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少年少女

「私ね、今月末に、死のうと思っているの。」


喫茶店のテーブルの向こう側で彼女は、明日の夜ご飯の献立を口にするように、そう云った。

「え…」

アイスコーヒーのストローを咥えたまま、とても情けない声が僕の口から漏れた。

「あ、煙草、平気?吸ってもいいかな。」

鞄の中の煙草を探りつつ、彼女が言った。

「あ……、う、うん。」

僕の喉からはまた情けない声が漏れた。

「ありがとう」

そう云って煙草に火を付け、

僕の方に掛からないように、少し顔を上にあげて、彼女は紫煙を吐いた。

「そんなに驚かなくてもいいよ。って、まあ、普通は驚くか。ごめんね。

うん、なんだろう。この間そう決めた時に、何故か君の顔が浮かんだんだよね。

会いたいなって、思ったの。だから今日、会えて嬉しかったな。

こんなに上手く連絡がつくと思わなかったから、

しかも君も東京に住んでるなんて思ってなかったから、本当に嬉しい。」


彼女は右手に持った煙草で、灰皿を叩いた。はらはらと灰が落ちてゆく。

中指にしている、変わったデザインの指輪が、鈍く光った。



彼女と会ったのは、中学校の卒業式振りだった。

僕らはそれなりに、言葉を交わす仲だった。

僕は、優しく微笑む彼女に、いつからか密かに、憬れを抱いていた。

それを恋心と呼んでいいのかは、わからなかった。

気持ちを伝えるなんてできず、卒業式を迎えたきり、僕らは散り散りになった。


だから、この間その彼女から突然手紙が届き、

(僕は今、東京で一人暮らしをしている。

実際には、実家に届いたものを、此方に転送してもらったのだ。)

