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矢田川は黒々とした水面がゆったりと流れていて、ところどころ太陽の光が反射して白く輝いている。両岸の緑地は灰地。白い近いけど、まったくの白というわけではなく微妙に黒を混ぜたような灰色だ。黒と白を等分したような草が生えていて、それよりもっと黒味が強い木が何本か見えた。
顔を上げると白を背景にして、ほんのわずかに黒い粒子をまんべんなく撒いたような空。もし色をつけるとしたなら青だろう。本当はスカイブルーがどんなものなのかボクにはわからないのだけど、きっと素敵な青空だ。
こういうのを抜けるような空というのかもしれない。
晴れてて、雲ひとつない。
「うん、いい天気だね」
矢田川の堤防をゆっくりと散歩しながらつぶやいてみる。大晦日まで、あと一週間もないのだ。寒くないわけじゃないけど、空気の冷たさが気持ちいい。
一面のモノクロームの世界がボクの世界だ。全色盲といって色というものがわからない。かわりに灰色に関しては普通の人間レベルとは桁が違う。濃いところから薄いところまで白と黒の中間の階層は無限にある。その微妙な差異がわかるなら、世界は白黒で構成されていても充分に美しい。
それに微妙な明るさの判別能力にも優れているので、完全な闇の中でない限り夜でも不自由なく見える。
「あいつ、まだついてくるぜ。なあ、ハヤ、ちょっとボコって……あそこの橋から死ぬまで逆さに吊るしてやろうか?」
とても透明感のある澄んだソプラノの声で、とんでもなく物騒な提案をしてきたのは大神音瀬。
漆黒というにはちょっと薄く、清んだ瞳。肌理の細かい白い肌。ぷっくらと柔らかそうな頬。やせているというより、締まった身体をしている。
フランス人形にも負けない、フリルがいっぱいついた黒っぽいドレスを着ていた。本当の髪は肩のあたりで切りそろえられた黒髪だけど、ウイッグをたくさん持っていて、今日は白っぽい――どうやら金髪らしい縦巻きロールだ。ボーダー柄のオーバーニーソックスに、厚底のブーツを履いている。
しかし、その姿と正反対に、言葉遣いも乱暴でがさつだし、顔はかわいいのに目つきがやたらと悪くて、瞬間的にキレるバイオレンスな性格。外見と内面のアンバランスなことといったら……。
「ボクもちょっとウザいな、と思いはじめたんだけどね。それでも殺すのはやめて欲しいな」
「ハヤがやめて欲しいなら、そうする」
ボクは音瀬のことをオトと呼び、オトはボクのことをハヤと呼ぶ。大神早瀬というのがボクの名前だ。
オトは口より先に手が出る、それもパーではなくグーなのだが、ボクの言葉にだけは従順だった。そして、尾行者のことはすっかり忘れたかのようにボクの右手に自分の左手を滑り込ませ、ぶらぶらと揺すった。
その手は小学五年生らしい小さくやわらかいものだったが、鍛え上げたプロレスラーであっても勝負にならない身体能力の持ち主だとボクは知っている。イトコだから生まれたときからの付き合いだし、幼いころから懐かれてて、親戚一同が勝手に決めたこととはいえ許婚という関係ということもあるし、五歳という年齢差もあるだろうが、いままでまともにケンカしたことはないが、やればボクのほうが秒殺されるだろう。
いや、百パーセント秒殺だ。がんばれば十秒くらいは耐えられるかもしれないけど、一分は絶対に無理。なさけない話なんだけどね。
しかし、そんな力があるとは信じられないほど、やさしく手を引き寄せられる。黒いアスファルトに、もっと黒いボクたちの影が重なった。
ボクの右手を頬にくっつけて、すりすりと動かす。しばらくして頬から離したから満足したのかと思ったら、どうやらその反対でオトはつやつやした唇でボクの人差し指をパクッとくわえた。
ちゅーちゅー。
指をしゃぶられるとくすぐったいけど、ちょっと気持ちいい。オトの口の中は熱くて、ぬめぬめと湿ってて柔らかいし。
爪の根元に歯を立ててくる。別に甘噛みだから痛くない。
「くすぐったいよ」
と、抗議してみる。
オトが上目遣いにボクを見る。例えるなら〈拾ってください〉と書かれたダンボールの中に捨てられている子犬みたいな瞳。
「ダメ?」
「ダメじゃないけど」
「それならいいじゃん」
