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蜜月〜海と順(3)

 翌朝の順はとても使い物にならなかった。

 しかし海は終始上機嫌で、夕食を摂らなかった分も、とルームサービスでたっぷり朝食を頼む。力が入らずスプーンを持つ手さえ震える順に、海はひと匙ひと匙食べさせてくれた。シークヮーサーのジュースが嗄れた喉にしみる。

「もう、いや」

 何もかも恥ずかしくて、順は頬を染めて俯く。

「……ひどくしてごめんね?」

「そんな言い方しないで、もう!」

「だからごめんてば」

 謝っているのに、海の顔は輝かんばかりの笑顔だった。


 昼過ぎにやっと順が復活して、ふたりは『紅型びんがた』という伝統的な染物の体験コースに参加した。作ったのは、生成りの生地に、ゴーヤやシーサーを染め抜いたお揃いのエプロン。海はその出来前に満足して、

「これをふたりでJuneでつけて、皆にひやかされたいな」

 と悦に入った。


 街や海辺を回って夕方部屋に帰ると、海は自分の大きなトランクを引っ張ってきた。

「さて、今夜のお楽しみ。俺も着替えるから、順さんも着替えて?」

 海が首を傾げる順の背を押して寝室に向かう。トランクを開けると一番底から何やら大きい風呂敷包みを引っ張り出し、ベッドの上に置いた。促されてその包みを開けてみると。

「えっ、どうして」

 紺地に桔梗柄の見覚えのある浴衣。

 順の母真弓が生前よく着ていたものだった。

「こないだ古いアルバム見てたら、夏祭りなんかのイベントに真弓さんがいつも浴衣を着てて、これは着物が好きなのかな、と思ったんだ。引っ越しの時に賢さんに訊いてみたら奥の部屋の桐箪笥にいくつかあるから出してみろって。これが順さんにも似合うかなと思ったんだけど」 

「……懐かしい」

 順は浴衣地に指を滑らせた。母のお気に入りだった浴衣だ。思い出す夏祭りの喧噪、夜店の煌々とした明かり。花火大会ではぐれないように繋いだ手のぬくもり。

「今夜は浴衣で夕ごはんと洒落込もう。着付けできるって賢さんにきいたよ」

「え、でも」

 順が戸惑うと、海はベッドに座り順の手を握った。

「見たいんだもん、順さんの浴衣姿。着て見せてよ、ね?」

 上目遣いで強請るような言い方をする。ずるい。それに弱いの、知ってるくせに。心の中で呟いて、順は頬を赤く染めた。

「わかった、着るわ。海の浴衣は?」

「普通サイズだと足が出ちゃうんで、俺も実家から持ってきた」

 海はもう一つの包みを出してきた。

「浴衣着られるの?」

「うん。俺は向こうで着るから、順さんも着たら声かけて」

 海は順の額にキスを落とすと部屋を後にした。

浴衣を着るなんて何年ぶりか。以前真也に恋していた頃、夏祭りに連れて行くと言われ、必死で着ていった記憶が甦る。結局は行った先で大人っぽい恋人を紹介され落胆して帰ってきた、切ない夏の思い出。

 それが今、こんな遠く離れた南の地で、母の形見を着るなんて。

 何か緊張する。順は紺色の生地を撫でて、はあ、と息を逃がした。


「……お待たせしました」

 順がおずおずと声を掛けると、海はもう着替え終わり、いつの間にか食事が並べられている卓の前に、胡座をかいて座っていた。

 彼の浴衣は白地にかすれた褐色と黒の矢羽柄。細く長身の海だが寸法があっているせいか、若い男性にありがちな「着られている感」がない。襟元はゆったりして見えても合わせはきりりと崩れもなく、褐色の帯の位置も決まっている。浴衣から覗く喉仏や脛の筋肉、大きな手が、否応なしに男を感じさせた。

