蜜月〜海と順(1)
話は少し戻って、2012年6月半ばのお話。
海と順のハネムーンです。
飛行機はいろんなものを置き去りにして飛ぶ。
時間も、湿度も、日常やこだわりも。
空港の一角にピンク色のジュースを持って座っている順は、自分だけが取り残されたような気分になって、ふう、と息をついた。
「順さんは座ってて?」
海は空港に着くなり水を得た魚のようになって動き出し、スタンドで順にグアバジュースを買ってきて座らせると、さっさと荷物を取りに行ってしまった。心許ない様子で順は辺りを見回す。
突然広がる異空間。
アロハシャツ、ハイビスカス、吹き抜けにそびえ立つ椰子の木。
明るく浮き立った雰囲気に気後れしてしまう。高校の時に母を亡くしてからというもの、働きづめで旅行など行ったことのない順は戸惑うことばかりだ。
飛行機でひとっ飛び、ここは梅雨明け宣言したばかりの沖縄。
ついさっきまで東京の人いきれの中を歩いていたというのに。
この旅の計画は全て海にお任せだ。どこに泊まるかすら順は知らない。
新婚旅行と言っても長く店を留守にするわけにもいかず、定休日の火曜を含めて順が何とか捻出した日程は2泊3日。海はしかたない、という顔をして、
「じゃあ、行き先やプランは俺が決めてもいい?」
と譲歩した。特に希望のなかった順はそれを承諾したのだった。
熱帯魚の泳ぐ水槽を見ながら空港のロビーを出ると、潔い陽射しがふたりを射るように出迎える。
「いいね、沖縄に来た、って感じ」
海はがらがらとふたつのトランクを引っ張って歩き出した。順の小さなトランクとその倍以上ある海のトランク。その大きさに思わず順が「いったい何が入っているの?」と尋ねたほど。
「……秘密」
彼は嬉しそうに微笑む。その笑顔を見て思い出した、これはホワイトデイの時に持ってきたあのトランクだ。順の家に泊まりに来た海が大荷物を持ってきたと思ったらホームベーカリーや材料が入っていて、翌朝焼いてくれた自家製のパネトーネ。その中に仕込まれていたおもちゃの指輪にかこつけて、海は本物の指輪を差し出して言ったのだ。
結婚してよ、順さん。
ずーっと一緒にいたい。
わかってるでしょ。
あなたじゃなきゃ、俺は駄目なんだよ……。
あれがわずか3ヶ月前。今でも思い出すと身体の芯がきゅうっとなってしまうほど照れくさいプロポーズ。
器用でスマートで、どこまでも順に甘い5つ年下の彼。彼といると自分の弱さを痛切に自覚する。甘やかされるのに慣れて、彼なしでは何も出来なくなりそうで。
母親が他界してから、誰に甘えることも出来ず、ずっと気を張って生きてきた順。そこに突然現れた海は、ひたすらに順を慕い、頑なな態度にも怯まず惜しみなく愛を注いでくれた。いつしかどっぷりと海の愛情のはちみつ漬けのようになってしまい、身を包むとろりとした金色の甘さを持てあましている。父親と共に挙げた結婚式も、全て彼のおかげ。彼の妻になったという事実が未だに信じられない。
『順さん』。
彼に呼ばれただけで反応して胸が疼く。本当にどうかしてる。
——海という海に、溺れてる。
「どうしたの、順さん?」
長い身体を折り曲げて、鼻先が触れるほど近くに海の顔。照れて順が後ずさると、海は順の背に手をあてて阻止した。
「いいじゃない。順さん、ここは沖縄。知ってる人なんかいない。しかも俺たち、ハネムーンに来てるんだよ?」
と甘く微笑む。
「ハ、ハネムーン?」
柄じゃない。自分のことじゃないみたい。
「そ、だから……」
そう言いながら、順の唇にちょん、とキスをした。
「……!」
「こーんなことをしても、許される」
いたずらっ子のように笑う彼に、順は真っ赤になって抗議する。
「許されないわよ! なんでそんなに浮かれてるの!」
「そりゃあもう! この世の春って感じ? ふたりで沖縄に来られるなんて。順さんはうれしくないの?」
「う、うれしいけど、何もかも初めてで、余裕がないっていうか……」
「任せてよ。俺、生まれる前から沖縄に来てるから」
海は胸を張った。