舌が指先から爪の形をなぞるように動く。基本的にオトはボクに対して好きなことを好きなだけやっていいと思い込んでいるようだ。ダメじゃないは、認めたわけでも許したわけでもないはずなのに、はっきり拒絶しない限り、すべてOKなのだ。まあ、婚約者という関係だから指をなめられるくらいで恥ずかしがってはいけないのかもしれないけど、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。
指を深くくわえて、人差し指と中指の股に舌を這わせる。それからオトはボクの指をスポンと引き抜くと、こっちに顔を向けた。
「オレな、オレな、卵焼きがつくれるようになったんだぜ。今日の晩メシに作ってやろうか?」
「それならボクは牛肉をオイスターソースで煮ようか。オトは好きだろう?」
「オレはハヤの料理が好きだぁ」
「卵焼き、楽しみにしてるよ」
そう答えながらボクは後方二十メートルほどのところに意識を集中した。色覚について障害があるせいだけではないが、かわりに聴覚は抜群にいい。聴覚は万の単位で人間レベルを超え、小さな音も、遠くの音もちゃんと聞きとれるし、その音がどこでしたのか方向もわかる。
嗅覚はもっとすごい。おそらく一億倍とか、そんなレベル。
もっとも、いまのボクは集中してにおいを嗅ごうとすると鼻がツンとして血のにおいにむせてしまう。どこにも血はないのに、濃密な血のにおいを感じてしまうのだ。だから、調子がいいときでさえ本来の能力の半分も出せない。
それでも二十メートルの距離なら人物の足音を聞き、他の足音と区別し、同時に体臭によっても尾行者を確認することができた。
さらには彼女の手にしているデジタル一眼レフのシャッター音もわかる。フィルムと違ってデジタルなら失敗した画像は消せばいいのだけれど、それでも今日一日だけで三百枚は撮りすぎなんじゃないかな。
家を出るところとか。ポストに葉書を投函しているところとか。図書館に入る姿とか。さすがに図書館内では自粛するだろうと予測していたが、鞄からレンズだけ出してこっそり撮っていた。たしか入口に館内撮影禁止と看板が出てたはずなんだけど。
これで一週間も毎日ずっと監視されている計算になる。
見られて困るような秘密を抱えているわけじゃないけど、いいかげんうっとおしいというのが本音。それに、ボクにだってたまには尾行されて困る秘密の用件もあるし。
――たとえば今日。
本来なら二、三日前にはやっておきたかったのだけれど、なかなか尾行を諦めてくれないから今日まで伸ばしてしまった。もう引き伸ばすのは無理だから出かけることにしたのだが、きっちり途中でまいた――はずだった。ところが、目的地の近くでふたたび尾行がはじまった。待ち伏せとか、先まわりという言葉がボクの頭に浮かんだが、どこに向かっているか相手が知るはずがない。
しかし、偶然で片づけてしまっていいこととも思えなかった。
そのときオトが河原の一角を指した。
「ハヤ、あれじゃないか?」
川沿いの雑草が生い茂っているところに六畳サイズの青いビニールシートが三枚も広げられていた。しかも、警察官が立番しているのだ。昨夜はクリスマスイブだったけど、警察は年中無休で二十四時間営業だし、そのうえ未解決の誘拐事件を抱えていてはケーキにロウソクを立てて「真っ赤なお鼻の~♪」と楽しく歌ってる場合ではないのだろう。
事件発生翌日のワイドショーでは各テレビ局とも現場からのレポートをやっていたが、この場所で新たな発見もなく、いまでは中継車は一台も残ってなかった。出遅れたと心配したけど、マスコミがいないなら、かえって都合がよかったかも。
目で見た感じでは、とても凶悪事件の現場とは思えず、どちらかというと暇というか、のんびりした印象だけど、鼻のほうは敏感に事件のにおいを嗅ぎつけていた。
カビくさい枯草のにおい。
ヘドロまじりの川のにおい。
蒸れたようなビニールシートのにおい。
あの警官はタバコを吸うようだ。
血のにおいもする。
間違いなく、あそこだ――と思った瞬間、背筋が冷たくなった。身体の力が抜けてしまう。自分で自分をコントロールできない。恐怖に負けてしまいそうだ。
血のにおいは……。
いや、違う。生の肉や魚の調理は問題ないのだ。だから本当は血のにおいというより犯罪の痕跡というほうが正しいのかもしれない。
ボクの様子がおかしいと感づいたのだろう、オトが不思議そうにこっちを見ている。あまり察しのいいほうではないけど、このままだと気づかれてしまう。
だから、なんでもないふりをして話しかけた。
「シートがかかってるね。テレビドラマだとテープで囲ってあるだけなのに」
「あんなもん、ひっぱがせばいいし」