 ——海……色っぽい。

 思わず漏らした吐息は聞こえただろうか。

 海は立ち上がるとゆっくり順に近づいた。

「……順さん」

 紺色の生地は順の肌に映りがよく、桔梗の柄も可憐だ。帯は菖蒲あやめ色の変わり織りで、文庫結びという蝶結びのような形にした。まとめ髪に留めたのは買ったばかりの紅型のバレッタ。海は正面ばかりでなく後ろにも回り込む。視線を痛いほど感じる。襟足はきちんとしているだろうか、帯は曲がっていないだろうか。どきどきして縋るような目で見上げれば、海は優しく微笑んだ。

「似合うよ、惚れ直した」

 頬にそっと触れて、唇を寄せてくる。浴衣が紺地なので淋しいかと、今夜は少し赤みの強い口紅にしたのに。

「……」

 離れた海の唇に、順の口紅の色が移る。彼がそれを手でぐいと拭う仕草が、何ともなまめかしくて。

「食事にしようか」

 浴衣地の衣擦れが胸をときめかせる。卓には沖縄の郷土料理を含めた和風の創作料理が並んでいた。その傍らには氷や地元の泡盛の瓶も置いてある。

「私、焼酎の類は弱くて」

 バーに勤めているのでウイスキーやジンはそこそこ飲めるが、日本酒や焼酎は以前悪酔いしてからしばらく飲んでいない。ましてや泡盛は。

「じゃあ……なおさら酔わせたいな」

 海が意味深に目を細めるので、昨日の夜のことを思い出し、順は慌てる。

「だめよ、もう、今夜は」

 海はふふ、と笑った。

「……あっという間だね、最後の夜だ」

 海は静かにそう言って立ち上がると、冷蔵庫から冷えたジンとグレープフルーツジュース、そしてシェーカーとグラスを出してくる。

「泡盛苦手ならジンもミックスしたカクテルはどう?」

「シェーカーも持ってきたの?」

 海はふふ、と笑って準備にかかる。料理についていたシークヮーサーでグラスの口を湿らすと塩をつけてスノースタイルに。ジンと泡盛にグレープフルーツジュースを加えてシェイクした。

「どうぞ」

「これは、なんていうカクテル?」

 カクテルはひととおり知っているつもりだが、泡盛を使ったのは初めて。

「『ひと晩限り』って言うんだ」

 海がことん、とグラスを置く。

 ひと晩限り。

 順は海を見上げる。永遠の愛を、誓ったのに?

「飲んでみて、順さん」

 何を考えてるの。海はただ微笑むだけ。順はグラスに口をつける。

「……おいしい」

 爽やかな酸味の中に泡盛が芳醇に香り立つ。海は自分にも作って、杯を傾ける。

「そう言えば、順さんと『家飲み』したことないね」

「Juneで飲まされたり、皆で亮さんのバーに行ったりするから。でも結婚したんだし、今度は家でも飲めるわ」

 その言葉に海が顔を綻ばせる。

「そうだよね、結婚したんだもんね……ああ、いい響きだなあ」

 海はグラスをぐいと煽った。今日はピッチが速い。カクテルを飲み干した後はロックで泡盛を楽しみ始めた。

「今夜は飲みたい気分」

 海は酒好きな父親ゆずりでアルコールには強かった。たぶんつぶれるようなこともないだろう。たった2日だけれど、海の肌はこんがりと灼けて精悍な印象になった。目の周りが酔いでほんのり染まって、微笑みかけられるだけでどきどきする。

「海の浴衣姿、すてき。すごく……色っぽい」

 順は普段言わないような褒め言葉を口にした。酔ったのだろうか、それとも海の高揚がうつってしまったのか。

「順さんに褒めてもらえるなんて、うれしいな」

「着慣れてるみたいね」

「うん。両親とも着物好きだし。それに覚えてるかな、結婚式にも来てくれた美濃部って高校と大学の同級生。あいつが茶道部でね。学祭の時、茶会の人寄せの為に野郎にも着物を着せるわけ。仕込まれて毎年着てたからね」 

