しあわせなふうふ
◆目覚め
わたしの名前は、リサ。
この世界でとっても素敵な魔法使い・アルバ=ジュメールの妻である。
わたしには自分の名前覚えていることがなくて、結婚していたはずの夫のことさえ忘れてしまっていた。
獣もいないような薄気味悪い森の中に立つ小屋のベッドの上で目覚めたわたしを覗き込んでいたのは、美形――だけど幸薄そうなアルバだった。
「よかった、目が覚めたんだね、リサ」
アルバがそう言って嬉しそうに笑ってくれたから、わたしはよしよしと彼の頭を撫でてあげた。癖のある黒髪はふわふわしていて触ると気持ち良い。
普段は少し細められているおんなじ黒い目をまんまるに見開いて、そうして少しだけ嬉しそうにはにかんだ。
「もっと撫でてよ、リサ。これ気持ち良い」
黒猫が懐いたみたいで、嬉しかった。
だからアルバに請われるままに、わたしは頭を撫で続けてあげた。
目が覚めた時、自分の名前以外なにも覚えていなかったにも関わらず、目の前のアルバの機嫌は取っておいても損はないと思ったから。
◆水
外は雨が降っていた。わたしは水があまり好きじゃない。
でも、アルバの手から生み出される水は嫌いじゃない。雨水を浄化して飲むのが普通だったような気がしたけど、わたしはアルバに甘やかされるまま彼の魔法で綺麗な水を出して貰っている。
「アルバ、アルバ。喉が渇いたの。お水ちょーだい」
いい年した大人なのに、子どもみたいに舌っ足らずな口調で甘えてみる。
テーブルに肘をついて最近出版されたらしい魔術書を読む夫に近づき、あーんと口を開ける。
ほんと、喉がからから。
「いいよ。困った奥さんだね、リサは」
呆れたように言いながらも、口元が緩んでる。
アルバはしかたがないフリをするだけで、わたしがこうするのが大好き。
「”魔法よ”、水」
アルバが両手を揃えると、水が手の平の中に湧き出る。
「いただきまーす」
わたしは横の髪を耳かけし、アルバの手の平の水へと唇を寄せた。
ごくごくと喉を鳴らしながら、渇きを癒す。
ちらりと上目づかいでアルバを見上げれば、目が合う。
「物欲しそうな顔でみてくるなんて、いけない奥さんだ」
平凡なわたしに不釣り合いな美しい顔が、色っぽく艶めく。
見せつけるように薄い唇をアルバは舐め上げて、わたしを誘う。
わたしはそんなアルバの誘惑に逆らえない。ふらふらと蜜に引き寄せられる虫と同じ。
「気持ち良いこといっぱいして?」
「それはぼくのほう。ドロドロに甘やかしてよ、リサ」
アルバに横抱きにされて、寝室のベッドへと運ばれる。
そうしてふたり、シーツの海に溺れた。
◆ぎゅっ
どうしてこんな美しい人がわたしの夫なのだろうかと、毎朝目が覚めるたびに三度見してしまう。
今朝も同じベッドの上、わたしを抱きかかえて眠るアルバの寝顔に見惚れる。
わたしと話す時にわざわざ腰をかがめてくれるアルバの優しさが好き。
笑うと目を細めるところが好き。そっと壊れ物を扱ってくれる優しい指先が好き。
「…おはよ、リサ。今日は早起きじゃないか…昨日の夜、物足りなかった?」
いじわるなことを言うアルバは嫌い。
わたしはむぅっと頬を膨らませて、アルバの意外と逞しい胸板に顔を寄せる。
ぐりぐりと額を押しつけて反抗にポーズを取る。
「ちょっ、くすぐったいよ、リサ。ごめんってば」
身を捩らせて笑うアルバ。
「ね、奥さん。ぼくのこと、ぎゅっとして?」
時々、アルバは目に見えて弱くなる。
いつも人を小馬鹿にしたような顔をして、自信たっぷりなくせに、時々どうしようもなく不安そうな顔をするのだ。
アルバは短く、早口で言うのだ。
「この幸せがいつか壊れてしまう日が怖いんだ。…ぼくは、魔法使いなのに」
わたしに魔法使いのことはわからない。
ううん、なにもわからない。魔法使いのことだけじゃない。
わたしの世界はアルバとわたしの家の中が全て。
外には目が覚めてから一歩も出たことがない。
獣もいない森だけど、薄気味悪いし、友達も両親も分からないから会いたい人もいない。
世界は、アルバとわたしだけで完結している。不思議と、不満はない。
「離婚なんてしないよ、アルバ。だいすき」