「見張りもいるよ」
「三秒で片付ける」
「できるかな、三秒で?」
「うまくやったら、ごほうびにちゅー」
「でも、警察が犯人逮捕のため、現場保存をしてるんだし、それを邪魔するというのもどうもよくないような……」
「クソの役に立たないカスどもの心配なんかするなよ。もう三日もたつのに犯人どころか死体すら見つけられないクズじゃないか」
オトがシャープな眉を吊り上げ、顔をしかめて、吐き捨てる。
高針聖夜はボクと同じ聖泉学園高校の生徒だった。彼女が誘拐され、自宅に現金で三千万円を要求する脅迫電話がかかってきたと警察に通報があったのが五日前のこと。管轄である千種警察署に捜査本部が置かれ、愛知県警本部の誘拐事件を専門とする捜査一課特殊班が中心となって捜査がおこなわれた。
翌日、犯人に指定された場所に高針聖夜の父親がスポーツバックを持って出かけた。三千万円を用意できなかったので古新聞を詰めただけだったが、受け渡しの場所には警察が万全の体制で張り込むので、犯人は中身を確認するどころか、そのバックに指一本すらふれるチャンスすらないはずだった。
だが、時間になっても犯人は現れなかった。
「警察に知らせるなと警告したのに、刑事が見張っていたじゃないか。取り引きは終わりだ。二度と娘の顔を見られると思うなよ!」
夜になって犯人は電話口で怒鳴った。そして、矢田川の河原を探せと指示し電話を切った。再度の身代金の要求はなかった。
聖泉学園高校指定の学生鞄が発見され、高針聖夜のものと確認されたのだ。さらに周囲には血痕と、血のついたコンクリートブロック。
誰もが最悪の想像をしてしまう展開である。
テレビのニュースや新聞からすると、コンクリートブロックで滅多打ちにされた可能性があるということだった。たぶん凶器の周辺にも血がかなり飛び散ってたのだろう。
しかも、そのあと川に死体を捨てたみたいだから、もし息があったとしても水死は免れない。
人質はたぶん死亡。
犯人はまったく不明のまま。
それは誘拐事件の結末としては最低最悪。これ以下という事態を想像できないほど、無残で醜悪な結末だった。
マスコミは被害者宅を犯人が監視していたか、あるいは警察の張り込みに不備があったのではないかと報道しているが、警察は慎重に捜査していたと完全否定。そのうえ犯人またはその関係者がマスコミの中にいるかもしれないなどと不用意に発言し、報道各社から猛反発を受けた。すると警察はマスコミから犯人に情報が漏れた可能性もあると訂正したが、誘拐事件を報道協定が解除する前に犯人はもちろん部外者にしゃべるようなことはありえないと、さらに強い反発をくらった。
とりあえず、現在のところ警察は矢田川周辺に人員を集中配置して捜索しているが、いまだに高針聖夜は発見に至らず。
テレビのニュースでは消防団なども捜索にくわわって河原の草むらを押しわけたり、ボートから竿のようなもので川底をひっかきまわしたり、ダイバーが潜るところをやっていたけど、いまは立番の制服警官が一人いるだけ。遺体が発見されてないまま、たった三日で捜索を打ち切るわけはないから、きっと下流域まで範囲を広げたのだろう。
「しかし、どうして殺したと大声で叫ぶのと変わらないようなことをするんだろうな。死体と一緒に凶器も川に捨てればよかったのに」
オトが首をかしげる。
ボクもそれには引っかかっていた。変な話だ。
「それを言うなら、どうして誘拐なのか、そこからして不思議だよ。成功する可能性があまりに低くて、罪は重い。どうしても犯罪をやらなければならないとしても空巣とか車上荒らしにしておいたほうが捕まりにくいし、たとえ逮捕されても初犯なら執行猶予も期待できるのに」
「とにかく殺したら死体を消すのは鉄則だよな。喰っちまうのが一番確実なんだが」
「うまくいかなかったから頭に血がのぼったとか、つい勢いでやっちゃったのかな?」
「そんな犯人だったら、オレがコンクリートブロックで頭をイヤというほどへこませてやるぜ」
いつものようにオトはオトらしくバイオレンスなわけだけど、殺人の証拠をこれ見よがしにさらすのは論外なのは間違いではない。もし勢いでやったとすると、まるで感情の制御がきかない人間がやった犯行ということになる。
一円の金にもならず、捕まれば軽くて無期懲役、たぶん死刑。あまりにもばかばかしい話だ。そんな犯人なら、すぐに逮捕されるだろう。
ということは、この事件にはボクたちの出番はどこにもないわけだ。
うーむ、残念……かな?