 きっと見栄えがいい男子ばかり集められたに違いない。背が高くて、甘いマスクの彼はきっと注目の的だったろう。

「『一緒に写真撮って』なんて言われたでしょう。モテそうだものね、海は」

 そう順が言うと、

「順さん、今日はおしゃべりだ、いい傾向だね」

 と言って、もう一杯泡盛のカクテルを作ってくれる。

「……そうだねえ、俺、見てくれはともかく、まあ器用だからね、そう言う意味では重宝がられたかな」

 海は思い出すように目を細めた。

「下手にいろいろ出来るとさ、何でもできるだろ、ってハードルが高くなるでしょ。俺も負けず嫌いだからどんどんエスカレートして、器用貧乏になっちゃって」

 遠くから潮騒の音が聞こえる。海は肘をついてふう、と息をついた。


「俺、実は始め、高校の看護学科に入学したの、知ってた?」

「え?」

 卒業したのは経営学科だと聞いていたのに。

「中学卒業の頃、お袋の影響で看護師になりたいって急に思い立ったんだ。手っ取り早く仕事がしたいからって、准看護師目指して高校の看護科に入ったわけ。看護科って女子がほとんどでしょ。何かと注目されて未だかつてなくモテたわけ。俺もまあ若かったから、手当たり次第に付き合った。でもいつも背の高さとか器用さとかマメさとか、そういうとこばっかり気に入られて、付き合い始めるとすぐ『こんな人とは思わなかった』ってがっかりされる。たいした執着もなく彼女たちと別れを繰り返した。そのうち『俺って冷たいのかな、おかしいのかな』って、やりたいことまでわかんなくなっちゃって。人間関係も泥沼化して結局その高校は中退したんだ」

 グラスの氷が溶けてからんと鳴った。

「新しく入った高校に行ってもひとつ年上ってのがあって、なんか冷めてて。女の子とも相変わらずのらりくらりつまんない付き合いをしてた。でも、3年になってやっとそういう俺を理解してくれそうな娘と出会ったんだ。だけど運が悪いことに例の美濃部が実は彼女の幼なじみで、彼女を昔から溺愛しててね。あっという間にかっさらっていった」

 そうだ、以前彼は言っていた。


 『いろんな娘にいい顔して遊びまくった時期もあったけど、空しくてね。  

  そういうのは高校までで卒業したんだ。』

 

「結局俺って何なんだろ、ってほとほと嫌気が差した。大学も偏差値で選んだようなもんだったんだけど、期せずして美濃部と同じ大学になった。最初は何の罰ゲームかと思ったよ。だけど、そんな時、順さんにあった」

 海は向かい合う順の手を取った。

「バーナードカフェのカウンターで、順さんが俺の前に立って。夢みたいだった。一目で……恋に落ちた」

 初めてきく、恋のはじまり。順は赤くなって彼を見た。

「初めはベルト・モリゾの『夢見るジュリー』に似てるからだろう、と思ってた。でも、いつも同じ席に座って、熱心に料理の復習をしてる順さんを見て、しっかり生きるというのは、こういうことなんだろうな、って。若い女性なのに、決して甘えない、こつこつと積み重ねていく順さんの姿勢に惹かれたんだ。姿形もだけれど、その生き方が美しいと思った。本気で好きになる意味を知ったよ。美濃部の気持ちも理解出来るようになって、彼ともあっという間に打ち解けた。今じゃ一番仲がいい」

「海」

 順は彼をしげしげと眺めた。


 自分の夫になったこの男は、神の啓示のように言うのだ、

 私の生き方を『美しい』と。


 潮が満ちるように、順の胸に彼への愛がまた溢れた。

「私もね、海を愛して生き返ったの。母が死んで、父が壊れて、恋もうまくいかなくて、今までの人生は哀しくてどうにもならないものだと思ってた。だけど海が教えてくれたのよ。自分を愛すること、自分が愛されていること、そしてチャンスは待っているだけじゃだめだって」

 順も彼の手を握り返した。

「何もかも諦めていた私が、自分から欲しいと思ったのはあなただけ。あなただけだったの」

 海は空いた方の手で、順の涙を拭った。

「順さん、なんて言ったらいいんだろ」

 海は困ったように顔をしかめた。

「これ以上、俺を喜ばせてどうするつもり」

 ふう、と息をつくと、グラスに残った泡盛をすべて飲み干した。


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