彼の両親は、大学時代の沖縄旅行で知り合ったのだという。沖縄の海辺の美しい砂からとって、海の姉の名前は“美砂”。その後結婚5周年で出かけた沖縄のバカンスベイビーが“海”。文字どおり沖縄の海からもらった名前だ。以来何かにつけ旅行と言えば沖縄の青木家。今回のハネムーンもすぐに沖縄と決めた。
今回泊まるのは海辺のリゾート。その中にある独立したコテージのひとつを借りているという。リゾートの車が迎えに来て何組かの客と一緒にふたりを案内する。敷地内に入ると椰子や芝生の緑の中に白い小さな建物が幾つも並んでいた。この中のひとつなのかな。しかし次々とお客を降ろして、ついには純と海だけになり、車はさらに進んで奥に向かった。こんなに敷地が広いのにも驚く。かなり海寄りに進んで車は止まった。
そこの一角にある5棟ほどしかない建物は、明らかに先程の白い建物とは格が違っていた。コテージというが高級な別荘と言うのがふさわしい佇まい。木と石を組み合わせたエスニック風の落ち着いた造りになっている。鍵を開けてもらい、中に入ると。
「すごい……」
順は息を飲む。ブラウンを基調をした部屋は豪華なタペストリーとピンクの蓮の花が飾られている。木の形を生かした雲のような形のぶ厚いテーブルの下は掘り炬燵のようになっていて、大きな生成りの座椅子がしつらえてあった。その奥に、もう一部屋。そこが寝室になっていて設えてあるのはフレームがマホガニー色のキングサイズのローベッド。海岸を見渡せるベランダには緑のパラソルが立つ木製のテーブルセットと、真っ白な広い浴槽。食事は中央のレストランに食べにいくかルームサービスも選べる。海岸へもすぐで、コテージから水着で歩いて行けるという。
「どうぞごゆっくりおくつろぎください」
従業員がそう言って下がると、すぐに順は海に詰め寄った。
「こんな贅沢なところ! 高かったでしょ?」
海は順の唇に自分の人差し指を当てた。
「順さん、野暮な事言わない。一生に一度だよ? それだって海外に一週間なんて人たちよりはかかってないから……たぶん」
「たぶん、て」
順は心配そうに海を見上げた。だからここのところ無理して夜勤を多く入れてたんだ。自分も夜働いているからって、そんなことにも気付かなかったなんて。彼の言葉を真に受けて任せっきりだった順は反省する。
「心配しないで。それよりうんと楽しんでくれた方が俺は嬉しいな?」
小首をかしげるようなかわいい仕草。いつもほだされてしまう。反則だ。
「……わかったわ」
「ゆっくりしようね? 観光とかマリン・アクティビティとかは二の次。プランなんて、あってないようなものだと思って? 型どおりに動こうとすると疲れちゃうから」
そう言ってからふふ、と笑う。
「なんてね、これ姉貴の受け売り。姉貴たち日程がタイトなのに無理にイタリアに行ったんだよね。また良介さんが真面目だから、姉貴が行きたいって言うとこ、全部回ろうとして。去年のイタリアは6月でも猛暑だったから、結局ダウンしちゃったんだって。挙げ句の果てに姉貴が『成田離婚の気持ちがわからないでもない』とか言って良介さんを慌てさせちゃったんだ」
「あのおふたりが?」
順はふたりの様子を思い浮かべた。会社の同期であったという海の姉夫婦はいつも仲睦まじい。
「うん。だから俺は詰め込みすぎないようにしようと思って。新婚早々、順さんに愛想尽かされないように、これでも必死なんだけど」
「……馬鹿ね」
愛想尽かすなんてあるわけないのに。
「だってさ。やっと手に入れたんだもの」
言い方はかわいらしいが、彼の目は燃えるようだった。
「3日間よろしくね? 俺の……奥さん」
ぶわっと熱が上がる。“奥さん”。そう、そうなんだけど。ああ、もう。自分にこんな時間が訪れるなんて。熱っぽく見つめる海の顔がどんどん近付いて、真っ赤な顔のまま口づけを受け入れる。潮騒の合いの手のように響くリップ音。
さすがに今日の日程を考慮して、不埒に動く手は懸命に制する順だった。
「……順さんのけちんぼ」
唇を離して海は不平を唱えた。