「これはボクたちには関係ない事件だよ、たぶん。このまま散歩しているふりをして、今日のところは帰ろうか」
しつこい尾行もついてるしね。ボクは一瞬で決断すると堤防から降りる坂道を降りはじめた。引き返してもいいのだが、尾行者と正面から向き合ったら困る。
こんにちは、と尾行者にあいさつするのも変だ。きっと、お互いに気まずいだろう。しかし、無視するのもどうかな? 偶然会ったふりをするのはわざとらしいし。ここは尾行のことは気づかなかったふりをして、別の道を通って家に帰るのが正しい対応だと思う。
堤防を降りて、下の通りを歩いていくと、うしろから鼓膜を突き刺すような爆音が近づいてくる。まったく車には興味がないから排気音でマフラーの製造メーカーがわかるわけじゃないけど、猛烈にうるさいからカスタム品なのだろう。
角ばった車体の、ずいぶん古そうな車で、昔の映画で見た昭和の暴走族みたいだ。
あまりかかわり合いになりたくないし、耳が痛いので排気音から意識をそらそうとした。その音に集中してなければ、どんな大きな音であろうと簡単にやり過ごすことができる。
しかし、その意識をそらした先でボクの耳はシャッター音を拾っていた。イヤな予感がするのと同時に、今度はブレーキ音がした。
「なに撮ってるんだよ、コラ」
ボクは振り返って確認した。歩道に乗り上げるようにして前をふさぐ車が一台。そこから作業着のようなものを着た男から降りてきて、五軒家千弓さんにからんでいる。
「撮ってなんかいないわよ。あんた芸能人かなにかなの? 鏡で一度でも自分の顔を見たことがあるなら、わざわざ写真を撮りたくなるかどうかわかるはずよ。自意識過剰。かなり恥ずかしい」
「だったらカメラを見せてみろよ」
「なんで見せなきゃならないのよ!」
ムッとした口調で言い返している。
男は五軒家さんの腕を乱暴につかんだ。そして、車の横まで引きずるように連れていく。
「静かなところで話をしようか。乗れよ」
「放しなさいよ!」
「乗れってんだろうが!」
「わたしを誰だと思ってるの!」
「知るかよ!」
「知らないの? これだからチンピラはダメね」
「なんだと、コラ!」
後部座席のドアを開け、強引に車内に押し込もうとするが、五軒家さんは足をつっぱり、両手を振りまわして激しく抵抗している。
「さっさと乗れよ」
男がいきなり五軒家さんに殴りかかる。女の子の顔をグーで殴ったのだ。
「殺すぞ、テメエ!」
さらにもう一発。うずくまった五軒家さんの側頭部に拳が当たる。
ここで待っているように、とオトに言い残し、二人のところに走った。そして、男の背中に向かって思い切り叫ぶ。
「なにやってんだ!」
後ろ暗いことをやっているときは注目を浴びたくない。子供に防犯ベルを持たせるのだって、誘拐犯も痴漢も変質者も大音量で非常ベルが鳴ったら逃げ出すのが普通だからだ。もちろん、この男もあわてて改造車で走り去るはずだった。
しかし、ボクの予測は悪いほうに外れた。男は五軒家さんを殴るのをやめたが、かわりにボクのほうに大股で向かってくる。
「なんだ、テメエは文句でもあるのか! ケンカ売ってるなら買うぞ、コラ!」
「あのですね――」
ガチンと顎骨が鳴った。殴られた、と思ったが反撃できない。いや、したくない。暴力は嫌いだ。自分が痛い目に遭うのはイヤだけど、他人を傷つけることはもっとイヤだ。
両腕で頭をカバーするように防御の体勢をとる。
男はボクの防御ごと潰す勢いで左右の連打を浴びせてきた。そして、反撃してこないと知ると、大振りのパンチになった。
争いごとは嫌いでも、だからといってボクが弱いわけではない。オトほどではないが、普通の人間に簡単に負けることはないだけの能力はある。相手のパンチを見切って、大きなダメージになる直撃をくらわないようにしのぐ。
「逃げて!」
