつから、、、どこからだ?流出ルートはわかっているのか?」
「いえ、数ヶ月前に一部のサンプルが紛失していると言うことがわかったのみです。今、関係者に事情聴取をしていますが、現状では何とも。」
うつむき加減の下川は小刻みに震えながら応える。いつものスポーツマン風の快活さはそこにはない。
「まずいな。あれは空気中に晒されれば自然に死滅するだろうが、情報が漏れたかもしれないということが何よりまずい。」
「やむを得ん、あの菌と我々の関係を示すものは今のうちに処分しておくんだ。これまでのデータも破棄だ。」
笹川は苦虫をかみつぶすような面持ちで声を絞り出した。
彼らが流出の懸念をしているのは、現在まで研究を進めていたある特殊な菌類についてである。これは、建設材料の再処理をスムーズに進め資源の有効活用を図るために、コンクリートを細分化する能力を有する苔にも似たコロニーを形作る特殊な菌のことである。日本海溝の深海で見つかった好アルカリ性のこの菌は、元々深海に沈んだ貝殻などのカルシウムを食料にして繁殖していたものである。但し、深海に生息していることもあって酸素には強くない。多少の改良を加えたことで水圧のないところでも生育するものの、地上では空気中の酸素を苦手としており数時間も触れていれば死滅する。
実際、彼らの実験施設でも窒素を充満させた圧力タンクの中でのコンクリート再分解を研究していたに過ぎない。ただ、この研究は会社にも秘密に行っていたものであり、知っているのは彼と数人の部下のみである。
「わかりました。並行して引き続き流出経路についても調査します。」
部下はまだ落ち着かない様子のまま、笹川の部屋から慌ただしく駆け足で出て行く。
人に毒性のある菌ではないため、警戒レベルの低いレベル2の研究棟で扱っていたのが失敗だった。実際に、笹川も菌の耐性が高まればより厳重度の高い棟に移すことを計画していたのだ。
「まあ、まだ大気中では生育できないのだから。」
そうつぶやく言葉には心なしか力がなかった。
数ヶ月後、世間をビックリするようなニュースが騒がせていた。
街中を走るモノレールの高架橋が落下したのである。偶然にも電車は走っていなかったため死者は出ていない。ニュースの解説では工事上の欠陥に指摘が集中している。
そのニュースに心当たりのある笹川は、血の気を失った。
「そんな理由じゃない!」
部下も、血相を抱えて笹川の部屋に飛び込んできた。
「信じられないのですが、あれが広がっています!」
もう、笹川にも部下にも問題の大きさは痛いほどわかっている。コンクリートを喰らう菌なのだ。こんなものが社会に広がっては世の中のほとんどの建物や土木構造物は壊れてしまう。人類が長い年月をかけて緻密に作り上げてきた文明社会は、おそらく完全に崩壊してしまうだろう。
さらに、この菌はアルカリには元々強いためにそれで死ぬことはない。酸には弱いのだが、これを用いればアルカリ性であるコンクリート構造物自体にも大きな悪影響が出てしまう。焼くくらいしか対処方法がないのだが、これも厚いコロニーを形成していれば内部まで届くかどうか。コロニーの空気層が断熱効果を発揮するのである。要するに打つ手がないのである。
「とんでも無いことになってしまった。。。」
もはや笹川には、この事態を打開しようという気力も失せてしまった。あまりに大きな問題に直面すると人は逃避に走るのだ。資料は全て処分してある。この菌のことは何処にも発表していないので、流出元が笹川の所だと言うことも誰も知らない。そもそも、空気中では生きられない菌である。
誰も彼を責めることなど無いはずだ。たとえ社会が崩壊しようとも。
完全に心が折れてしまった笹川ではあったが、それでも崩壊現場に足が向いてしまったのは研究者の性であろうか。その崩壊現場には、確かに笹川の知っているあの菌のコロニーが形成されている。苔のような感じに見えるが間違いない。ただ、菌のことが容易に知られるとは思えない。
そんな笹川の目に不思議な光景が映った。なんと、ゴキブリがあちこちに這いずり回っているではないか。
まさか!
慌てて、現場制止用のロープをまたいで崩落現場に駆け寄りその状況をまじまじと見つめる。
どうやらこの菌はゴキブリの大好物のようなのである。
薬剤でも炎でも死滅させることができないこの恐怖の菌を駆除する最適な方法が見つかったかもしれない。
それからの笹川は無我夢中で研究に取り組んだ。いや、研究だけではない。育成にもである。
そう、人類社会を最悪に導く菌を駆除できる最高の武器である「ゴキブリ」をより強力にして増産するのだ。もちろん、菌の出所が自分だと知られるわけにはいかないので、あくまで秘密裏にだ。彼はまさしくゴキブリに人類の未来を託そうと考えたのだ。
彼の研究室はあっという間にゴキブリ屋敷となった。ところがそんな研究を会社が許すはずもない。そもそも会社にも研究の理由を告げることなどできようもない。
ついには彼は自宅に場所を移さざるを得なくなり、当然のことながら妻と子供は早々に引き払って実家に帰った。
しかし、人間社会でそんな生活が許されるはずもない。
近隣からは怒鳴り込まれ、市役所は説得に来る。気が狂ったかと思われ、彼の家は迷惑屋敷と成り果てた。だが、それでも彼の気持ちは折れなかった。
そして、今日も彼はセッセとゴキブリを生み出し続ける。社会の崩壊を防ぐために。