その内容が、久々に会って話したいということだとわかったときは、

驚いたが、とても嬉しかった。

彼女も今、東京に住んでいることを手紙の内容で知り、

なんだかあっという間に僕らは、今日、この日、

この場所で、再会することになった。



白い肌と、直毛の長い髪は、あの頃からちっとも変わっていなかった。

ただ、今の彼女はとても痩せていて、頬はこけていて、

目の下には黒々とした隈があった。

彼女の心は、身体は、今、決して健康的な状態ではない。

待ち合わせの場所に少し遅れてやってきた彼女を見たとき、僕はそう思った。

そしてそれが、哀しかった。


彼女は二本目の煙草を取り出し、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

さっきの「死のうと思う」という言葉に対し、

何も返事を返せないまま、

僕はアイスコーヒーに入れたガムシロップの容器に視線を落とし、

ただ黙りながら、相槌だけ打ちながら、彼女の話を聞いた。


「大好きだった恋人に、逃げられちゃったの。」

「本当に、愛していたのだけど。」

「それから、調子を崩して、過食症になってしまって。」

「過食症って知ってる?たくさん食べて、胃が空っぽになるまで、トイレで全部吐くの。」

「…あ、ごめんね。ここ、食事する場所なのに。」

ふふ、と口元で笑った。目は、ちっとも楽しそうにしていなかった。

僕の方を見ているけど、その目はもっとずっと遠くを見ているようだった。

僕らのふるさとがある方向を、彼女は眺めていたのかもしれない。

毎年僕らのふるさとには真っ白い雪がたくさん降り積もる。

今の彼女の瞳には、その真っ白な雪が映っているような気がした。



「ごめんね。なんだか、一方的に話してしまって。迷惑だったかな。」

喫茶店を出ると彼女は、僕の隣を歩きながらそう云った。

すっとした冬の空気が、温まった体を冷やす。

さっきまで夕方だったはずなのに、もうすっかり街は、夜に染まってしまった。

「ううん、そんなことないよ。話聞けて嬉しかった。」それが僕の精一杯の答えだった。

もっとたくましい男性だったなら、「僕が君を支えるから、

一生支えるから、死ぬなんてよせ。」と云うのかもしれない。

だけど僕はどうしようもなく臆病で、情けのない男だった。


「ねえ、もう少しだけ、歩きながら話をしてもいいかな?」

彼女は赤いマフラーを整えながらそう云った。

さっきよりも少しだけ、楽しそうな目をしていた。

僕はそれが嬉しかった。

「うん、勿論。」

ふふ、ありがとうと彼女は笑った。


駅前を通るとイルミネーションが目に入った。

彼女は立ち止まり、「綺麗」と、小さな声で云った。

そして、とても哀しい顔をした。

「大好きだった恋人」と見た、イルミネーションを思い出したのだろうと思った。

僕はその横顔がとても哀しかった。

心だけ誰かに持って行かれたような、喪失感に似た哀しさだった。


しばらくお互いに無言で歩いていると、

いきなり僕の脳の中に、中学校時代の教室の匂い、

風、光、たくさんの鮮明な思い出が、蘇ってきた。

放課後のグラウンドの掛け声。合唱部の練習の唄声。

教室移動の賑やかな廊下。彼女の優しい微笑み。


「ねえ、覚えてる?」僕は口を開いた。

足元に落とされていた彼女の視線が、すっと僕を捉えた。

今日初めて、彼女は「僕を見た」かもしれない。


僕は中学校時代の話を口にした。

若くて、青くて、痛くて、儚くて、でも、とても美しい思い出だった。

僕の口からどんどん言葉が生まれてきた。

自分でも忘れていた記憶たちが、洪水のように僕の頭に流れ込んできた。

彼女は楽しそうに相槌をうっていた。

「そんなこともあったね。」

僕は夢中になって中学時代の思い出に浸っていた。やがて彼女の相槌が小さくなり、だんだんと消えていった。

僕は心配になり彼女の顔を見た。その頬は、涙で濡れていた。

「あ…」驚いた僕は思わず声を漏らした。

「ううん、大丈夫、懐かしくって、泣いてるの。

もっとあの頃の話聞きたいな。続けて。」

彼女は長い髪の毛が乾いた涙によって、

頬に貼り付いているのも構わずに、僕に笑いかけた。

スッと鼻をすする。

目尻からまた一筋の涙がこぼれた。笑いながら泣いていた。


心が痛かった。



「結局、何駅分か歩いちゃったんだね。」

彼女が乗るという地下鉄の駅の少し手前で、僕らは別れることにした。

「今日はありがとう。」

「ううん……こちらこそ。」

なんだか言葉が喉に引っかかり、うまく出てこなかった。

泣くのを我慢しているからだ。うつむいたまま、そういうのがやっとだった。

「じゃあ、ね。さよなら。」

彼女が云った。どんな顔でそう云っているんだろう。

僕は彼女の顔を見れなかった。見たら泣いてしまいそうだった。


「頑張って、生きてよ。」そんな言葉が浮かんだ。

でも、云えなかった。云ってはいけない気がした。

吐きながら生きている彼女に、自ら死ぬと決めた彼女に、

そんな言葉は云ってはいけない気がした。


それを云ってしまったら、彼女が今日、「僕に会いたい」と思ってくれた理由を、

全て否定してしまうような気がした。


「うん、」我慢できなかった。僕の目から大粒の涙が流れ始めた。

涙を流したのはいつぶりだろう。

久しぶりすぎて、涙の止め方をすっかり忘れてしまった。

拭うこともできず、首まで涙が伝っていく。

彼女の顔を見た。こけた頬に一筋、涙を流しながら、僕に笑い掛けていた。


「さよなら。」彼女は優しく微笑んで、もう一度そう云った。

あの頃の微笑みといっしょだった。「さよなら。」僕もそう云った。笑いながら涙を流して、そう云った。


彼女は僕に背中を向けて、地下鉄の駅までゆっくりと歩いて行った。

一度も振り返らず、やがて階段の下のあかりの中に消えた。


さよなら。さよなら。涙が止まらなかった。


僕はしばらくその場に立って泣いた。

何人かの通行人が、珍しそうに僕の方を見ていた。

そんなことは気に出来なかった。

ただ、声を押し殺して、顔をグシャグシャにして泣いた。


僕は彼女との美しい思い出を恨んだ。

彼女はもうすぐ消えてしまうのかもしれない。

僕はこの先もきっと、死んだような気持ちで生きていくんだろう。

くだらない毎日がずっと続くんだろう。

思い出に縛られて、前が見えないのならば、

あの美しい思い出たちなんて、全部、全部、

消えてなくなってしまえばいいのに。


ああ、だけど、きっと、簡単に消し去ってしまえないほど、

痛くて、儚くて、「美しい」思い出なんだ。

そう思うと、なんだか余計に涙がこぼれた。


「神様、どうか、どうか、彼女が、世界の片隅で、呼吸を続けますように。」


僕はそう願った。ただひたすらそう願いながら、涙で濡れたままの頬に、

冷たい夜の風をあびて、煌びやかな街を一人、歩いた。


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