五軒家さんに向かって叫んだ。いまのうちに、男がボクを殴っているうちに逃げてくれれば、あとは……しかし、五軒家さんは動かなかった。
どうやら気絶しているらしい。
まずい――と思った瞬間、脇腹に衝撃。思い切り拳を後ろに引いた大振りのパンチはフェイントで、ミドルのキックが飛んできたのだ。
そのまま男は前へ踏み込んでくる。ここで鳩尾に肘打ちでも、膝を股間にめり込ますことさえできるし、そうなれば勝負は決まるわけだが――ボクは両手を伸ばして突き飛ばそうとした。それが、そのときボクができる最大の攻撃だったのだ。
だが、男はスッと身を低くしてかわし、そのまま肩をぶつけてくる。
もろにショルダータックルをくらったボクは転倒した。さらに脇腹を何度も蹴られる。
「このクソ野郎、早く死ねよ」
ボクの体はかなり頑丈にできているからケガすることもないし、ましてや死ぬ心配もないが、だからといって痛覚がないわけでもない。痛いものは、やっぱり痛かった。
「おおおっーーーーーっ、おおおっーーーーーっ」
たまらず遠吠えしてしまう。
「おおおおおつつっっっっーーーーーーーーーーーーーっっっ」
オトも遠吠えで返事する。しかも、とても力強い声だった。ボクの遠吠えが仲間を呼ぶためのものであるとすれば、オトの遠吠えは狩りの合図。
それは最低の展開に決定したことを意味する。
ボクたちにとって最低ではない。この男がとてもかわいそうな運命になるということが確定したのだ。
待っているようにと言いつけた場所から瞬間移動でもしたかのようにオトは一気に距離を詰めた。
レンチという道具は工場などでボルトを締めるのに使われる。しかし、オトが服の下に隠し持っているレンチはストラップやキーホルダー、お守りなどがたくさんついていて、なかなかかわいい仕様だが、その用途はおもに人間の頭を殴るのに使われる。
このときも、走ってきたそのままの勢いで男の頭を殴りつける。
「なんだ、テメエは――」
威嚇したようだったが、オトは無言のままレンチで男の腹を突いた。鋭い突きを二回、三回と繰り返す。腹筋を破壊して内蔵にダメージを与えようかという勢いで、突くたびに男の体が浮き上がる。
それでも男は右拳を振り下ろすように、オトの顔を殴ろうとした。
「ガーッッッッ!」
オトは右拳を迎え撃った――スッと屈んでぎりぎりのところでやりすごし、男の腕が伸びきったところで手首に噛みついた。ガキガキと骨が軋む音がする。
次の瞬間、右足が跳ね上がり、厚底ブーツが男の股間を潰す。
「うぐ……っ。おっ……」
うめき声のようなものをあげて、男は崩れるように倒れた。
オトはレンチを大きく振りかぶって頭に叩きつけようとする。
「ダメダメダメ、やりすぎ」
「うん?」
なんで? と素朴な疑問を抱えているような顔。
いや、それ以上やったら死んじゃうし。
「もういいんじゃないかな?」
「でも、まだ死んでないぞ。ちょっと待て」
オトがレンチを高々と振り上げた。鋭い目が狙っているのは男の後頭部。
ちょっと待て、はボクのセリフだ。死んでしまうから止めようとしているボクと、まだ死んでないから止めないというオトではコミュニケーション不足どころの話ではない。
「殺すのは禁止!」
「あとで面倒なことになるのイヤだし。死体は復讐しないし」
「警察がからんできたらもっと面倒なんだから」
「死体なんか食っちまえばいいし」
「それでもダメ」
しかたないというふうにオトは肩をすくめて、ポケットから粘着テープを取り出した。
倒れている男を手際よく粘着テープで縛り上げる。両手に巻きつけ、両足にも巻き、最後に両目を覆った。そして、ふたたびポケットからなにか取り出す。
裁縫セット。
それ自体は持っていてもおかしいものではない。針が数本、糸と、あとは安全ピンなんかが入ってて、自分だけでなく誰かのボタンが取れたときにつけてあげれば好感度もアップ。