可愛らしいお願いに、わたしは頷きながらあいのことばを囁いてあげる。
アルバの腕の中から抜け出して、今度はわたしが彼を抱きしめるような体勢をとる。
やわらかな癖毛は触ると気持ちいいけど、首筋に当たるとくすぐったい。
髪を梳いてやりながら、よしよしと硬い男の人の身体を撫でて慰めてあげる。
◆間接キス
ラフテア王国とやらで有名なお菓子をアルバが買って来てくれた。
ほとんどのことは家で何でもできちゃうアルバだけど、たまにどこかにお出かけする。
そう言う日は決まって雨だから、わたしは憂鬱な気分になってシーツの中で丸まっている。
でも、アルバのお土産のお菓子で気分は晴れる。
「毒味。ん、問題ないね。ほら、リサ。あーん」
全く読めない文字の包装紙に包まれた白いお菓子をアルバから餌付けされる。
わたしは逆らわない。
あーんと素直にお口を開けて、アルバが齧った部分にぱくつく。
「間接キスだよ!アルバ!」
もしゃもしゃとお菓子を堪能しながら、自慢げに言う。
「関節キス?リサがかぶりついたのは、お菓子でしょ」
「間接キスだよ!知らないの?」
「知りませんよ。リサは記憶喪失だからね。すぐ造語を作る」
「そんなことないと思うんだけどなあ」
でも、なんでも知ってるはずのアルバが知らないなら、これはわたしが勝手に作った言葉なのかも?
わたしは首をかしげたまま、アルバから差し出されるままにお菓子をぱくついた。
ん~、デリシャス。
あ、そういえば、デリシャスって前に言ったらこれもアルバに変な顔されたな。苦虫をかみつぶしたような顔って、ああいうようなのを言うだなって。
◆資格
「自分自身のこともなにもかも覚えていないのに、アルバの隣に資格ってわたしにあるのかなって?」
ある日、わたしはアルバに背後から抱きしめられたままぽつりと呟いた。
時々、記憶がないことに不安になる。
アルバは気にしてないよバーカってデコピンしてくるけど、それでもやっぱり不安だ。
「リサ以外、ぼくが隣に置きたい女なんていないよ。記憶がないなら、好都合。
リサは昔も今も、ぼくとの思い出でだけで構成されてるってことだよ?すっごいゾクゾクする」
陶酔したような声で、耳元で囁かれる。
「ん…っ!アルバ、耳元でそんな声出さないで!」
背筋をかけあがるぞくぞくとしたものに、わたしは身を捩らせる。
涙目で背後に振り向いて抗議すれば、アルバはうっとりとしたような顔でこっちを見ていた。
「不安にならないくらい、これからぼくがいっぱい愛してあげるからね」
「アルバねちっこいから、あんまり好きじゃない。控え目にして?」
「んー、無理。さ、ベッドいこっか」
「たーすーけーてー」
またベッドに連行されて、日も明るいうちからアルバにいっぱい教え込まれる。
「……記憶がないからこそ、ぼくのお嫁さんじゃないか」
上半身裸のまま、眠るわたしを見つめるアルバがそう暗い声で独り言を言っていたなんて知らない。
◇子ども
唐突ですが、子どもが生まれました。
わたし、いつの間に妊娠してたのかな?
気づいたら出産の痛みで意識が覚醒して、アルバに両手を包まれていた。
で、生まれた子どもは不思議なことに白い髪に赤い瞳と黒い瞳のオッドアイ。
「ねえねえ、アルバ。この子、本当にアルバがお父さん?」
顔立ちはアルバにそっくりな男の子。
でも、不思議な髪色と目の色にわたしは隣に寝かされた我が子を見つめ尋ねる。
「当たり前だよ。ぼく以外の子を孕んでたら、真っ先に殺すし」
「そ、そっか」
深くは尋ねないことにした。
◇
「子どもが生まれた。命が世界に定着したことは証明されたね」
暖炉の前の揺り籠に寝かせた我が子をあやすリサを見ながら、ぼくは呟いた。
『教えて、アルバ。あなた、一体わたしに何をしたの?わたし、思い出したかも知れない。だから、死ぬわ』
リサの嫌な言葉が今でも耳元に蘇る。
ぼくは目を瞑って、それを頭から追い払う。
「ぼくより先に死んだって無駄だからね、リサ。逃がさないよ」
ぼくの手の中には妖精からもいだ羽根。
外は雪が降り積もってる。あの日と同じ天気だ。
子どもの名前は、ユキにしようってリサが言うからそれでいい。
リサ以外、ぼくはどうでもいいから、なんでもいいんだ。