しかし、オトと針の組み合わせなんだよね。
なんとなく禍々しい感じがする。
身動きできないようにするのは賛成。逃げる時間を稼ぎたいから。しかし、針を無理に食べさせるとか、そういうのは反対。これ以上やるなら止めないと……。
ところが、オトの行動はボクの予想をはるかに超えていた。縫い針を一本だけ引き抜くと、男の両目を覆う粘着テープにちょっとだけ突き立てた。
ちょうど右目のところ。
ほんの〇・五ミリぐらい針先が粘着テープを貫通している。瞼がチクッとする程度だろうが、視界をふさがれた状態で、チクチクと針で刺されたら怖いだろう。
「いま針が刺さっている。これをこのまま押し込むとどうなると思う?」
と、オトは尋ねた。いつもの澄んだソプラノではなく、どこのヤクザかというような野太い声だった。
尋ねられた男の喉がゴクリと鳴る。
「……………」
「オレの質問になんか答えてやるもんか、と意地でも逆らうわけだ」
オトは針をぐりぐりと動かす。前後左右だけで、押したわけではないから眼球にダメージはない。瞼がチクチクするだけで、血が出るほどではないはずだ。
だが、その恐怖感はかなりのものだろう。見ているだけのボクでさえ鳥肌が立った。基本的にオトは単純な暴力が得意で、こんな陰険なことを考えることはない。
「それもちょっと待った。もしかして姉ちゃんに教えてもらったとか?」
「うん。とっても効果的なんだって」
とってもうれしそうな顔をしてボクに報告する。頭をなぜて、という感じに頭頂部をむけてきた。
オトのふわふわな髪の毛をてのひらで楽しむ。しかし、いつものことながら姉ちゃんもろくなことを教えないなぁ……。
大神清瀬。ボクたち大神一族の中の価値観では悪賢いというのは褒め言葉なんだけど、それにしても最凶に狡猾で、ここだけは勘弁してもらいたいという絶妙な瞬間を狙って三倍返しの復讐をするのが得意技だったりする。本当はイトコの関係になるんだけど、ボクたちは姉ちゃんとかキヨ姉と呼んでいた。
姉ちゃんは基本的に変態だ。
趣味は着せ替え人形ごっこ。いまボクが着ている服も、オトのドレスも、みんな姉ちゃんが買ってくれたもの。だから、自分で服を買う必要がなくていいのだけど、人形でなく人間で着せ替えをやって楽しむのはどうだろう?
そして、もうひとつの趣味が人間を痛めつける研究。心と身体に、どれほど深刻なダメージを与え、より長く残すことができるのかを実験するのがライフワークだ。
このまえ会ったときは気絶する寸前で、痛覚が麻痺する寸前でもある、人間に最大の苦痛を与える電圧を調べていると言っていた。スタンガンを改造するときの参考データにするらしい。護身用の器具なのだから最低限の防衛能力があればいいはずなのに、なぜ攻撃や拷問に適切なようにカスタムしなければならないのか、その理由は不明だ。
「口止めしておくだけだから」
オトはボクのてのひらから抜け出すと、耳元でこっそり囁いた。ついでに頬をベロンと舐めてから、ふたたび男の背後にまわり刺した針を指先でちょんとさわる。
「あんまり暴れると手元が狂ってブスッと深く目玉に刺さるぞ。よし、じっとしてればいい。それでは、さっきの質問の続き、これをこのまま押し込むとどうなると思う?」
もがいていた男は冷凍マグロのように動かなくなった。ゆっくり口が開き、言葉を搾り出すようにつぶやいた。
「……目が潰れる」
「そう、正解。これをこのまま押し込むと目が潰れる。では、次の質問。オマエの名前を教えてもらおう」
「曽根、曽根和幸」
「曽根ね。住所は?」
曽根が答えるのと同時に、オトは彼のポケットから財布を抜き、免許証で住所氏名を確認する。
「合ってる。嘘だったりしたらブスッといくところだったのに、よかったな」
と、とても残念そうに言った。
「で、曽根はこんなところでなにをしてるんだ?」
「勝手に写真を撮った女がいたから文句を言ってたら、漫画みたいな服を着た女に殴られて――」
「殴られた?」
オトが針を動かすと、少し緊張が緩んできた曽根の体がふたたび硬直する。
「曽根は殴られたのか?」
「……転んだ、かな?」
「一人で勝手に転んで怪我したのか?」
「そうです。俺は一人で勝手に転んで怪我しました」
「うん、本当のことを言ってるな。ついでにオレの前に二度と顔を見せるなよ?」
「俺は誰にも会いません。俺は一人で勝手に転んで怪我しました。俺はこのあたりには二度ときません」
「忘れるなよ、忘れたら家に押しかけるぞ。いいな?」
「はい」
「ちゃんと住所は覚えておく、引っ越しても探し出すからな」
「はい、すみません」
「じゃあ、今回は許してやろう」
オトは曽根を軽々と担いで車の中に放り込む。閉めたかったのか、へこませたかったのかわからないが、ドアを蹴飛ばした。
車体の前にまわり、今度はボンネットを開ける。ロックを外すのではなく、ボンネットが軋んで捻じ曲がるのなんか関係なく、力技で強引にいった。そして、エンジンをレンチで叩いたり、配線をむしったり、やりたい放題。
「そろそろいこうか?」
ボクのほうは、まだ気を失ったままの五軒家さんを背負った。香木みたいなにおいがする。伽羅がメインで、あとはなんだろうか? 竜涎香とか、麝香とか、そのあたりをブレンドした感じで、源氏物語の世界じゃないし、まさか衣服に香を焚きこめてるわけじゃないと思うけど、上品で素敵なにおいだ。
わりと背は高いほうだし、柔らかい胸がボクの背中を押してくるが、意外と体重は軽いみたい。これなら無理なく自宅まで運べるだろう。
そういえば、彼女の妹も誘拐されて大騒ぎになったのだった。誘拐事件が発生しているときに、六年前の誘拐事件の遺族がボクを尾行する。ここにはなにか意味があるのだろうか?
もしかして――五軒家さんは知っている?
ボクは疑われているのだろうか……。
それに結局またオトに頼ってしまったのも反省すべき点だ。ボクが大神の本家だし、年上でもあるのに。
いろいろ考えなければならないことがあるのに、帰り道はオトに耳を噛まれ続けた。背中の五軒家さんを落とさないように少し前かがみに背負うと、ちょうどオトの顔の前にボクの耳がくる。
「わうっ……」
耳たぶを唇で挟んで引っ張る。
「歩きにくいよ」
「んぐんぐ……」
ぬめぬめと柔らかくて湿った舌が耳の形をなぞるように動き、それから耳穴をちょろちょろと舐めてくる。
「くすぐったいよ」
「はむはむ……」
甘噛みしてくる。ボクが身を引くと、簡単に耳を噛んでいた歯がはずれた。すると、オトはふたたび噛もうと飛びついてくる。
ひょいとかわして、逆にオトの頬を噛む。やわらかくて、なかなか素敵に噛み心地だ。
「わっきゃきゃ……」
オトはうれしそうに笑っている。そして、急に気づいたように、ボクの顔を覗きこむ。
「なあ、ハヤ。重いだろう。手伝ってやるから」
「いいよ」
「ドッキングします」
「しなくていいから。合体ロボットとかじゃないんだからドッキングなんてしなくていいよ」
だけどオトは聞くわけがない。ウィーン、ガッチャーンとか擬音を叫びながら、背負っている五軒家さんの下に潜り込むようにボクのお尻のあたりに頭を押しつけてくる。両手が腰のまわりに巻きついてきた。
うしろから押してくれるという意味なのかもしれないが、ちっとも楽にならない。むしろ邪魔。
「くんかくんか……」
「においを嗅いでるんじゃない!」
「いいにおい……」
「お尻のにおいを嗅いでうっとりするな!」
「今日も元気だな! そんなにおいだ!」
「なんだよ、それ」
しかし、オトはボクのお尻におでこを押し当てたり、頬ずりしてみたり、五軒家さんを背負っているせいで両手が使えないし、逃げられないのをいいことに、やりたい放題だ。